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 貴島家や荒谷みどりと闘うとしても、まずは生活基盤が必要だった。
 両親や美也に頼らないと決めたからには、その日の夜を過ごす場所にも困るのだ。
 持ち合わせの金はわずかだったので、ネットカフェにでも行こうかと思っていたが、宗田が事務所設立を誘われているという先輩に連絡を取ってくれ、借りたばかりの事務所への寝泊りを許してもらえた。
 梶原という、四十間近の弁護士はとても穏やかな外見をした男だった。
「お話は宗田から伺っていました。貴島家に対する認知訴訟が私の事務所での仕事始めだと思っていましたが、大きな事件になっていると知り、少なからず驚いています」
 落ち着いていて、安心して話せる雰囲気の弁護士だったが、まっすぐに見つめてくる視線の強さが、ただの優しい弁護士ではないと思わせた。
「それで……、訴訟費用のことなんですが……」
 今は無一文に近い。明日から日雇いで働くにしても、弁護費用まで稼げるかどうか不安でいっぱいだった。
 しかし、恭平自身にはいくらか貯金があった。実家に戻らずに闘おうと決めているのですぐには引き出せないが、その貯金と足りない分は親に頭を下げて借りようと思っている。
「しばらくはこの事務所の開設を手伝ってください。正直なところ、人を雇おうと思っていたんですが、捜す時間もなくて困っていたのです。手伝っていただければ助かります。訴訟費用のことですが、実費は後払いで、残りは成功報酬でいいと思っています。この事案で勝てないわけがありません。ですから、当面の生活費はここの手伝いで賄って、他の費用については心配しないで下さい。負けたらとしたら、私がいかにも無能だったということでしょう」
 そう言って笑う顔は、年よりもずいぶん若く見えて、頼りがいがあった。
「ありがとうございます。なんとお礼を申しあげていいのか」
「頑張りましょう。こんな非人道的なこと、許されていい訳がありません」
 冷静なようでいて、思わず熱い所がある人だったようだ。
 握手した右手はその思いを表すように熱かった。
 その日から恭平は開設準備中の事務所に泊まりこみ、届く荷物を受け取り、それらを整理し、梶原の仕事の書類などを整理していった。
 元々は大学で助手をしていた恭平は、それらの仕事をテキパキとこなしていくことが出来た。
 仕事ぶりを認めてくれて、梶原はパソコンも繋ぎ、本格的に開所に向けての作業も増えていった。
 それでも夜中に一人きりで、生活感のない事務所に一人きりでいると、無性に美也に会いたくなってたまらなくなる。
 連絡用にと渡された携帯電話で、ピッ、ピッと美也の携帯番号を押していたりする。
 すべて思い出したときに、美也の携帯番号も思い出した。
 その番号が今も美也の携帯番号だった。美也が携帯を変えずにいたのは、自分からの連絡を待っていてくれたからに違いない。そう思うと胸が痛くなり、涙が零れてしまう。
 会いに行ってやらなければ。そう思うのに、固まったように身体が動かない。
 今会いに行っても、美也を騒動の渦中に巻き込むだけだ。辛い目には遭わせたくない。
 宗田は会わないことこそ美也を苦しめていると言う。それは重々わかっていたが、今まで二年間、苦しませた美也の元には、何の杞憂もない状態で戻りたかった。
 時折、記憶障害に苦しむこともあった。
 ふと目が覚めた時、自分の名前が思い出せない瞬間がある。
 記憶の混濁があったり、何も思い出せない状態になったりする。
 時には、自分は本当は荒谷保で、美也のために御子柴恭平だと思い込もうとしているのではないかと疑ったりもした。
 頭痛と吐き気に悩まされる夜も多かった。
 梶原の好意でカウンセリングを受けるようになり、症状は軽くなってはいたが、真実、恭平を助けたのは、あの黒いノートに書き込まれた美也の見えない文字だった。
 ブラックライトを買い求め、後遺症に悩まされる夜には、ノートを開いて自分の文字ではなく、美也の書いてくれた光る文字を読み続けた。
『恭平が17歳、俺が15歳。はじめて会った。』
 荒谷保が21歳のページに、二人の出逢いが書かれていた。
『容姿の事でからまれていた俺を、恭平は守ってくれた。
 一目で恭平のこと、好きになったんだ。』
『恭平20歳、俺が18歳。俺は恭平を追って同じ大学に入った。
 恭平は以前と同じように優しく接してくれて、俺は泣きたいほど嬉しかった。』
『恭平21歳、俺19歳。恭平に好きだと告白した。
 きっともう嫌われると思ってた。
 でも、気持ちを隠すことが出来なくなっていたんだ。
 なのに受け入れてもらえた。泣き出した俺を、恭平は本当に優しく抱きしめてくれた。』
 保の年代に二人の年齢が書き込まれていっている。
 暗い部屋に青いライトが灯る。
 きらきらと光る文字を追いながら、崩れそうな自分を立て直す。
 いつも俺は美也に支えられている。
 美也から恭平を好きになったように表記されているが、一目惚れなのは同じなのだ。
 ただ、美也が恭平を知る前に、恭平は美也を見ていた。
 2学年下に入ってきた綺麗な男。同じ学年の男達は、まだ絡むことでしか付き合えないようだった。その幼さに割り込むのは簡単だったのだ。
 ただし、美也は想像していた以上に自分の容姿にコンプレックスを抱えており、男からの愛情を受け入れられるとは思えなかった。
 だからただ守るだけに徹し、優しい先輩を演じ続けた。
 ……どうして忘れていたのだろう。
 ……どうして忘れられたのだろう。
 こんなに美也のことが大切だったのに。
『恭平24歳。貴方がいなくなった。
 どこにもいない。』
 おぞましい事件。
 あの夜の事を思い出せば、吐き気が襲ってくる。
 けれど目を背けてはいけない。
 夜、歩道橋で座り込んでいた荒谷みどりに声をかけた。
 鍵をなくして困っていると訴えられ、一緒に探してやろうと植え込みを覗き込んだ。
 後ろから殴られて意識を失い、気がついたときはみどりの車に乗せられていた。
 下ろせと要求すると、息子のふりをしてくれと頼まれた。
 運転しながらも半狂乱で自分の身の上を話す女。
 本物の息子はどうしたのだと尋ねると、血走った目でわけのわからないことを喚く。
 これは尋常ではない、どこかで車を飛び降りようとした矢先、中央分離帯が目の前に迫っていた。
 事故の記憶。強い吐き気と頭痛をもたらす。
 それでも思い出しながら記憶を繋ぐことで、記憶障害は少しずつ改善されていった。記憶が正常に戻ることで、精神的な圧迫が薄れていったのだろう。
 離れている今も美也に助けられている。
 それでくじけそうになる気持ちを立て直すことが出来た。
「美也……会いたいよ」
 固いソファーベッドに寝転んで呟く。
「きっと、きっと、俺は……戻るから」
 目を閉じると、美也の笑顔が浮かんだ。
 そして事務所に住み始めて一ヶ月。
 開所の日を三日後に迎えたその日、梶原が慎重な面持ちで告げた。
「荒谷みどりと面会します。一緒に来てください」
 ごくりと息をのんだ。



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