XXX 25 XXX 美也が会社を辞めようとしているらしい。 田崎から聞かされた言葉は、小さくはないショックを与えた。 たしかに保の貴島不動産での立場は大変危ういものだ。本社のトップの身内とはいえ、それもまだ確定されたわけではない。 むしろ、自分からその立場を捨てるために動いているところだ。 だから美也が何かに悩んでいたり、不満があったりしても、何も力になってやれない。 それで相談もしてもらえないのだろうか。 しかし、田崎の早とちりや、保に対する嘘ということも考えられる。 信じるならば美也を信じるべきだろう。 それはわかっているのだが、頭をもたげた疑いは、信じようとすればするほど、もしかしてという疑惑が塊になって残ってしまう。 家路を辿りながら、自分は美也にこれを問いただすべきだろうかと考えてみた。 …………聞けない。 聞けるわけがない。 どうしてそのことを知ったのか、誰に聞いたのか、それを問い詰められたら答えられない。 美也から打ち明けてくれるまで、待ったほうがいいのだろう。それしか方策がない。 結局は、自分の立場があやふやなせいで、美也に対しても、他の人に対しても、自己主張というものができないのだ。 つくづく情けなくなった。 そんなことを考え込みながら、スーパーで夕食の買い物を済ませていると、レジの横にあった情報誌に目が留まった。 どうせ暇なのだ。時間がありすぎるから、余計なことをうだうだと考えてしまうのだ。 これから裁判になれば、時間の拘束はあるだろうが、融通の利く場所もきっとあるはずだ。 保はアルバイト情報誌をかごに入れて清算を済ませた。 家に帰り着いてパラパラと捲ると、様々な職種が掲載されている。 保の年齢ならば、贅沢を言わなければ、チャレンジの幅は広がるだろう。 いくつかのページの耳を折って、下手ながらも夕食の支度をしていると美也がやってきた。 「保さんの夕食って楽しみだな」 にこにこと笑う美也には隠し事などないように思える。 「切って炒めるくらいだけどね」 実際にそれくらいしかできないのだから、自慢できるようなものは出来上がらない。調味料も本の通りなので、それでうまくいっているのかもわからない。ただ、不味くはならないだろうという程度だ。 まあまあの出来だったが、美也はそれでも喜んでくれた。野菜の下茹でが足らずに固くても、歯応えがいいと笑って食べてくれる。 二人でテーブルを挟んで食事をしながら楽しく会話する。 これがずっと続けばいいのにと願う。 「保さん、これは?」 アルバイト情報誌を見つけた美也が、中を見ながら保に尋ねてきた。 「時間を持て余してしまうからね、アルバイトでもしようかと思って」 「会社は?」 どうするつもりなのだと美也は首を傾げる。 「どうせもう戻れないだろうし、戻れといわれても、戻るつもりがないんだ。本当なら正社員で雇ってくれるところを探したいんだが、貴島が離職票をすんなりとは出してくれないだろうし、これからの経過次第では裁判もあるかもしれないから、きちんと身辺が整うまではアルバイトがいいかなと思ってね」 この年でアルバイトとなると、色々と詮索もされそうだが、今は色んな就労体系がある時代なので、あまり難しくもないだろう。 「……そう、ですか……」 少し考え込んでから、美也は寂しそうな微笑を浮かべた。 「保さんがもう会社を辞めるのなら、俺も辞めてしまおうかな」 あっさりと美也の口から退社の話が出て、それを待っていたはずなのに戸惑ってしまう。 「しかし、君はまだ勤め始めたばかりで……」 「でも、元々営業は好きじゃないし。実は大学に戻ろうかと思っていたんです」 「……大学?」 思いもよらない話が出てきて、保は少しばかり混乱してしまう。 「君の大学は確か……」 都内の有名な私立大学の名前を思い出す。美也の大学からなら、もっと有名な、貴島の子会社ではなく、本社も喜んで雇いたくなるような優秀な大学だ。 「院に進みたかったんですけど、ちょっと余裕がなくなってしまって。二年間の費用は溜まらなかったんですけど、あとはそれこそ、アルバイトしながらでもなんとかなるかなと思って」 はじめて聞く話をすんなりとは納得できない。 「そうか……」 だが、それは本心なのかとは問い詰められなかった。 「保さんがいるんなら、学費が全部溜まって余裕が出るまで待とうかなと思ってたんですけどね」 すらすらと出るその理由に、嘘だという確証は見つからない。 意欲的に仕事をし、先輩社員に負けない成績を残していた美也が、そんなことを考えていたことが驚きだ。 「私の立場より、君は自分の志望を大切にしなければ」 「でも、仕事は楽しかったですよ?」 でなければ、あれほど優秀な成績は残せなかっただろう。中には顔で契約を取ってくるというやっかみも出ていたが、不景気のこの時勢に、顔だけで契約が取れるわけがない。 美也は近くにいてくれる。 伸ばせば手が届くだろう。 けれどこうして、時に全く保の予期せぬ、美也の立ち入れない部分を見せられることがあって、その前で立ち往生してしまう。 「保さん?」 ずっと変わらないのはその瞳だ。 まっすぐに見つめてくる、色の薄い瞳。曇りのない色に、偽りなどないと思いたい。 手を伸ばして肩を抱き寄せる。 わずかな抵抗のあと、美也は肩に頬を寄せてきた。 ほとんど感じ取れないほどの、そのわずかな抵抗が悲しい。 唇を寄せると、震えるようにしてまぶたが閉じられる。 ヘーゼルカラーの瞳が隠れるとほっとする。 保の好きな優しい色だが、それを褒めた人が、その色の名前を美也に教えた人がいることを、どうしても意識してしまうからだ。 押し合わせた唇が薄く開き、保は舌を割り入れる。 淡い息がもれる唇を吸い、背中を抱き寄せると、美也の身体が固くなる。 そこから先を警戒してるのがわかる。 だから背中に回した手を動かすことができない。 「美也……」 そっと離れるとほっとつかれる溜め息がつらい。 本当に彼は少しでも自分のことを好きでいてくれるのだろうか。 信じたい。信じたいのに、信じきれない。そんな自分が嫌だ。 「明日、また弁護士と会うんだ」 話題をそらすとほっとする。 「あの宗田さんという人?」 「かなり私に肩入れしてくれるようになったんだ」 最初の頃はあまり気の進まない様子で保の話を聞いていた宗田だが、最近はかなり保に肩入れしてくれるようになり、問題のない範囲で貴島の情報も聞かせてくれるようになっている。 「それ、信用できるんですか?」 しかし、美也は宗田のことを信じられないようだ。 「ある程度は信用しないとな。元々こちらは裏切られていたとしても、失うものはほとんどないんだから」 「……そうですけど」 美也はあまり面白くなさそうだ。 「一度美也も会ってみるかい?」 「弁護士と?」 頷くと、少し考えてから首を横に振る。 「俺は部外者だから」 もっともな理由だけれど、部外者と言われたことに傷つく。 二人の間に、見えない線を引かれたような気持ちだ。 その線を踏み越えることはできるだろうか。 「それじゃあ、俺は帰ります。また明日、帰りに寄りますね」 あっさりとカバンを持つ美也が憎い。 「気をつけて」 頬に唇を寄せると、首をすくめて笑う。 艶やかな微笑みを残して、美也はドアの向こうに消える。 一人、部屋に残された保は、引き止められなかった情けない自分を、小さく罵った。 |