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 河合美也は病院の廊下を小走りに病室に向かっていた。
 彼が美也の部屋を出て行ってしまって二日、連絡を取れずに思い悩んでいたところ、病院から会社に電話がかかってきた。
 荒谷保さんの家族と連絡が取れない、アパートの管理会社に問い合わせて会社がわかったこと、交通事故に遭い病院に運ばれたと説明を受けた。
 電話を受けたのは営業部の部長だったのだが、本社に連絡を入れたほうがいいのかどうかと迷っていたので、美也が様子を見に行き、その上で連絡をすると申し出た。
 彼の命が狙われている。居ても立ってもおれずに会社を飛び出してきた。
 諍いなどするべきではなかった。うまく誤魔化して側を離れるべきではなかったと後悔しても遅い。
 建築現場での事故、街中での刺傷事件があったというのに、つい感情的に言い争いをしてしまった。そして彼を傷つけ、遠ざけてしまった。
 気持ちを押し殺し、彼の側に居るべきだった。貴方だけだと嘘をつくべきだった。
 そうすれば事故になど遭わなかっただろうに。
 電話によると、幸い命に別状は無いそうで、それだけが病院に向かう美也の支えになっていた。
 ここに来るタクシーの中で大介には電話を入れておいた。二日前に喧嘩をしたことは伏せて、彼が事故にあって病院に運ばれていることを知らせた。
 大介は絶句していた。
 そして自分もまた病院に行くと言ってくれた。
 病院の前で大介が来るのを待ち、二人の間にあったことを正直に話そうかと思ったが、病院が見えれば足は勝手に病院の中に向かった。とにかく顔を見なくては、とても落ち着けそうになかった。
 受付で病室を聞き、エレベーターのドアが開くのももどかしく廊下に飛び出た。
 案内を頼りに病室を探した。
 部屋はすぐにわかった。入り口に掛けられていた名札を確かめ、開いたままのドアからそっと中を確かめた。
 入り口脇の右手に彼はいるはずだったが、ベッドは空っぽだった。
 嫌悪の表情を見せられるか、来ないでくれと罵られるかと怯えていた美也は、少しばかり拍子抜けしながらも、どこに行ったのだろうかとベッドの足元に立った。
「荒谷さんのご家族の方ですか?」
 廊下を通り過ぎようとしていた看護師が気付いて立ち止まった。
「いえ……同僚で、友人です」
 他に説明のしようがなく、口ごもりながら告げると、看護師はほっとしたような、それでいて落胆したような顔になった。
「荒谷さんは……検査でしょうか?」
「ご家族に連絡がつかないんですが、ご存知じゃないですか?」
 美也の質問には答えてくれず、反対に問われる。
「ご家族はお母さんだけで、今は少し離れた病院に入院されているんです」
「他にご家族は?」
「……いませんが……何かあったんでしょうか」
 電話では詳しい説明はされなかったのだが、もしかして状態が悪くなったりしたのだろうか。美也は血の気が引く思いをした。
「それがですね、荒谷さんが、居なくなってしまったんです」
「え?」
 信じられないことを言われて、目は抜け殻となったベッドに移っていく。
 枕は平に整えられ、シーツは綺麗に張っている。人が寝ていた気配はない。
「今朝、会社の人に連絡がつきましたと話をしたんですけどね。その後、昼食をお持ちしたときから姿が見えなくて」
 困ったように言われても、美也も理解しようとするだけで精一杯だ。
 美也は無意識のうちに腕時計を見た。
 左手を持ち上げて、文字盤がずれているのを直して、時間を見る。
 午後二時。それでは彼がいなくなってから、もう二時間以上がたっていることになる。
「病院内にはいないんでしょうか」
「着替えて行かれたんですよ。病院でお貸ししたパジャマを畳んで置いてありました。他に荷物もなくなっているんです。帰られたとしか思えないんですけど、家にもやっぱり連絡がつかなくて」
 眉を寄せる看護師に、内心では苛立ちながら、一番気になっていることを尋ねた。
「容態はどうなんですか? 出歩いたりして大丈夫なんでしょうか」
「あぁ、それはね、軽いうち身ぐらいだったんです。昨日気がつかれた時は、ちょっと記憶の混乱が見えて、頭も打たれたのかと心配したんですけど、ちゃんと検査した結果、頭部に異常はありませんでしたよ。それよりもねぇ、黙って出て行かれても困るんですよねぇ。交通事故とはいえ、当て逃げで、相手がわからないので支払いについての話し合いと、今日は午後から警察の人がこられるからって伝えたんですけど」
 よほど抜け出されて困っているのだろうが、言葉の各所に病院に責任はないことを匂わせている。
 呆然としながらも、美也は主のいないベッドを見つめるしかできない。
「とりあえず、今日が退院ということにしておきますけれど、ご本人に会われたら、まだ治療が残っていることと、支払いについてお話しがあると伝えてもらえませんか?」
「美也!」
 看護師が立ち去ろうとしたところに、大介が駆けつけてきた。
 突然現われた大介に看護婦はぎょっとしながらも、自分の用事を思い出したのか、病室を出て行った。
「美也、あいつは?」
 大介は空のベッドと美也を見比べている。
「いなくなったって……」
「え?」
「お昼前に、病院を出て行ったって……」
「はぁ?」
 大介はベッドの横に立って、半分に折られていた上掛けを捲りあげた。当然、そんなことをしても誰も隠れているはずがない。
「どこに行ったんだよ」
 脇にあるロッカーを開いても、綺麗に空っぽだ。
 救急車で運び込まれた男が、入院道具など持っているはずがないのはわかっているのだが、あまりにも綺麗に何もなくて、本当に彼がここにいたのかと疑ってしまう。
 枕元に、彼の名前の名札がかかってはいるのだが。
「探さなくちゃ」
「とりあえず、部屋に戻ったんだろう。行くぞ」
 大介に腕を掴まれた。行こうと引っ張られても、何故だが足が竦んで動かない。
「美也? 行くぞ」
「う……うん」
 強く引かれて、転げるように病室を出た。
 一緒にタクシーに乗って、彼のアパートへ向かう。
 ベルを押してみたが中から応えはない。
 預かったままの鍵で開けてみるが、部屋の中はしんとしていて、ここ数日、部屋に人の出入りがあった気配は全くなかった。
「美也の部屋に行こう」
 すぐに踵を返す大介に頷けなかった。
「おい、どうした?」
 大介は……部屋の中で俯いて立つ美也の背中に声をかけた。
「俺の部屋には……来ないと思う」
「どうして……」
 目を細める大介の顔は、兄に似ていないようで、やはり似ている部分がある。特に笑ったときの口元がよく似ているのだ。
 今は二人とも……ほとんど笑うことがなくなっていたが。
「一昨日、喧嘩をした。……恭平が……死んだのかって言われて……つい……」
 しどろもどろに説明をする。悄然と出て行った背中が忘れられない。
 なぜ泣きついてでも止められなかったのか。あの時、無理にでも、真実を話していたら。
 苦い思いがこみ上げてくる。
 大介は難しい顔で聞いていたが、非難はしてこなかった。
「とにかく、行ってみるしかない。他に……探すところなんてないし」
 何を言っていいのかわからないようで、大介は美也を無理にもと連れ出した。
 二人で美也のマンションに戻ってきたが、そこにも彼が来た様子はなかった。
「どこに行ったんだよ……、ったく。一応、あの母親のところにも行ってみるか?」
 聞かれて美也はフルフルと首を振った。め 「早く捜そうぜ。手分けして……」
 大介は目の前の美しい顔が泣き出しそうに歪んでいるのを見て、言葉を止めた。
「おい……美也」
 焦る大介に、美也はぽつりと聞いた。
「俺たちは……、誰を捜すんだろうな……。荒谷保? それとも、御子柴恭平?」
 自分から逃げ出した男は、どちらなのだろう。
 衝かれたように一歩退いた大介は、美也の遠くを見つめる目から涙が一粒零れ落ちるのを見ているだけだった。



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