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 母の部屋を整理していく。父や自分の出生に関わるものを探しているのだけれど、決定的といえるものは見つからない。
 元々が質素な生活で、荷物もそれほど多くない。
 自分の出生に関するものは母子手帳くらいなもので、そこに父親の名前は残っていない。入籍もしていないし、生まれた時には既に死亡していたのだから、どうしようもない。
 父に関するものは母の記録ぐらいしかない。父からもらった直筆の手紙やメモでもいいから何かあればと、どんな小さな紙片も一枚一枚目を通したが、見つけられなかった。
 母は日記なども書く習慣はなかったらしく、時折出てくる覚書に、貴島家に対する恨みを書いたものが出てきたのみだ。
 保が生まれてすぐに認知を願い出たが拒否されたこと。その便箋には日付が書いてあったので、ファイルに挟んで宗田に見てもらうことにした。
 それ以来は本当に日々の生活にも窮していたようで、保が高校を卒業したあたりから、再び貴島家に対しての動きが再開されている。
 再婚……母にとっては初婚だろうが……をすれば少しは生活も楽だったろうにと思うが、私生児を抱えて身なりも構わずに働いていれば、その手の話もなかったようだ。
 何より、母は父に対して、今も消えない愛情を持っているように感じられる。だからこそ保の認知を執拗に迫る要因になっていると感じられるのだ。
 けれどもういいではないかと言ってやりたい。
 父の血を引くのは、この世に保だけなのだ。他にはいない。自分が父の代わりに母を支えるから。そう告げても、母は納得してくれない。強く凝り固まった気持ちは、息子の説得では溶けそうになかった。
 それでも自分はもう貴島との確執から解放されたい。
 とにかく逃げたい思いが強くなっていく。
 美也と出会って、彼を愛するようになり、彼の気持ちが少しずつでも自分に向き始めた今、自分の知らない過去とは決別したいのだ。
「過去……か」
 保はそう考えてふっと苦笑した。
 そう、自分は過去のほとんどを覚えてはいない。
 部屋の整理で古いアルバムも出てきたが、そこに写る自分が、他人のような気がしてならない。写真に残されたエピソードのいくつかは、母に聞かされ、ノートに書き残していて、思い出したような気になっているが、実感が伴っておらず、古い映画をおぼろに思い出している感覚に似ている。
 最近の写真が残っていないことも、それをさらに強めているのだろう。高校を卒業して働き始めてからは、人付き合いも苦手で、写真は一枚も残っていない。まさに、空白の自分がある。
 その空白期間が、自分をこの部屋にいてさえ、訪問者のような余所余所しさを抱かせる。
 異邦人であるような部屋の中で、佇むことに言いようのない恐怖を感じ、保は追い立てられるように外出することも多くなった。
 だからと言って出かけられる先はそう多くもない。平日に成人男性がラフな格好でふらふらしていると、それだけで白い目で見られてしまう。会社に行けないならアルバイトでも探してみようかと思ったりする。
 たまに宗田に会い、見つけたものを提示したり、話を聞いてもらう程度だ。
 宗田と会った後、そろそろ美也も退社する時間ではないかと思い、会社の最寄の駅で途中下車してしまった。
 美也は毎日ほど帰りに保の部屋に寄っていく。
 簡単な食事を作ってくれて、一緒に食べていく。仕事が遅くなることもあるので、保が食材の買い物に行くことも多くなっている。
 今夜は一緒に買い物に寄ってから帰ろうかと、そう考えると足取りも軽くなる。
 しかしながら、一応は休職中の自分が会社の近くでウロウロしていて、部下たちに姿を見られるのはさすがに拙いと思い直した。
 どこか待ち合わせられる場所を見つけて、美也にメールを出そうと、少しだけ離れたスタンドカフェに向かった。
 会社の近くで社内の人間に見つからないところという気持ちは同じだったのだろうか。そこで保は偶然というにはあまりにも偶然な、それでいて見たくなかった光景に出会ってしまった。
 店の外、テラス脇のテーブルで、美也が一人の女性と向き合って座っていたのだ。
 見なかったことにして立ち去るべきだと思うのに、女性の泣き出しそうな顔と、美也の困りきった表情に、意志とは反対にふらりと足が進んでしまう。
 二人は深刻なあまり俯き加減で、保が近づいたことに気づいていなかった。
「どうして会えないの? どうして駄目なの? 今はだめって、そればっかりじゃない」
 遠目に若いと思っていたが、近づいてみると予想より若く、声を聞くと高校生ではないかと思えた。
「……ごめん」
 知らない人が見れば、彼女が会えないことをなじり、彼が謝っている風景にしか見えない。保にしてもそんな風にしか思えなかった。
「謝って欲しいんじゃない! 会いたいだけなの」
「彩華ちゃん……だからね……もう少し我慢して」
「もう嫌よ!」
 彼女はうな垂れるようにして下を向き、どうも泣き出してしまったように見える。
 細く白い首。美也は手を伸ばそうとして、ためらうようにその手を止める。
 彩華という名前に聞き覚えがあるような気がして、保は首を傾げる。どこでだっただろうと考えて立ち止まっていると、うしろからどんとぶつかられる。トレイを持った客が、横を通り過ぎようとして保にぶつかったのだ。
 その拍子に思い出す。
『もう彩華が限界なんだよ』
 あの時、保が刺された日、大介が美也に言っていたのだ。
 あっと思った声が口に出た。
 ガチャンとぶつかったトレイの上でコーヒーカップが音をたてた。
 あんた邪魔と言った男の声がすぐ側で響いた。
 美也と彩華が顔を上げてこちらを見た。
 二人が驚いたように保を見つめた。
 彩華の大きな目がひときわ大きく見開かれる。
 泣いていなければ、とても可愛い女の子だろう。泣いていても、はっと人目を引く愛らしさを感じる。
 その涙を見れば、美也との関係にも気づかざるをえない。ズキンとこめかみが痛んだ。
 その痛さにつられるように視線をそらす。
「彩華ちゃん」
 ガタンと鳴った椅子と、呼び止める美也の緊張した声に、保はぎくりとして彼女を見た。
 目にいっぱい涙をためて、彩華はじっと保を見つめていた。瞬きも忘れたように。
 女性特有の勘で、美也と保のことに気づいたのだろうか。
 美也を取らないでと言われる様な気がして、その答えを自分の胸の中で探す。もちろんうまい言葉など浮かんではこない。
 これが修羅場というものだろうかと、どこか他人事のような現実味の無さまで感じた。
「彩華!」
 緊迫した空気をどうしようかと悩んでいたその時、まるで救いの神のように、うしろから大きな声が彼女の名前を呼んだ。
 思わず振り返った先に、大介が焦って駆け寄ってくるのが見えた。
 どういう関係かはわからなかったが、彼女と親しい大介が来たなら、宥めてもらえるだろうと期待した。
「どうして」
 彩華が大介を見て、はっとしたように美也を振り返った。
「俺が呼んだんだ。君が来てるって」
 ほっとして美也を見ると、安心していいはずの美也は、彼も泣き出しそうに大介を見ていた。
「彩華、何してるんだ。美也と会っちゃ駄目だって言っただろう。帰ろう」
 大介はとても慌てた様子で彩華の腕を掴んだ。無理にも連れて帰ろうと引っ張る。
「嫌よ、イヤ。邪魔しないで」
「彩華。お前が傷つくだけだって」
「離してよ!」
 掴まれた腕を離そうと身体を引いたり、腕を振り払おうとするが、よほど強く掴んでいるのか、大介は力ずくで連れて行こうとする。
「御子柴君、乱暴なことは……」
 泣き出した彩華が気の毒で、つい、大介を咎めてしまう。
 保が声をかけると、二人はピタリと動きを止めた。
 そんなに驚かせてしまっただろうかと視線を美也に向けて助けを求めるが、美也は息を飲むようにこちらを見つめるばかりだ。
「彩華、帰ろう」
 宥めるような優しい声に、彼女はポロポロと涙を零した。
「お兄ちゃん……」
 消え入るような小さな声は、何故か保にははっきりと聞こえた。
 友人である美也と、自分の妹。どれほどの付き合いなのかはわからないが、保の知る限り、美也の過去には一人の男性しか見えてこない。
 先ほどの諍いを見たこともあり、保には彩華の片思いに、美也が短い期間でも付き合いがあったのだろうかと思えた。
 大介は妹と友人の間で悩み、美也ともぎくしゃくしていたのかと、二人の妙にあっさりしていた関係に納得がいった。
「君の妹だったのか……」
 けれど、そう思って口にした言葉は、場違いだったようで、大介は保を睨み、彩華は油断した大介を突き飛ばした。
「やっぱり河合さんなんて大嫌い! お兄ちゃんも大嫌い! 嫌い嫌い! みんなみんな大嫌い!」
 子供の癇癪のように怒りをぶつけると、ばっと駆け出してしまった。
「彩華!」
 慌てて大介が後を追う。まだ一人で帰らせるのに心配な時間ではないが、泣きじゃくる女の子が一人でいるのはさすがに良くないだろう。
 駆け去った彼女と追いかけた大介の姿は、すぐに夜の暗闇に消えてなくなる。
 大きな溜め息をついて、美也はどさりと椅子に座り込んだ。
「すまない。近くに用事があって、ここなら会社の人間に会わずに君を待てるだろうと思って」
 言い訳を口にして、自分の女々しさに嫌気がさした。
「いいえ……。これで、彼女も納得してくれると……思います」
 ひどく疲れたような美也の言葉に、保は申し訳なくなって、また夜の通りを見やった。
 大嫌い!
 言われたのは美也であり、大介であったのに、その言葉は保の胸にぐさりと突き刺さって、苦い痛みを訴えていた。



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