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 貴島家との交渉は、弁護士を通すばかりで遅々として進まなかった。
 保としては母親のことさえちゃんとしてくれれば、あとは自力で生きていくつもりなのだが、弁護士はその母親と保の気持ちがすれ違っていることを最重要の問題とし、保個人との交渉は出来ないと、ほぼ門前払いのような扱いを受けた。
 ならばみどりが望んでいることを押し進めようとすれば、貴島賢一の体調不良を盾に、もう少し待てとしか言われない。
 全く身動きが取れない状態となってしまっていた。
 宗田は保に同情的だが、結局は貴島家側の弁護士事務所に雇われている身であり、保のためになるような意見を言ってもらうことはできない。
 みどりからは役立たずと罵られ、病院の帰りに降られた雨に濡れ、とことん落ち込んでしまう。
「おかえりなさい」
 滅入った気分で帰り着くと、家に美也が来ていた。優しい笑顔で迎えられると、それまでの疲れが吹き飛ぶような気持ちになり、自分のげんきんさに思わず笑ってしまう。
 疲れきった表情から、美也は今日の結果も察しているのだろうが、詮索はしてこない。その思いやりが嬉しかった。
「保さんの好きな筑前煮を作ってたんですよ」
 キッチンには和風だしと煮物特有の甘辛い香りが漂っている。
 筑前煮は特に好きではなかったが、せっかくの好意だからと笑顔で礼を言う。
「ありがとう」
 テーブルには食べればいいばかりに準備が整っている。
 筑前煮は二人で食べるにはかなり大目の量が出来上がっていた。
「いただきます」
 手を合わせて箸を運ぶ。ごぼうを口に入れると、ほっこりと柔らかく、プロが造ったのかと思うほどに美味しく炊けていた。
「美味いね」
 正直な感想を言うと、向かいの席で美也が嬉しそうに笑う。
「やっぱりごぼうから……」
 いいかけた美也の口が止まる。顔から笑みが消えて、戸惑う表情に変わっていく。
 ズキンとこめかみが痛んだ。
「事故の後からは母親は身体が不自由だし、自分では作れないものだから惣菜を買ってきていたんだが、ああいうところの和食は味付けが濃くて」
 ズキン、ズキンと痛みが脈打つ。
 いったい美也は、誰と間違えているのだろう。
 考えたくない。
「いつもごぼうから食べていたのは……」
 聞いてはいけない。そう思うのに、口から言葉が出てしまう。
「保さんが……」
「嘘は聞きたくない!」
 頭痛とそれにともなってきた吐き気が保を苛立たせた。つい、テーブルをバンと叩いてしまう。
 美也は悲しそうな目で保を見つめている。
「ごめんなさい」
 楽しかった夕食の時間は、気まずく重い空気に変わる。
 ズキズキと早くなる痛みに耐えられなくて、食器棚の引き出しから薬袋を取り出す。
 この薬では治らない。これは偏頭痛用の薬だから。
 この痛みはやり過ごすしかない。
 わかってはいたが、耐えられそうになかった。
 美也が慌てて立ち上がり、コップに水を入れて運んできてくれる。
「大丈夫ですか?」
 薄い飴色の瞳がすぐ近くにあった。
 何も考えられずに手を伸ばしていた。ぎゅっと抱きしめれば、また、かすかな抵抗がある。
 痛みは引くはずもなく、さらに強くなった。
「……保さん、大丈夫ですか?」
 心配そうな声だけれど、その心を疑ってしまう。
「君は……私のものだ」
 どうか側にいて欲しい。
 素直に言えず、抱きしめて駄々をこねるように、所有の約束を取り付けようとする。
 こんなことで美也の心を縛れるわけがないのにと、わかっていても言わずにはいられなかった。
「保さん……」
 その唇が昔、呼んでいたのは誰なのだろう。好きな料理を作ってやり、同じものから口に運ぶと笑いあったのは誰なのだ。
「貴方が好きです。信じてください」
 信じたい、信じたいのに、信じきれない。
 コップが床に落ち、水が弾け飛ぶ。飲まなかった錠剤もその水の中に落としてしまった。
 美也の頬を両手で挟み自分に向かせる。
 こうして彼を抱きしめることができるのは、今は自分だけだと、それは疑うことはないけれど、この澄んだ瞳に映っているのは本当に保だけなのだろうか。
 貪るように口接ける。
 肩に手が置かれ、押し返される。それを無視して、首に手を回して引き寄せた。
 美也を抱いているのは私だ!
 ズキンズキンと脈打つ痛みが、保から理性を一切合切奪っていく。
 大切にしよう、優しく愛そう、本当に自分を好きになってくれるまで待とう。
 そう思っていた心は、痛みの向こうに消えていく。
「保さ…ん……」
 唇が離れた途端、許しを請うような呼び声が聞こえた。
「許さない。待てない。美也、君は私のものだ」
 手を引き、和室へ引っ張る。もつれ込むように倒れこむと、美也は激しく首を振った。
「保さん」
 美也の声が脳内に反響する。けれどその声は痛みにかき消されていく。
 無理矢理シャツを引き剥ぐと、白く平らな胸が現われた。
 ズキン、ズキンとその白さに、こめかみの奥がまた痛む。
「うっ……っく」
 畳に額づき、両手で頭を抱える。
「保さん!」
 はだけた胸のままで美也が飛び起きる。
「薬……薬を」
 シャツをかき合わせて、美也はキッチンへ走っていく。
「これを……」
 目の前に差し出された掌には、頭痛薬が乗せられていた。
「……君はどうして……私の心配をするのだろう……」
 自分の行いが酷いことは十分に承知していた。
 美也が逃げ出すなら、今をおいてないはずである。
「こんな酷い仕打ちをする男など、放り出して逃げればいいのに」
 頭痛など慣れている。放っておけばいずれ治まることは美也もよく知っているはずである。
「俺は貴方が好きです。貴方を愛してる。貴方と離れたくない。信じてください」
 その言葉に縋るしかない自分が、とてつもなく弱く、情けない。
「ならば、私のものになってくれ」
 ボタンが引き千切れたシャツの衿を引っ張る。
 どうか迷わずに、抵抗など見せずに来て欲しい。
 トン、と胸に飛び込んできた美也は、ぎゅっと保にしがみついた。
「大切にしたいんだ……」
 それは保自身が強く願っている本心だった。
 畳に横たえた身体の、開いた胸に唇を寄せる。
 頭痛は消えてくれなかったが、これで美也が全て自分のものになるのだと信じていた。
「ん……」
 美也の身体も、吐息も、ヘーゼルカラーの瞳も、美しい笑顔も、手に入れられると信じていた。
「美也……」
 けれど、いくら呼んでも、美也が保の名前を呼んでくれることはなかった。
 恋人だと信じる身体を抱きしめながら、美也が好きだと言ってくれたときも、保の名前を呼ぶことはなかったと……気づいてしまった。



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