XXX 30 XXX 一人で夜の街を歩く。自分の家に帰るのが嫌になっていた。 家に帰っても一人だ。冷たく暗い空間が待っているかと思うとぞっとする。 たった今、自ら暖かい存在を切り捨ててしまったというのに。 フラフラとあてもなく歩き回り、深夜の都会の大きな交差点で立ち止まってしまうと、次の一歩を踏み出すのが怖くなってしまった。 明けない夜はない。けれど、どの方角を見ても夜が広がるばかりだ。 どこへ行けばいいのだろう……。 どこへも行くところなどない。 いっそこのまま消え去りたい。自分の存在ごと消せたら……。 厭世的な気持ちになり、一人で立ち尽くす。 手に持ったカバンは重く、嫌でも保という人間の、あるべき場所を思い出させる。 愛し、愛されて生まれてきたはずなのに。 今ではその身が、財産を奪うための道具のように扱われている。 「どこかへ消えてしまいたい……」 消えるような声で夜空を見上げるが、星一つすら見えなかった。 「太陽を導く星か……。そんなもの、あるわけがない」 どこへ行こう。 行くところなどない。 重い足を一歩だけと踏み出した時、ポケットの中で携帯電話が鳴り始めた。 出ようか……、いや、誰とも話したくない……。 その音から逃げ出すように足を進める。 電話の音はすぐに止まった。ほっとすると、同時に寂しさがこみ上げてくる。 一人きりだ。 真夜中、通り過ぎる車もない。 この世に一人きりのような錯覚が襲ってくる。 消えてしまいたいと願いながら、深黒の闇に取り残されると、孤独感に押しつぶされそうだ。 本当に弱い。弱い自分に吐き気さえする。 俯いて歩を進める。どこへでもいい。行けるところまで行って、倒れこむのも悪くしない気がした。 それでも足が向いているのは、結局は自分の部屋だ。 パパーと高い音がした。 こんな真夜中に通り過ぎる車があるのかと思いながら端に寄る。 広い道路なのに、保の脇をすり抜けるように走り過ぎた車は、数メートル向こうで急に止まった。 思わず保の足も止まる。 じっと見つめていると、またゆっくりと走り出し、角を曲がって消える。 なんだったのだろう、もしかして飲酒運転かと怪しんだが、関係ないことだと思い再び歩き出す。 すると、もう一つ向こうの角からゆっくりと車が出てくる。 同じ車か?と目を凝らすと、車は一旦止まり、突然ライトを上向けた。 ハイビームの眩しさに目を細め、顔をそらそうとした時、車が急発進した。 低いエンジン音が響き、タイヤが急な発進に焼けつくような悲鳴を上げる。 こっちに向かってくる。 驚いている場合ではない。逃げろ!と本能が叫んでいた。 ギョルルと軋むタイヤが耳にこだまし、眩しい光がまぶたの裏を焼く。 その光の中に、違うシーンが浮かび上がって、足が止まってしまう。 迫る中央分離帯。肩に食い込むシートベルト。真横に聞こえる女性の悲鳴。 自分も叫んでいた。 「やめろー!!」 激しいクラクションの音と、衝撃音が重なって聞こえ、保の身体は弾け飛んで、地面に叩きつけられた。 ピッピッと鳴る電子音と、独特の消毒の臭いが、最初の覚醒の徴だった。 静寂な中にも、パタパタと響く足音や、潜められた声が少しずつ大きく聞こえてくる。 「気がつかれましたか? ここがどこかわかりますか?」 重いまぶたをゆっくりと持ち上げると、驚くほど近くで声がした。 「びょ…う……いん」 声が喉に引っかかる。 「そうです。車にはねられたんですよ。覚えてます?」 中年の看護師が手首を取って、脈拍を測っている。 「はね……られた?」 ……ちがう。と首をふった。 「覚えてませんか? 車にはねられて、救急車で運び込まれたんですよ。でも、咄嗟に逃げたのが良かったのか、打ち身程度ですからね。良かったですね」 車の助手席で……車が突然横に滑り出して……中央分離帯が目の前に……。 ズキッと頭の奥が痛んだ。 「身分を証明するものをお持ちじゃなかったので、ご家族に連絡を取っていないんです。お名前と連絡先を教えてください。ご家族も帰らなくて心配しておられるでしょうし、保険証とか、持ってきてもらわないといけないですから」 ……名前。 前にも名前を聞かれた。 答えられなくて、頭痛がひどくなって。 そして母親だという人が隣のベッドから名前を告げた。 その名前……。 「あ……」 ずきりと痛みが襲う。 「あ? あから始まる苗字? 名前?」 痛みに耐えられず頭を覆う。 「頭痛がしますか? 頭は打っていなかったはずなんですけど。先生を呼びますね」 ぎゅっと目を閉じると、一人の青年が思い浮かんだ。 綺麗な男。とても綺麗な笑顔を向けている。 その唇が名前を呼ぶ。 名前……。 医者が来て、何かを言ったようだが、落ちるような眠気に誘われて、意識が途切れた。 再び目が覚めたときには、辺りはしんと静まり返っていた。 先ほどのざわめきは救急車で運ばれた処置室で、今は普通の病室なのだろう。 電子音は聞こえなかったが、首をめぐらせると点滴のバッグと管が目に入った。 その向こうにパイプ椅子が置かれ、黒いカバンが置いてあった。 あれはきっと自分の持ち物だったのだろう。 起き上がろうと身体を動かすと、脇腹がみしりと痛んだ。そこを打ちつけたのだろう。 いや、ちがう……。フロントガラスに頭から突っ込んだのではなかったか? 苦労して上体を起こし、カバンに手を伸ばした。 身分証明書のようなものは持っていなかったといわれたが、頭の隅でノートが……と思い浮かんでいた。 わからなければノートを見ればいい。 思い出せなければノートを読めばいい。 そこに全てが書かれている。 カバンの中身は、その黒いノートと、財布とカギ。 きっと財布の中にも免許証などは入ってなかったのだろう。 点滴に繋がれた手をかばいながらノートを取り出したところで、看護師が入ってきた。 さっきと同じ看護師だった。 「よかった。気がつかれたんですね。あまりにもひどい頭痛を訴えられたんで、痛み止めを打ったんですよ。眠っている間にCTとMRも撮ったんですが、異常はなかったですから、安心してくださいね」 落ち着いた口調で言われ、慎重に頷いた。 「名前と連絡先、言えますか?」 黒いノートを開く。 荒谷保。最初に書かれているのがその名前だった。 「あらやさん? あらや、たもつ、さんでいいのかしら」 看護師に聞かれ、しっくりこないながらも頷いた。 「あら、血液型まで書いてあるんですね」 氏名と生年月日、血液型に住所。 看護師の知りたい内容はその1ページ目に書かれていた。 看護師はそれらのデータを読み上げながら、胸ポケットに挿していたペン型のライトを取り出してスイッチを入れ、ベッドの枕元にかけてある名札に光を当てた。 「血液型は合ってますね」 その光が斜めにノートの上を走った。 きらりと光る紙面。 「その……ライトは……?」 「これですか? これはブラックライトって言いましてね、これに対応するインクで書かれた文字を浮かび上がらせることが出来るんですよ。今は個人情報とかうるさいでしょ? 血液型やカルテ番号などはこれで書くようにしているんです。そうすれば他の人には見えませんからね」 そう言いながら、彼女はまだ名前の付いていない名札をそのライトで照らした。 青白い文字で、血液型と主治医の名前が浮かび上がる。 「すぐに名前を記入しますね。連絡先も写させて下さいね。ご家族に電話してきますので」 またライトが流れ、ノートの紙面が光った。 「そのライトを貸してもらえませんか?」 縋るように見つめると、看護師は不思議そうにしながらも、後で返してくださいね、この病室から持ち出さないで下さいねと念を押して出て行った。 震える手でライトをつけて、ノートを照らしてみた。 光の矢を手に入れました。 貴方の闇を切り、太陽を導く、 これが貴方へのポスポロスの矢になりますように。 ここに書いてあるのは貴方の名前じゃない。 思い出して。 貴方の名前は、 御子柴恭平です。 |