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 美也は保を拒まない。
 わかっていて求めるのは、卑怯だろうか。
 それでも今の保には、精神的な救いを美也に求めるしか方法はなかった。
 会社を休んだことで、家の片付けは思っていたよりもずいぶん早く進んだ。けれど、父と保の親子関係を立証するような物は見つからなかった。
 母子二人の生活は物が少なく、片付いてしまうと、部屋の中がとても物寂しく映った。
 ますます自分の居場所がなくなったようにも感じられ、保は逃げ出すように外に出た。
 美也はまた誰かに狙われるのではないかと心配するが、人目の多い日中ではそんな心配はないだろうと、笑ってやり過ごした。
 あれから美也は何度か保の部屋に泊まっている。
 無理矢理のような形で身体を重ねたが、美也の態度はほとんど変わらない。それがまた保の不安を増大させていく。
 美也の本心が、日を増すごとにわからなくなっていく。
 どうして側にいてくれるのだろう。
 保のことが好きだから。それを単純に信じることができたなら、どれだけ幸せだろうか。
 かといって、美也を問い詰め、白黒をはっきりさせることができない。美也が離れていくのが怖いのだ。
 それでも少なからず、変化はあった。美也の口数が減っている。
 余計なことを口にしないように、喋る前に少し考え込むような間ができる。
 責めたのは保だ。わかってはいるが、その微妙な隙間に、苛立ちを感じてしまう。
 誰かと比べられている……。そんな気がしてしまうのだ。
 小さな苛立ちと不安が、二人の関係に、目には見えないほどの亀裂を生じさせている。
 ぎこちない空気を埋めるかのように、保は美也の身体に手を伸ばした。
 美也は拒まない。静かに身体を寄せてくる。
 美しくしなやかな身体を抱き、白い胸に唇を這わせる。
 淡い吐息や熱い喘ぎを聞きながら、自分の身体も昇りつめていく。
 荒い呼吸や速い鼓動を熱い身体を重ねるが、気持ちはすれ違っていることを実感してしまう。
 縋りついてくる手は確かに保を求めているというのに、美也が名前を呼んでくれることはない。辛そうに口を開きはしても、呼吸を止めて、その先を堪えてしまうのだ。
 そんな時は細い喉に手を這わせ、呼吸さえ止めてしまいたくなる。
 自分を抱いている男をよく見ろと叫びたくなる。
 ……でも、できない。
 美也を失う恐怖が押し寄せてくる。
 卑屈だと言われてもいい。嗤われてもいい。
 美也だけが生き甲斐なのだ。
 腕の中で美也が眠っている。寝顔でさえ綺麗なのだなと、はじめて一緒に眠った夜に感動した。
 夢でも見ているのか、閉じたまぶたがぴくぴくと震え、唇の両端がわずかに持ち上がる。楽しい夢なのだろうか。
 ズキンと痛みを感じるのは、頭なのか胸なのか。もはや色んな痛みが押し寄せては消え、消えては襲い来る様になり、反復する痛みに比例するように、感覚が鈍っていく気がしていた。
 薬で治るはずがないと割り切り、時間の使い方を痛みを遠ざけるために使っているような気さえしていた。
 喉の渇きを覚えて起き上がる。美也を起こさないように布団から出ようとすると、美也がううんと小さな抗議をもらし、薄く目を開けた。
「どうしたの?」
 眠そうな声が尋ねてくる。
「喉が渇いて」
 君も飲むかいという問いは、美也の声に遮られた。
「キョウヘイ、俺も……」
 ドクンと心臓が大きくはね、呼吸が止まる。ズキンと今度ははっきりとこめかみの奥が痛み、ぎゅっと目を閉じた。
 言った本人はそのまままた枕に頭を静め、すやすやと穏やかな寝息をたてている。寝ぼけていたのだろう。
 ぐぅっと吐き気が押し寄せ、保は慌ててトイレに駆け込んだ。
 キョウヘイ……キョウヘイ……キョウヘイ……俺も……。
 ズキンズキンと痛む合間を縫うように、その名前が木霊する。
 聞きたくない。知りたくなかった。
 今もその名前を無意識のうちに呼ぶのか。
「あ……あぁ……あぁぁ……ああー!!!!!」
 拳を壁にぶつけた。
 美也も記憶を失えばいいのに。
 何もかも忘れて、保のことだけ覚えていればいいのに。
 そんな凶悪な考えだけが保の心を支配する。
「保さん!」
 何も気づいていない美也が飛び起きてきた。
「保さん、どうしたんですか? 保さん、苦しいの?」
 はぁはぁと息を荒げる保に、美也は泣きそうになりながら、背中を擦る。
「救急車を呼びますか? どこか痛みますか?」
 保は背中を擦る手を払い、美也の肩を強く押した。
「……呼ばなくていい……大丈夫だ」
 尻餅をついた美也は驚きに目を見張って保を見ている。
 ふらふらとした足取りで布団に戻る。
 恐々と窺うように美也が後をついてきた。
 眠れそうにはなかったが、起き上がっているのも辛かった。
「保さん……」
「起こしてすまなかった。もう大丈夫だ」
 布団を持ち上げると、そろそろと入ってくる。
「本当に大丈夫ですか?」
 軽く頷いて見せると、ほっとしたように美也は胸に手を寄せてきた。
 君は夢の中で誰と寝ていたの?
 責められるはずもないし、責めることではない。
 わかっていても、気持ちは荒んでいく。
 美也に対してよりも、自分に対して反吐が出そうだった。

 翌日から頭痛は酷くなる一方だった。
 寝ていても頭痛は少しも治まらないので、だらだらと起きたり寝たりの繰り返している。
 気まずくなりながらも、美也は半病人になった保を心配して、毎日やってくる。
 いかにもマイペースな彼に、そういえば、告白して振られた後も、同じ状態だったなと思い出す。
「保さん、本当に病院に行かなくていいんですか?」
 薬のシートだけが増えていく。
「薬がなくなれば行くよ」
 荒んでいく生活にも、美也は口を挟むでもなく、健気なほどに世話をしてくれる。
 それを全て自分のためだと思うことができたなら、どれほど幸せだろうか。
「保さん、俺のマンションに来ませんか? 場所を変えれば、頭痛も少しは楽になるかも」
 この台詞を聞けば、美也の愛情を疑う自分のほうがおかしいのではと思わされる。
 献身的な美也を、どうして信じられないのだろう。
 ネガティブな自分が少しでも変われれば……。そう思って一週間だけでもと、美也の部屋に行くことにした。
 あの少し調子の外れたメロディを奏でる横断歩道を渡り、五分ほどを歩いて美也のマンションに着く。
 2階の角部屋は綺麗に片付けられていて、保を温かく迎えてくれた。
 母親とは別に暮らしているそうで、美也は一人暮らしワンルームマンションだ。
 実のところ、前の男の影が残っているのではないかと、それを見つければ、自分の美也への気持ちが冷めてくれるのではと、そんな期待をしなかったわけではない。
 けれどどこにもそんな影はなく、むしろ保をすんなり受け入れてくれる澄んだ空気がそこにはあったのだ。
 根暗な自分が恥ずかしく、深く反省していると、頭痛も少しずつ治まり始めた。
「薬の量が減ってきましたよね、良かった」
 本当にほっとして微笑む美也に、保はすまなかったと詫びた。
「私は……どうかしていた」
「保さんを不安がらせていたのは俺なんですよね?」
 顔を伏せる美也に申し訳なさを感じ、それは擦り減っていく愛情を取り戻して余りあるほどの愛しさをもたらした。
「違うよ。私自身の心が弱いからなんだ」
「今は仕方ないですよ。早く……解決するといいですね」
 体調の悪化と共に停滞していた話し合いも、また進めようと思えるようになった。
「無理しないで下さい」
 保の心配ばかりする美也に、ほっと笑えるようにもなった。
 美也が出勤している間に、家に戻ったり、母親の病院に行ったり、宗田と会ったりもする。
 宗田も保の顔色がよくないことをとても心配してくれた。そんなに酷いだろうかと笑うこともできるようになり、険しいながらも、日常が戻ってくるように感じていた。
 その日、宗田に合わせたため、帰宅する時間が遅れた。そのことは美也にも伝えてあった。心配させないために。
 けれど宗田の急用で会えなくなり、予定よりも早く帰ることになった。
 連絡しなかったのは、美也もまだだろうと思ったのと、お土産にケーキを買ったので驚かせたかったためだ。
 2階なのでいつもエレベーターは使わない。外階段を利用している。
 階段の下まで来た時に、あまり友好的とは言えない声が聞こえてきた。
 美也の部屋は角部屋で、階段の真上にあるので、声は聞こえてしまう。
 聞き覚えのある声は、御子柴大介だとすぐにわかった。
「なんだよ、結局はさ、一緒に住んでるんじゃないか」
 責めるような口調と内容に、自分のことを言われているのだと気づいた。
 対する美也の声は聞こえてこない。大介は廊下におり、美也はドアの中にいるのだろう。
「色々言ってたけど、全部、綺麗事だったんだろ」
 出て行って止めようと思うのに、足が動かない。どちらかといえば逃げ出したい。聞きたくないことを聞かされそうで怖いのだ。
「精神的な愛だとか、笑っちまうよな。あの顔なら誰でもよかったんだろ。恭平のことなんて、もうどうでもいいんだろ!」
 キョウヘイ……キョウヘイ……キョウヘイ……。
 グラリと身体が傾いだ気がした。
 それでもダンダンと階段を走り下りる足音に、階段の裏に隠れた。
 走り去る大介の背中が歪んで見えた。



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