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 大介と彩華がいなくなり、少しばかり気まずい空気の残ったまま、保は美也と一緒に帰ることにした。
 どこかで食べていこうかと誘ってもみたのだが、美也は「なんだか疲れたから」と静かに首を横に振ったのだ。
「彼女と、付き合ってたことがあるのかい?」
 沈黙が重く、聞かずに済めばいいと思いながらも、聞かなければずっと後を引きずりそうで、とうとう口にしてしまっていた。
「ありません」
 美也の答えは素気なく、簡潔で、思いのこもる隙間もないくらいに冷たかった。
「片思いか……」
 若い女の子には美也がさぞ理想の男性に映ることだろう。一緒に電車に乗ったりしても、美也は女性の目をひきつけるようで、時には失礼だと思うほどじっと見られていることも多い。
 女性ばかりか男性も、羨望と嫉妬の混じった視線を美也に向ける。
 美也は慣れているのか、気づかぬ振りで押し通している。そんな時は特に無表情になり、美貌に凄絶さが増すのだが、本人はそれが人を避ける一番の方法だと思っているようだ。
「彼女は俺のことなんて、嫌いって言ってたでしょう?」
 それは行き違いから、思わぬことを言ってしまっただけではないだろうか。だが、保のほうから二人を取り持つような発言をすることはおかしいと気がついた。
「御子柴君は大変だな。可愛い妹を持つと」
 けっこう振り回されていそうだ。しかも、兄の友達を平然と嫌いと言ってのける気の強さ。
「可愛いと思いました?」
 美也がおかしそうに笑って聞いてきたように感じ、保は言い訳をしようと美也を振り返った。
 口元に微笑を浮かべ、けれど瞳は怖いほどに真剣に、美也はじっと保を見ていた。
「一般的に見て……可愛いほうだと……」
 世間的には美少女で通っているだろう。たしかに美也に比べれば、どんな美女も顔色を失くしそうだが、なかなかに可愛かったのは否定するのもおかしいのではないかと思えた。
 これは美也の嫉妬なのだろうかと少しは期待したいところだが、ヘーゼルカラーの瞳には、そんな色は感じられない。
 いつものように真っ直ぐに保を見ているだけだ。むしろ、保に対する愛情も感じ取れないほどに、冷たく感じられて苦しくなる。
 けれどすぐに目を伏せて表情を隠した。微笑んだままの口元だけが覗いている。
 少し薄めの唇は、笑うと冷たい印象を甘く変える。触れると震えるようにして少しだけ開く。
 強く抱きしめたい。細い肩も折れるほどに。
 貪るように唇を侵略したい。
 そう思うのに、せいぜいが余裕のあるふり、理性があると虚勢を張って、その手を解く。
 勇気がないだけなのに、嫌われたくない、後悔されたくないとばかり考えて、一歩を踏み出せずにいる。
 美也も、手を伸ばせば体を固くし、唇が離れた途端、身体を引くのがわかる。
 まだ前の男が忘れられないのかと問い詰めたくなるが、それでもいいと言ったのは自分だし、まだ駄目なのかと責めるのは器が小さいだろうと己に言い聞かせる。
 強く出られないのは、本当に彼のことが好きなのだと、ようやく築いたばかりの関係を崩したくないからだとわかる。
 臆病な自分を嘲い、美也の肩に手を置いた。
 やはりびくりと揺れて、身体を固くする。
「愛しいのは美也だけだ」
 嘘偽りのない思い。それだけが今の保を支えている。
 どんなに辛くても、周りに受け入れられなくても、美也は自分といることを選んでくれた。
 それを信じるしかないのだ。
 そう思うだけで、心が強くなれる。
 決意した言葉に顔を上げた美也は、珍しく彼のほうから胸に額を寄せてきた。
「好きだ」
 もうその言葉しか出てこない。
 まだ何も持たない自分だけれど、自信を持って荒谷保についてきてくれとは言えないけれど、二人のために、二人でいるために絶対にやろうとしていることを成し遂げてみせると、あらためて心に誓った。

 何度か貴島家に対して正式な面談を申し入れたが、色々な理由をつけては延期にさせられていた。
 何一つうまくいかない状況に、宗田が両親がちゃんと付き合っていたことを知る友人などに、両家の間に入って証言してくれるように頼んでみてはどうだろうかとアドバイスをしてくれた。
 第三者が入れば貴島家の対面を重んじて、約束をキャンセルすることや、引き伸ばすこともしにくいのではないだろうかというのだ。
 その提案を受け入れて、みどりに誰かいないかと尋ねてみたのだが、いるわけないでしょとヒステリックに叫ばれて、病院を叩き出された。
 仕方なくまたみどりの私物を調べてみたのだが、さすがにもう新しい発見はなかった。
 迷っていても何も進展しないと気持ちを切り替え、自分の黒いノートを広げてみた。
 そこには保が生まれてから最近までの生活の様子が克明に記録されている。
 記憶をなくした保を心配した母が、動けぬ身体を横たえたベッドで、保の生い立ちを詳しく語って聞かせてくれたのを書き留めていったものだ。
 保が生まれた頃に付き合いのあった人のことも多少は書かれているのだ。
 母の友達の○○さんに玩具やおやつを貰って喜んでいたというような、特に書きとめる必要もないエピソードも、保は自分のリハビリも兼ねながら書き残していた。
 記憶喪失でなくても覚えていない幼い頃だが、母親が語ってくれていて、書き残していたことが思わぬ役に立ちそうで、怪我の功名とも言うんだろうかと、はじめてこのノートの存在をありがたく感じた。
 けれどメモに数人の名前を書き出そうとして、ノートに微かな違和感を感じた。
 どこかおかしいと思い、ペラペラとページを繰ってみるが、どこにも変わったところはない。何ページ捲っても、自分の字がびっしりと細かく書かれているだけだ。
 首を捻りつつまた最初のページに戻ってみる。
 やはりどこかが違うような気がする。
 誰かが取り出して見たのだろうか。しかし、このノートの存在を知っている人物など限られているのだ。
 まさか美也が?
 しかし、美也がこのノートを見たところで、何も面白いことなどないだろう。
 たとえ見られたとしても困ることもない。困るというより、保の人生がいかに面白みのない、つまらない男であることがばれるだけで、それで呆れられてしまったらどうしようという程度のことだ。
 美也が断りもなくこのノートを見るという行為をすることはどうにもそぐわない。
「久しぶりに見たから、変な気がしただけだ」
 自分に納得させると、まさに気にしすぎなだけだと思えて、さっさと用事を済ませてノートを閉じた。
 それから母の昔の手帳にようやく二人ほどの名前を見つけ、連絡を取って会ってもらえるようになった。
 懐かしいという旧知の人は、どことなく迷惑そうだったが、遠慮している場合ではないと、なかば強引に約束を取り付けた。
 けれど父のことまでは彼女たちも知らなかった。
 母のことを心配してお大事にと言いながらも、とうとう最後まで母の入院先を聞きはしなかった。
 ほぼ徒労に終わって、気持ちも身体も重く帰り道を歩いていると、携帯にメールが届いた。
 もしかして美也だろうかと、期待してメールを開いたが、それは美也からではなく、今頃は美也と同じ職場にいる田崎からだった。
 田崎は美也に思いを寄せている女性社員で、美也を誘ったこともあるが、さらりと断られている。
 メールの内容を読んで、保は眉を寄せた。
 時間が取れるならば一度会えませんかという、事情を知らない人が読めばデートの誘いのようにも見える言葉だが、そんなはずがあるわけないと知っているのは、当事者である三人だけだ。
 無視をしていいと思いながら、今も同じ職場にいる彼女が、余計な言動を取らないかという心配もあって、保は会うことにした。
 外で30分程度も話せば、用件も済むだろうと考えたためだ。
 今日の今日では無理かもと思いつつ返信をすると、すぐにOKだと返ってきた。
 一応退社時間を待って、会社からかなり離れた駅の喫茶店で待っていると、すぐに田崎はやってきた。
 飲み物のオーダーもそこそこに、一応まだ上司である保への挨拶もなく、彼女はさっさと用件だけを口にした。
「河合君が会社を辞めようとしていること、課長はご存知なんですか?」
「会社を……辞める……?」
 一瞬、意味がわからずに、彼女の顔をまじまじと見つめてしまった。
「別に変な考えとかしていませんから」
 少しばかり不快気に、唇を尖らせて視線をそらした。
 保を混乱させようとしているのではないかと、ほんの少し疑ったことがばれたような気がした。
「本当に河合君は、会社を辞めようとしていますよ。彼がファイルに辞表を挟んでいるところを、偶然見てしまったんです」
 辞表まで用意しているのか?
 もしもそれが事実なら、何も相談されていない自分が、あまりにも惨めな気がした。
「知らなかったんですか? なんだ、自分がクビになりそうだからって、人まで道連れにするなって、説教でもしてやろうかと思って呼び出したのに」
 意地悪な声も、他人事のように遠くで聞こえるだけだった。



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