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 待ち合わせたのは宗田のマンションだった。
 宗田は貴島の顧問弁護をしている事務所の弁護士なので、個人的に会うなら場所が限られてくる。
 人目を気にする恭平も、マンションで会うことに異存はなかった。
「河合さんとおっしゃる方が訪ねて来られました」
 会うなり宗田に告げられた。ドキッと胸が強く打ちつける。
「荒谷保さんから連絡があれば教えて欲しいとお願いされました。そしてこの写真を預かりました。この写真は事務所でコピーしてきたものですが。御子柴恭平という人を探しているそうです」
 恭平の写真だ。二年半前に撮ったものだ。美也と一緒に出かけた横浜の帆船がバックに映っている。
 にこやかに笑う男は、今の自分とはずいぶん違う。多分、この写真を見せられても、保と同一人物だとは思えないのではないだろうか。
「俺が御子柴恭平です」
 電話では詳しく話せなかったことを、いきなり打ち明けることになった。
 宗田が目を見開き、じっと恭平を見つめる。
「それは……」
「話は長くなります。でも、まず、俺が御子柴恭平であることを信じてもらわないと、今から話すことを益々信じてもらえないと思います」
 宗田は写真と本人を見比べ、しばらく口をつぐんだあと、とりあえず話を聞かせてくださいと、向き合って座った。
「まだ部分的に記憶にあやふやなところがあります。思い出そうとすると頭痛がしたり、ひどく疲れたりします。けれど悠長なことは言ってられない。俺は一日でも早く、御子柴恭平に戻りたい。だから思い出せたこと全てを話します。話すうちに思い出して追加したりするかもしれないし、順番が逆になったりするかもしれませんが、とにかく、俺の話を聞いてください」
 これは本当に話が長くなるとわかったからか、宗田は上着を脱ぎ、ネクタイを解いた。飲み物をキッチンから運び、恭平にもそれを勧めた。
「まずはこれを見てください」
 宗田が再び座ったところで、恭平は黒いノートを宗田に見せた。
 ノートを受け取った宗田は表紙をめくり、そこに書かれた細かい文字に目を眇める。
「二年半前に事故に遭いました。目覚めた時、俺は記憶を失くしており、母だと名乗る人物が俺に語った荒谷保の人生です。生まれてからの出来事を詳細に語って聞かせられました。同じ車に乗っていた女が母親だと名乗り、息子について説明するのですから、疑う者なんていません。そうして俺は、荒谷保という人間にならされました」
 眉間に深い皺を刻み、宗田はノートを1ページ1ページ、ゆっくりとめくっていく。だんだんと険しい表情になっていく。
「これは……。これを書き留められたのは?」
「俺です。事故のあと、記憶を失くしたといわれ、説明されても覚えられなくて、思い出すことも出来ず、ノートに書いておくことにしたのは俺です」
 書いていくことで、思い出したような気持ちになっていた。
「ここまで詳しいと……、私でも顔を隠せば荒谷保になれそうですね」
「なれました。実際、私はそうやって二年以上を暮らしてきました」
「しかし……」
 ひとまずノートを閉じて、宗田は深い溜め息をついた。
「どこから信じればいいのか」
 戸惑いながらそう言うと、恭平はうんと頷いた。
「すぐには信じてもらえないと思います。俺だって、今の自分が御子柴恭平なのか、荒谷保なのか、あやふやなところがあるのも事実なんです。でも、俺は御子柴恭平なんだ。教えられていない過去の記憶を持っている。だから俺は御子柴恭平に戻りたい。頼れるのは宗田さんしか思いつかなかったんです」
「いや、待ってください」
 宗田は手を差し出して恭平の勢いを止めた。
「貴方が御子柴恭平さんだったのなら、私になど頼らずとも、貴方を探しておられる方がいる。ご家族もいるのでしょう? 家に帰られたほうがいい」
 当然のことを言われて、恭平は俯いた。
「美也が……、弟と一緒にいたんです」
「弟さんというのは、河合さんと一緒にこられた背の高い男の人かな」
 多分そうだと思うと恭平は頷いた。
「美也と俺は……」
 隠していては話が進まないからと、恭平は思い切って打ち明けることにした。
「俺たちは恋人同士だったんです」
 沈黙が落ちる。けれどすぐに宗田は急ぐように尋ね返した。
「え? お付き合いされていたのは、荒谷さんと河合さんですよね?」
「違います。……美也は俺を探して、どうにかして居場所を突き止め、俺の記憶が入れ替わっているのを知り、まったく初めて会う人間として、荒谷保の前に現われたんです」
 どうして……と、宗田が呟くのが聞こえた。
「美也はとても献身的に保に接してくれた。きっと、記憶障害に悩む俺の身体を心配してくれたのだと思います。どんなに苦労して捜してくれたのか、別人の保に対しても親身になってくれた。俺の家族と美也は、俺がカミングアウトしてから絶縁状態で、美也に対しても酷いことをたくさん言ったのに、美也はその家族と協力してくれた。どれだけ我慢させていたのだろう、それを考えると本当に申し訳なくて」
「だからこそ、すぐにも名乗り出た方がいいのではないですか?」
 恭平はゆっくりと首を振った。
「全てにけりをつけたい。何も心配しなくてもいいようになってから戻りたいんです。御子柴恭平として、あいつの前に笑顔で戻りたい」
 本音を打ち明けると、宗田は納得できない風でありながらも、ふうと息を吐いて頷いてくれた。
「では、御子柴恭平さん、貴方はこれから何をしたいのですか? 何を私に望まれますか?」
 真剣な眼差しに見つめられ、恭平はごくりと唾を飲み、ぎゅっと両手を握りしめた。
「俺の身辺保護、荒谷みどりに対する二年半にわたる騙された生活の慰謝料。そして貴島正次、塚田愛の俺に対する傷害事件の告発です」
 誰も許さない。
 一人の男の人生を二年半にわたり狂わせた女と、命を奪おうとした一族。
「俺はあいつらにまだ荒谷保と思われているかもしれない。そして命を狙われている。俺は証拠はないけれど、貴島正次も塚田愛の姿を見ています。俺自身が証人です」
「私は……貴島家の顧問弁護事務所の一員です」
 苦しそうに告げる宗田に、縋る目を向けた。
「俺には、頼れる人が宗田さんしかいません。まだ荒谷保だと思っていた頃、保が認知してもらえるよう尽力しようと言ってくださった。あの言葉は嘘だとは思えません」
 じっと動かない宗田を、恭平は祈るような気持ちで見つめる。
 やがて、決心したように宗田はすっと立ち上がった。
「宗田さん……」
「先輩に連絡します。私ではすぐにお役に立てない。けれど以前にも話したように、私の先輩は今事務所を立ち上げようとしています。彼なら力になってくれるでしょう。私もすぐには動けなくても、なんとか協力できるようにします」
 見つめてくる瞳は澄んでいて、力がみなぎっている。
「ありがとう……ございます」
 恭平は立ち上がり、深く頭を下げた。
「頑張りましょう。一刻も早く、貴方が家族や愛する人の元に戻れるように」
 俯いた足元に涙がポツリと落ちるのが見えた。
 まだ戦いはこれからだ。これからの道のりは険しく、それでも暗くはなかった。道の向こうには光が見える。
 美也が灯してくれた光だ。美也の光が恭平を導いてくれる。
 きっと帰るから。
 ……もう少しだから。
 頼むから待っていてくれ。
 目を閉じると、美也の笑顔が浮かんだ。



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