XXX 34 XXX






  XXX XXX XXX

  暁けの星は光の矢を放ち
  太陽を空に導く

  君が放った矢は
  光の尾を曳き 夜を切り裂いてゆく

  XXX XXX XXX


 夢の中で美也が泣いていた。
 泣くなよと声をかける。
 誰が泣かせたんだと腹が立った。
 美也は泣きながら彼を指差した。
『俺? 俺は泣かせたりしないよ!』
 けれど美也はハラハラと涙を流し泣き続けている。
『ごめんな、美也。泣くなよ、泣いてくれるなよ、なぁ、美也』

「美也……」
 目が覚めた途端、名前が口に出た。
 それで実感できる。自分は御子柴恭平なのだと。

 事故のあと、病院で目覚めた時、一時的な記憶の混乱が起きて、自分が誰なのかわからなくなった。
 記憶喪失。その言葉が真っ先に出てきて、脅迫されているようにノートを見なければと強く思った。
 ノート。そこに自分の名前が書かれている。今までの自分の全てが記録されている。
 それを見れば思い出せる。
 なのに、自分の名前一つを思い出せない。
 ようやくノートを見て、目に映った自分の名前に違和感があった。他人の名前を見ているような、活字としての存在でしかなかった。
 戸惑っているとき、ノートの上を斜めに光が走った。
 その光に浮かび上がっては消える青白い文字が見えた。
 看護師の持っていたライトを貸してもらい、その文字をちゃんと読んだ。
『貴方の名前は御子柴恭平です』
 ズキリと痛みがこめかみを刺す。
 恭平……。呼ぶ声に聞き覚えがあった。
 同時に記憶の波が一気に押し寄せてきた。
 恭平。恭平。……恭平。
 登場人物が彼を呼んだ。
 父が、母が、弟が、妹が。そして友人達が。
 その最後に恭平を呼んだ人物は、あでやかな笑顔を向け、とても愛しげで、嬉しそうで、楽しそうで、なのに悲しそうに恭平の名前を呼んだ。
 あぁ、美也。
 その名前を口にすると、背筋がざわりと粟立ち、テレビ画面が乱れるように違う記憶が切り替わった。
 保さん。
 今までの記憶より寂しげな美也がその名前を口にする。
 また頭痛が襲ってくる。
 自分は誰なのだ。
 頭を振る。
 ぎゅっと握りしめたペンライトを、震える手でノートを照らした。
 荒谷保の人生にかぶさるように、御子柴恭平の生い立ちが書き込まれていた。
 ズキン、ズキンと身体を揺らすような激しい頭痛に耐えられなくなって、ノートを閉じた。
 自分はどちらなのだ。誰なのだ。
 考える余裕は彼になかった。判断できるだけの精神力も持ち合わせてはいなかった。
 出来ることと言えば、この場に残っていれば、荒谷保として会社に連絡され、荒谷保として保護してくれる誰かが来るだろうということだ。
 違うのだと言って、誰が信じてくれるだろう。
 思い浮かんだのは美也の顔だった。
 美也が全てを知っている。
 けれど同時に不安が押し寄せてくるのだった。
 自分は本当に御子柴恭平なのだろうか。
 御子柴恭平になりたいと思ったことはなかったか?
 わからない……わからない……。
 自分を見失う恐怖に身体が震えてくる。
 このままだといけない。
 その気持ちのままに、彼はベッドを降りた。
 ひやりとした床の感触。
 病院が用意したパジャマを着ていたが、自分の洋服はロッカーにあった。
 打ち身のある身体は痛かったが、なんとか着替えて、ノートを手に病室を出た。
 荒谷保として生かされるのはもう嫌だ。
 だが、御子柴恭平として生きていける自信もなかった。

 行くあてのないまま病院を飛び出した。
 身体は痛むし、頭痛は引かないしで、よほど覚束無い足取りに見えたのだろう、同じ病院から出てきた初老の女性が声をかけてくれた。
 家が近くだからすこし休んでいけばいいと声をかけてくれ、色々と判断するだけの余裕もなく、ついていってしまった。
 誰に連絡を取ればいいのだろうか。
 女性は本当に病院の近くに一人住まいで、温かいお茶を出してくれた。
 祖母の年齢に近い彼女は、始終穏やかで、素性の知れない男を家に入れたりしたら危険だと言ってみたが、人を見る目はあるのだと取り合わなかった。
 夫に先立たれ、子供のいなかった彼女は、親兄弟も亡くして本当に一人きりだから、別にここで殺されてもいいのだと達観したように笑う。
 貴方こそ年寄りを見くびっていたら身包みはがされるかもしれないわよと笑う彼女に、何故か彼は自分の身の上に起きたことを話し始めていた。
 話すうちに、それまでごちゃ混ぜになっていた記憶が、ようやく一つの形をとり始めていた。
「親御さんのところに帰りなさい。どんな状態の貴方でも、親御さんなら受け入れてくれるわ」
 彼女の言うことに頷きかけた彼は、二人の母親を思い浮かべた。
 御子柴の母と、荒谷の母。
 老婆の言う母のイメージは御子柴の母のものだ。だが、荒谷みどりは違う。保を自分の駒として使い、従わなければ罵詈雑言と涙で従わせようとする。
 恨みは強い。だが、他人として見れば、彼女も気の毒だと思えた。決して許せる気持ちにはなれなかったが。
 落ち着いて考えて、ようやく自分のなすべきことが見えてきた。
 彼は老女の家で電話を借りて、弁護士の宗田に連絡をとった。
 日は既に暮れており、宗田のところにも保失踪の連絡が入っていたそうだ。
 簡単に説明できることではなかったが、どこにも知らせないで欲しいと頼み込み、一人で会ってくれることを頼み込んだ。
 じっさい、彼以外に頼れる人を、今の彼は持たないのだ。
「大丈夫なの? 困ったらまたいつでも寄ってちょうだい」
 心配な顔で送り出す彼女に、彼はきっとすべて片付けて、お礼に来ると約束した。

 御子柴恭平に戻るため。
 彼は迷わないと決意をこめて歩き始めた。



 xxx xxx 33 xxx 35 xxx xxx