XXX 29 XXX 美也が肌身離さずつけていた時計が、相手から贈られた物ではなく、美也が恭平に贈ったのだとわかり、保は呆然とすると共に少し混乱してしまった。 約束が守られることはなかったという相手。普通に考えれば別れた男だと思うところだ。 美也は保の告白を一度は拒み、相手に対して未練を残していることはわかっていた。 綺麗に別れたのだと思っていたのだが、プレゼントされた時計を突き返すような男に、今も未練を抱いているのだろうか。 だから、似ている顔の自分に近づき、慕う振りをして、恋人であることも受け入れようとしたのか。 ガタンとドアが開いて、まだ髪が濡れたままの美也が出てきた。 「いいお湯でしたよ。保さんも入って……」 美しい笑顔が保が手にしている時計を見て、そのままに固まる。 時計の表示板ではなく、裏蓋を見ている事に気づいた美也は、すっと笑顔を消し、何かを言いかけた口を閉じて視線をそらした。 「言い訳をしてくれよ」 自分の声が怒気に満ち、掠れている事がわかっても、平静を保つことはできそうになかった。 「こんな時計を……別れた男に返された時計を、後生大事にして、私から時計を受け取れない言い訳を聞かせてくれないか」 風呂上りの上気した頬は、見る見る白くなっていく。ポタリと足元に落ちた滴が、一つ、二つと増えていっても、美也は口を開かなかった。 「この時計の元の持ち主を、君は今でも好きなのか。忘れられないのか」 顔色を失くし、唇を震わせる美也を目にしても、責める口調は止められなかった。 「どうなんだ。この恭平という男を、まだ好きなのか」 唇を白くなるほどに噛む美也は、答えるつもりがないように見える。 「君は……この男を、忘れるつもりは……ないんだな」 ぎゅっと握りしめた時計を美也が見つめる。 「貴方に……」 ようやく口を開いた美也は、時計を返して欲しそうに、保の手元をじっと見ていた。 「貴方に、ノート一冊分の過去があるように、俺にも同じ重さの過去がある」 ぐっと重い石を飲み込まされたように、息が詰まり、胸が苦しくなった。 何を言われたのかと頭が白くなり、次の瞬間にはかっとなっていた。 「私に記憶がないことを馬鹿にしているのか!」 咄嗟に出た声はかなり大きく、怒鳴り声になった。 黒いノートは保の記憶の全てだった。保のアイデンティティーそのもので、揺らがずに生きていける人生の杖であった。 それを今までも馬鹿にされていたのかという発言に、胸の痛みは赤い憎しみになって腹に渦巻いていく。 「君がこの男のことを過去のことになんてしていないじゃないか」 腹立ちが高まりすぎると、その次には悔しさや悲しさが押し寄せてくることを、保ははじめて味わっていた。 「今もこんな時計を大切にして、携帯だって……」 言いかけてはっとする。時計の存在を知っていることは、家捜ししたことをばらしたのも同じだった。 美也も眉を寄せて保を見あげてきた。 「そこの引き出しを見た。あれは君の携帯じゃないだろう。どうしてそんなものを大切に残しておく……」 グダグダと言いかけて、心の隅に引っかかりを感じる。 約束を守れず、時計や携帯電話といったものが残る。その意味に気づいた。 「この男は……死んだのか?」 形見として譲られたものを大切にする。忘れろと言っても、喧嘩別れしたのでなければ、それはなかなか難しいだろう。しかも……。 「恭平は死んでなんかない!」 ところが思わず強い反発が美也から浴びせられた。 「恭平は……、恭平は、必ず戻ってくる」 溢れる涙が、真っ赤な目が、保を睨みつける。 忘れられない相手がいる。その男に似た男が現われたら……。 「過去なんかじゃないんだな……、君は、今も、恭平を愛しているんだな……」 否定がないのが答えだろう。 「は……はは……、君が私の名前を呼ばないのは……、君が抱かれるたびに辛そうにするのは……、今もこの時計の持ち主を愛しているからだ……ははは……」 悲しいのに、悔しいのに、腹立たしいのに、喉から洩れるのは嗚咽ではなく、笑い声だった。 「私はそんなに恭平という男に似ているのか?」 自分の頬が濡れていることがわかっていた。 顔は笑っているように思うが、笑っているのかどうか、自分ではわからなかった。 足元がふらつくように思えたが、ちゃんと立っているのかももうわからない。 目の前に美也の涙に濡れた顔があり、それが驚愕に変わっていくのが、スローモーションのように見え、それがガラスの向こうにあるかのように、遠くに感じられた。 「私は恭平の代わりなのか……」 美也が首を横に振る。 今更否定されても、喜べるはずがなかった。 「いいじゃないか、代わりでも。私は君に選ばれたことを喜ぶべきだろう? 美しく、献身的な君に選ばれるには、私には他にとりえなどない。この顔しかなかったわけだ」 自虐的な台詞が、ことのほかストンと胸に落ちた。 生まれた境遇は最悪で、この年になっても揉め続けていて、金もなく、地位もなく、職も失くした男が、選ばれた基準は顔だったのだ。 類を見ない美しい男に、選ばれた平凡な顔。それは死んだ恋人と似ていたから。 「君の好きに呼べばいい。今から恭平と呼ばれても、私には文句など言えないんだろうな」 ズキンとこめかみの奥が痛んだ。 ギリギリと痛みが頭の中心に向かって突端を伸ばしているように痛みが増す。けれどその痛みのせいで、心は落ち着いていくように感じられた。 美也はただ首を振って、ひどく泣いているだけだ。 自分が笑って許せる男であったら。待てるだけの器の大きさがあれば。 美也もこんなに泣かずに済んだのに。 そう思うと、美也が憐れですらあった。 「私は……帰るよ。しばらく、一人で考えさせてくれ」 「……たも…つ……さんっ」 途切れる声が、本当は違う名前を呼びたいのだと思うと、またどす黒い感情が噴き出しそうで、保は慌てて自分のカバンを手に取った。 重いのは、自分の見えない過去。 ノート一冊分の、自分の歴史。 ひどく軽いそれは、手にずっしりと重く感じられた。 |