XXX 32 XXX 歩き疲れて棒のようになった足を引きずりマンションへと帰り着いた美也は、開けたドアの向こうに冷たい空間だけが広がるのを見て、こぼれかけた溜め息をぐっと飲み込んだ。 二日前にようやく退職願が受理され、引継ぎを済ませてきた。 半年勤めただけの会社に、退職金などは出ない。 それなりに成績は良かったので一応の慰留はされたが、それほど強いものではなく、簡単な手続きで辞められた。 定時に会社を出たが、帰宅が午前零時に近くなったのは、荒谷保の立ち寄りそうな場所を探し回ってきたからだ。 けれど、探す場所はとても少ない。 二年半前に御子柴恭平の消息を探し回った時に比べれば、呆気無いほどに少ない。 入院していた病院、荒谷みどりの病院、弁護士事務所、そして貴島家。 どこにも保の立ち寄った形跡は無かった。 文字通り消えてしまった。 ダイニングの椅子に座り込むと、もう立ち上がるのさえ嫌になってしまう。 身体は疲れきっていて、考える気力さえ起きてこない。 「……恭平」 名前を呼べば、途端に涙が溢れ出す。 やはり間違っていたのだろうか……。 どこが間違っていたのだろうか……。 他に良い方法があったのではないのだろうか……。 繰り返しても答えの出ない後悔を、また止め処なく繰り返す。 嗚咽が洩れそうになって、慌てて両手で口を覆う。 明日からは一日を、彼を捜すためだけに使える。そう言い聞かせても、気力はわいてこなかった。 誰を捜せばいいのか。 奇しくも大介に言った言葉が、美也を途方に暮れさせる。 御子柴恭平を捜せばいいのか、荒谷保を捜せばいいのか、それすらわからない。 じっと睨むようにテーブルの木目を見つめていた時、部屋のインターホンが鳴った。控え目に一度。 美也は弾かれたように立ち上がり、玄関に走った。 ダン!と思い切り開けたドアの向こうにいたのは、期待した人影ではなかった。 「あ……悪い」 勢いよく開いたドアに驚いた大介は、美也が何を期待してドアを開けたのかを知り、申し訳なさそうに謝った。 美也は裏切られた期待に落ち込みながらも、大介を部屋の中に招き入れた。 「何? 何か用?」 冷蔵庫を開けてみるが、買い物にも出かけていない状態では、出せるものは何もなかった。 「あのさ、親と相談してきたんだ」 言い難そうに大介が口を開く。 「相談? 俺が消えたら、恭平が帰ってくるだろうから、消えてくれって言いに来た?」 厭味っぽく言うと、大介の顔が引きつった。 二年半前、御子柴恭平はある日突然、消息不明になった。 自分に言わずに消えるはずがないと、美也は必死に探そうとした。 恭平が立ち寄りそうなところ、知人、友人、場所、駆け回る美也に、恭平の両親は嫌悪を露にして言い放った。 お前が嫌になって恭平は消えたんだ。別れてやってくれ。 捜索などみっともないこともしてくれるな。余計に戻り辛くなる。 お前が消えてくれ。そうすれば恭平は帰ってくると。 その言葉に傷ついた美也も、あるいは恭平がそれを望んで消えたのではないかと、疑心暗鬼になった。家族には連絡を取って、美也が消えるのを待っているのではないかとすら疑ったときもあった。 けれど美也に残された腕時計が心の支えになった。 二人で揃えた腕時計は、結婚指輪に代わる品物だった。お互いに贈り合い、片時も離さないと誓った約束の物だった。 あの日……出かけ先で美也の時計が故障し、ないと困るだろうと恭平が自分の時計を貸してくれた。 大学の研究発表で出張しなければならなかった美也は、確かに時計がないと困るので、深く気にも止めずに恭平の腕時計を借りた。自分には少し大きめのその時計を。 この時計を裏切るはずがない。 そう信じて、恭平を探し続けた。 「あの時は……悪かった。……親父もお袋も、美也には謝りたいって言ってるんだ……だから……」 大介は美也の美しい横顔を見て、唇が震えているのを知り、続ける言葉をためらった。 「だから? 俺に別れてくれって?」 どうしても思考がそこへいってしまう。 「違うんだ。俺たちも美也には申し訳ないって思ってる。美也が恭平を見つけてくれて、記憶喪失になっている恭平の状態を調べてくれて、恭平の記憶を取り戻すために頑張ってくれたことをありがたいと思ってる」 美也が二年がかりで恭平を見つけたとき、彼は別人になってしまっていた。 しかも、あのノートのために、別の人物の記憶を植えつけられ、それを信じ込んでいた。 あまりにも自然に荒谷保として生きている彼を見た時、そっくりな人なのかとあきらめたほどだった。 けれどどうしても別人とは思えずに、色んな文献を調べ、専門家に尋ねたところ、一つの病名が浮かび上がった。 『過誤記憶シンドローム』 記憶が曖昧な状態のときに、詳細な記憶を教え込まれると、あたかも自分の記憶のように刷り込まれてしまうことがある。 そんな状態の彼に、本当は御子柴恭平だと打ち明けたところで、混乱をきたし、精神的な弊害さえ生むこともあるといわれて、美也は自然な形で保に近づき、恭平の記憶を呼び覚ますことを試みようとした。 その時にあのノートの存在を知らされた。 黒いノートが恭平を抑え込み、保の記憶を消させないのだ。 しかしそれは、恭平の家族のためにしたことではない。自分のためだ。自分の手に恭平を取り戻すためだ。 「だから……。もう一度恭平を探してくれないか」 ズキリと胸が痛んだ。 言われることはわかっていたが、痛む胸と疲れた身体が感情を逆立てた。 「探してくれって? 俺が消えれば恭平が戻ってくるって言ったのは、そっちだろう!」 それは昔のことだ、今は言ってない……とは言えずに、大介は息を呑んだ。 「俺がどんなに探しても、何もしてくれなかっただろう!」 抑え込んでいた感情が噴き出す。 「今度は俺も手伝う。何でもする。親は金も全部出すって言ってる……」 「バカにするな!」 大介の申し出は美也の怒りを倍増させただけだった。 「何でもする?! 金を出す?! そんなことで恭平が戻ってくるんなら、とっくにやってる!」 「美也……」 「警察に捜索願を出せば、痴話喧嘩だろうと笑われて。男の君から逃げるために行方をくらませたんだろうと揶揄されて、捨てられたんだよって決めつけられて。それでもなんとか捜索願を出したら、年齢が近いだけ、身長が同じくらいってだけで、身元不明の死体を見せられるんだ。その度に、どうぞ恭平じゃありませんようにって祈って、腐りかけた死体を見に行くんだ。一度でも行ってくれたことがあるのかよ!」 「今度からは俺が行くから」 大介も必死だった。 彼も兄を探しはした。けれど美也ほど必死にならなかったのは、実のところ、心のどこかで男と別れるために逃げているのではないかと、軽く考えていたところがあったためだ。 すぐに見つかると思っていた兄が、半年、一年と経っても見つからなかったあたりで、これはあまりにもおかしいと焦り、その頃に美也と接触をとったが、その時には美也のほうが頑なになっていた。 それでもそれから一年が経ったときに恭平を見つけ出し、家族に報告に来てくれた。 だからこそ、今度も家族は美也に期待してしまうのだ。 あの時にどの様にして恭平を見つけ出したのか、その方法を知っている美也に縋るしかないのだ。 美也が大学を休学し、恭平を探してくれた二年間、何も援助できなかった御子柴家は、会社を辞めた美也に、経済的な援助も惜しまずに、捜索にかかわろうと決めたが、それはかえって美也の怒りを増加させただけだった。 「もう一度俺に同じことをしろって?! 冗談じゃないっ! 俺はもう嫌だ」 「美也、頼む。俺たちは美也に頼るしかないんだ。せめてどこで恭平を見つけたのかだけでも教えてくれ」ろ なんとか宥めようと美也の腕を掴んだが、それは嫌悪感をたっぷりに振り払われた。 「そんなことわからない! もう放っておいてくれよ! あんた達はあんた達で探せばいい。俺はもう知らない!」 ドンと胸を押され、大介は一歩、二歩と下がる。 「帰ってくれ」 涙の滲む瞳に睨まれて、大介は引き下がらざるをえなかった。 「今夜は帰る……。何か……どんなことでもいい、出来ることがあれば言ってくれ。俺たちも恭平を探す。何かわかったら、必ず知らせるから」 背中を向けた美也に言うだけは言って、大介は部屋を出て行った。 美也は力なく床に座り込み、今度は隠せずに嗚咽を漏らした。 「……恭平……恭平…………恭平……」 何度も名前を呼ぶ。呼べばどこかで答えてくれるような気がして。 |