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 傷口の抜糸も済み、内臓にも問題はなしということで、保は抜糸してすぐに退院した。
 入院中にも警察は毎日のように来ていたが、退院するときにもやってきた。
 退院後にどこで何をするかと聞かれたが、予定もない保は、自宅で静養することを伝えた。会社とのトラブルは特に話しはしなかったが、警察が職場にまで乗り込んで色んなことを聞いていったことが無関係とは思えず、厭味な口調になってしまった。
 刑事たちにも厭味は通じたらしく、その話の時には聞き流すふりをしていた。
 退院の時には美也が付き添ってくれた。もとより母親は遠くに入院中であるし、他に付き添ってくれる家族などいない。
 今は美也が側にいてくれる。そのことが何より心の支えになった。
「ありがとう、本当に助かった」
 部屋に落ち着いて、ほっとする。何もない質素な部屋だが、無事に帰ってこれて安心する。
「本当にここでいいんですか? また……狙われたりしませんか?」
 美也は治安のことを心配していた。
 家の問題は関係ないと説明したが、美也は信じていないようだった。建築現場での事故に居合わせた美也は、保が貴島家に命を狙われていると思い込んでいるのだ。
 あながち間違ってはいないのだが、今はそれを認めるわけにはいかない。
 なんとか……なんとかして、貴島家と縁を切るまでは。
「保さん、俺、買い物に行ってきます。今夜の食事とか、困るでしょう?」
「いや、何か出前を取るよ」
 料理が得意ではない保は、いつも惣菜か弁当を買ってきて済ませていた。
「不経済ですよ。俺が作りますから」
 美也は笑いながら言って、財布を手に出て行ってしまった。
 美也が作ってくれるということに驚きながらも、甘い期待に胸が弾んだ。夜まで彼がいてくれるのだ。
 窓を開け、空気を入れ替える。埃っぽくなっていた部屋に掃除機をかけていると、美也がスーパーの袋を両手に戻ってきた。
「退院したばかりなんだから、寝てないと駄目ですよ」
 慌てて掃除機を取り上げようとする。
「もう大丈夫だよ。抜糸も済んだし、内臓にも異常はない。健康体と一緒だ」
 保は笑いながら、掃除機を奪い返し、掃除を続けた。
「君が料理をするって、なんか、似合わないな」
 とても綺麗な人が包丁を手にしてキッチンに立っている。
「そう……ですか?」
 口元が小さな笑みを作る。
「どちらかと言うと……ケーキのデコレーションを……」
 言いかけて頭痛がする。突然の痛みに目をきつく閉じる。
「保さん?」
 包丁を置いて美也が覗き込んでくる。
「いや……ちょっと頭痛がしただけだ。……いつもの」
「やっぱり寝ていたほうがいいですよ」
 キッチンから押し出そうとする。狭いアパートだ。キッチンの他は和室と保の部屋しかなく、ベッドもドアを開けるとすぐだ。
「大丈夫だ。慣れているから。時折ぎゅっと痛む。いつもの偏頭痛とは違うから、薬も飲まなくていいんだ」
 笑いながら言ったが、美也の心配は晴れそうにない。
「おとなしく見ている事にするよ」
 ダイニングの椅子に座って、料理ができるのを待つことにした。
「何を作ってくれるんだ?」
 まな板の上で野菜が切られていく。
「オーソドックスなところでクリームシチューを。多めに作っておけば、保さんの昼食にもできますから」
 言いながらも手は止まることなく、綺麗に切りそろえられていく。
「すごいな。どこで料理を覚えたんだい?」
「母子家庭ですから、自然と。働く母親のために、初心者向けの料理くらいならできますよ」
 笑って説明する美也の背中が、ズキンと痛む頭痛でぶれる。スローフィルムが重なったように、声が二重になって響いた。
 どうして今日はこんなにも頭痛がするのだろう。
 不思議に思いながら、料理ができるのを待っていると、いい匂いがしてきた。
「びっくりだな、ホワイトソースまで作るなんて」
 座っているのも飽きてきて、鍋を覗き込んだ。
「全然難しくないんですよ。案外、簡単で」
 楽しそうに美也は料理をしていた。美也の手つきを見ていれば簡単そうにも見えるが、実際に真似できるかと言われれば無理そうだ。
「私も母子家庭なのに、そういうことは出来なかったなぁ」
 少しばかり反省する。
 美也はひどく真剣な顔で、手を止めた。
「こういうの、向き、不向きってありますから」
 止まっていた手が動き始める。
 なんだか不器用だと言われたようで、保は少しばかりむっとしながらテーブルに戻った。
 テーブルの端に小さなノートとペンが置いてあった。
 ノートは美也のスケジュール帳だろう。見覚えがあった。けれどペンは初めて見るもので、珍しい形をしていた。
 ペンの頭、ノック部分が小さなライトになっていた。スイッチはどこにあるのかわからず、ライトはつかない。
 スケルトンの胴体から覗く芯の色は白っぽく見えた。修正ペンかとも思ったが、握って出してみたペン先は普通の形だ。
 どんな色が出るのかと悪戯心で、テーブル脇にあったマガジンラックから新聞を抜き取り、端にクルクルと円を描いてみた。
 けれど、インクが切れているのか、ペンが壊れているのか、何も書けなかった。
 不思議に思い、もう一度ライト部分を確かめていると、横から手が伸びてきてペンを奪われた。
「あぁ、すまない。珍しいペンだなと思って」
「壊れているんです。買い替えようと思って、そのままで」
 バツの悪い顔をして、美也はペンを手帳に挟んで、キッチンの入り口に置いてあった自分のカバンに入れた。
「もうすぐできます。お皿、どれを使いますか?」
 振り返った美也の笑顔はいつものままで、その美しさにペンのことなどどうでもよくなっていた。
 クリームシチューはとても美味しく、久しぶりに食事らしい食事をしたような気持ちになった。
 病院食は栄養のバランスはいいだろうが、どうにも味気なかったのだ。
「美味しいよ、すごく」
「ホワイトソースのバターを少なくしてあるんです。だから少しシャバシャバするんですけど、保さんはあっさりしたのが好みでしょう」
 感動する保に、美也ははんなりと微笑む。
 何度か食事をしただけだが、好みを知ってもらえていたのが嬉しい。
 ずっとこうして二人で暮らしたい。欲張りなことを願う。
 けれど、美也は食事の後片付けが済むと、明日も会社があるからと、帰ってしまった。
「体調が悪くなったら、真夜中でも必ず電話くださいね」
 心配ならずっと一緒にいてくれればいいのにと思うが、退院したばかりで体調を気遣われている状態の自分では、無理に泊まっていけとも言えず、またこのみすぼらしいアパートで美也を引き止めるのも無性に恥ずかしかったのだ。
 会社に行かなければいけない美也と、ほぼ退職状態の保では、男としてのプライドも邪魔をした。
 だから翌日から保は、自分の身辺整理をしようと動き始めた。
 美也は退社後に食事を作りに来てくれることになったので、彼が出社している時間が、内密で動ける時間になる。
 まずは母親の説得だった。認知は諦めよう、二人で贅沢ではなくとも平穏に暮らせるだけの和解金で手をうとうと言うと、母親は悪鬼の如く顔を歪ませて、保を罵った。
「裏切り者! この裏切り者! 何のためにあんたを産んだと思ってんの! どれだけ苦労して育てたと思ってんのよ! あんたがその金を払えるって言うの! 裏切り者! さっさと貴島を締め上げてきなさいよ!」
 病院内などかまいもせずに怒鳴り、暴れ、医者に安定剤を打たれ、保は追い出されてしまった。
 悄然としたまま帰る道で、保は暗い気持ちになった。
 美也の顔を見れば落ち込んでいる場合ではないと奮起し、また次の手を考えた。
 今まで手をつけるのを遠慮していた母親の持ち物も調べることにした。
 母親も見落としている、もっと確定的な証拠となるものはないかと考えたのだ。
 同時に、宗田とも会う約束を取り付けた。宗田が自由になる時間はとても短く、細切れでの面会となったが、保は自分の生い立ちを含め、今おかれている状況などをできる限り詳しく話した。
「貴島家から聞いている話とずいぶん違います」
 宗田はそのことで少なからず混乱しているようだった。
「調べてください。納得のいくまで、調べてみてください。私の言っていることに嘘偽りはないことがわかっていただけると思います。調べて納得いただいてから私の話を聞いてくださるのでもかまいません」
 保は今回、貴島側から渡された、休職に関する手当ての中から費用を払おうとしたが、宗田は曖昧に笑ってそれを返してくれた。
「貴島家に関する調査費用で調べられます。その辺は任せてください。休職にまで追い込まれたのでしたら、これから大変でしょう」
 保に同情的になっていた宗田は、まだ保を支持してくれるとは言わなかったが、今のところは有利に動いてくれるようだった。
 母親を説得することこそが命題として残されつつあるが、最初に説得しようとして以来、みどりは保との面会を拒否してきた。会っても役立たずと罵るだけだ。
 そのストレスから逃れられるのは、美也との一時だけだ。もっともストレスの解消される時間であるのに、彼と過ごす時間に、頻繁に頭痛を感じるようになっていった。
 ほっとした瞬間に、ストレスが押し寄せてくるのだと、自分に納得させる。
 美也が心配するので、頭痛がしても隠すようになった。
 すぐに治まる。そう思っていたのに、ずきりと差し込むような痛さは、ゆるむどころか、酷くなるばかりだった。



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