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「おかえりなさい、保さん」
 ほがらかに迎える美也の笑顔が嘘っぽく見える。いや、嘘なのだともうわかってしまった。
 私は恭平という男に似ているのか。そう聞けたらいいのにと自分でも思う。
 けれど聞けない。答えを知りたくない。頷かれたりしたら立ち直れない。
 荒谷保という上司を慕ってくれたのではなかった。
 俺がポスポロスの矢を撃つと言ってくれたのも、綺麗な笑顔を向けてくれたのも、身体を気遣い親身に世話をしてくれたのも、すべて恭平という男の身代わりだったのだ。
 ……身代わり。
 その言葉が重く沈んだ。
「保さん? 疲れました?」
 自然に呼ぶ名前。けれど本当に呼びたい名前はきっと違う。
 ぎゅっと抱きしめた。もう抵抗はない。
「保さん?」
 あぁ、そうだ。告白してくれたときも、抱き合っているときも、美也が名前を呼ぶことはない。
 気づきたくなかった事実を噛みしめる。
「キャンセルされてしまったんだ。待ち疲れて頭痛がするよ」
 誤魔化すように笑った。
「薬、ありますよ。頭痛の薬」
 するりと腕の中をすり抜けて、美也はキッチンに走った。引き出しから袋を取り出して、2錠を手の平に押し出した。
 新しい薬袋に、御子柴大介がここに来たわけがわかった。
 美也が頼んで、小児科に薬を取りに行ってもらったのだろう。
 コップに水を汲み、急いで戻ってくる。
 実際、軽い頭痛はしていたので、素直に受け取って飲み込んだ。
 美也は何もなかったかのように振舞う。
 大介が来たことを保が知らないと思っているから当然なのだろうが、そんな振る舞いを見ていると、隠し事をされているという事実が重くなるばかりだ。
 隠し事というふうに言えばまだ救われるが、それは結局のところ、嘘をつかれているのだ。
 保のことを気遣ってくれているのだと、過去の恋のことを乗り越えようとしてくれているのだと、思い込んでいた。
 けれど全部嘘なのだ。
 自分は美也にとって、恭平という男の代替でしかなかった。
 別れてしまったのだろう?
 約束を破り、捨てていった男なのだろう?
 どうしてそこまでその男の影を求め続けるんだ。
 自分が恭平なら良かったのに。
 いや、違う。
 自分という男が美也の前に現われなければ良かったのだ。
 そうすれば美也も、失くした影を追い求めるように、似ているだけの男の手に落ちることはなかったのに。
 手放してやればいい。こんな関係は、美也にとっても不毛なだけだ。
 だができない。できるわけがない。
 保の心は渇ききっていて、美也を切望している。
 ならば代わりだと割り切ってしまえばいい。ピエロのように、美也の望むままに振舞えばいい。
 ベッドの中、美也の寝息を聞きながら、できないと首を横に振った。
 そこまで寛容にはなれない。心が切り裂かれるように痛い。
 翌日、美也が会社に出かけた後、保は部屋の真ん中に立ち尽くし、じっと足元を見つめた。
 してはいけない……と思う心と、確かめずにはいられないという弱い気持ちがせめぎあっていた。
 美也は自分を信頼してくれているのだ。だから部屋に来いと言ってくれた。保つに留守を預け、会社に行ったのだ。
 その信頼を裏切ってはいけない。
 昨日まではそんなことを考えもしなかった。けれど今は、動き出そうとする手を止めることが困難だ。
 この部屋のどこかに、恭平という男の存在が残っているかもしれない。それを確かめたい。
「写真を……一枚見れれば……いいんだ。……それだけだ……、一枚だけ」
 途切れがちな言い訳が口を出てきてしまった。
 躓くように一歩足が出て、手が近くにあった箪笥の引き出しを開けた。
 手紙の束や光熱費の利用明細などがまとめてしまわれている。
 ごくりと唾を飲み込んで、手紙の束を取り出した。その時になって自分の手が震えていることに気づいた。
 止めるなら今だとわかっている。けれど、これを見てしまった今、見なかったことにして元通りにしまいこむことが出来ない。
 輪ゴムを外して、一枚ずつ差出人を見た。少ない手紙は携帯や電話、公共料金などの利用明細と領収書がほとんどで、保が捜していた男の名前は出てこなかった。
 ほっとしながらも、軽い失望も味わう。
 ここになければ、捜索の手を広げなければならない。後ろめたい苦さはずっと胸のうちにある。
 隣の引き出しには文房具や生活用品、下の引き出しからは衣類ばかりで、次に押入れを開けた。
 自分の家を、父の痕跡を探した経験で、スムーズに進むことが情けない。
 押入れはダンボールが綺麗に重ねられ、今にも引越しができそうな外観だった。ダンボールには几帳面な字で、何が入っているのか書き込まれている。試しに一つを開けてみると、記述通りに本が入っているだけだったので、他は見ずにキッチンへと移動した。
 一通り探しても、見つけたいと思っていたものを見つけることはできなかった。
 ほっとしながらも、反対におかしいのではないかと疑問がわいた。
 男の写真が出てこないのはいい。けれど、美也の写真もないというのは、さすがにおかしいのではないだろうか。
 母親のところにあるのだろうか? 一人暮らしの部屋へ持ってこなかったのか。
 そうだとすれば、もう探しようもなかった。
 溜め息をついて、食器棚の最後の引き出しを開けた。
 そこには携帯電話が一つ入っていた。
 それだけがただぽつんと残されたように、所在無げな頼りなさで置かれている。
 取り出して広げてみるが、電源は入っていない。
 機種変更した前のものだろうかと考えて、電源ボタンを押してみた。
 黒い画面に幾何学模様が広がり、電話会社のロゴのあとに、待ち受け画面が明るく映った。
 …………美也が笑いかけていた。
 待ち受けは美也の明るい笑顔だった。
 保も見たことがないような、屈託のない笑顔がこちらを見ている。
 今の美也でないことは髪形でわかる。多分学生の頃だろう、髪は少し長めで、服装もラフなものだった。
 美也が見つめているのは自分ではなく、この携帯の持ち主ではないかと苦しくなる。
 待ち受けが美也であるということは、美也のものではないはずだ。
 手が震える。ボタンを操作するにも、指がうまく動いてくれなかった。
 データはほとんど残っていなかった。着信履歴も発信履歴もない。メールもボックスには残っていなかった。
 意図的に消されたのだろうか。もとから使っていないのかはわからなかった。
 活き活きとした美也の笑顔は、保に向けられる慈愛のような笑顔とはぜんぜん違うものだ。
 持ち主に関するデータは何もなかった。やはり機種変更したときのもののようで、電波も圏外となっていた。
 何故捨てなかったのか、皮肉なことだが、その理由が保にはわかるような気がした。
 この美也の笑顔だ。
 綺麗で愛らしく、満開のひまわりのような明るい笑顔を、捨てることはできなかったのだろう。少し古いタイプの機種のようで、この写真データを新しい機種に移せなかったのかもしれない。
 さんざ笑いあったあと、はにかむように微笑んで呼ぶのだ、名前を。
『恭平』
 その声が聞こえたような気がして、ズキンとこめかみが痛む。
 甘えるような響きまでが、痛む頭の中で再現される。聞いた事などないのに。
 保は自己嫌悪に苛まれながら、元通りに電源を落として、引き出しの中に戻した。
 はぁはぁと喘ぐように深呼吸すると、痛みがまぎれるような気がした。
 その日の夜、帰ってきた美也の顔を見るのも後ろめたく感じた。幸いなことに、美也が不審を感じなかったのは、ここ数日の二人の気まずさのせいだろう。
 どうかしたのかと聞いてもらえないことが、自業自得とはいえ、悲しく苦しかった。
 美也が風呂に入っている間に、保は夕食の片づけをした。洗った食器を棚にしまいこむときに、テーブルに置かれていた美也の携帯に目が吸いつけられる。
 もしかしたら……。
 美也の携帯に相手の写真が残っているのではないか。
 見たい。見たくない。
 いや、それだけはしてはいけない。
 葛藤が渦巻く。
 数年前の美也の笑顔を見ただけであれほどの後悔をしたのだ。今は美也を信じるべきだ。
 そこまで美也を疑ってしまったら、二人の間の小さな亀裂は、決定的になってしまうだろう。
 伸ばした手を叱るように握りしめて、ドンとテーブルを叩いた。
 カタリと音をたてたのは、携帯電話ではなく、美也の腕時計だった。
 横向きに置かれていた時計が裏向きにひっくり返ったのだ。
 表向けようとして手にした時、裏蓋に文字が刻まれているのが目に入った。
 読み取りにくいような小さなローマ字で刻印された名前に、顔が歪むのを感じた。
 −To Kyohei
  From Yoshinari−
 反対ではないのかと、何度も何度も確かめた。
 けれど何度読み返しても、穴が開くほど見つめても、それは変わりなかった。
 これは、美也から彼に贈られた時計なのだった。 



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