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 夕方になって大介が二人の刑事と一緒に病院にやってきた。
「今、少しお話をお聞きしてもよろしいですか?」
 医者の許可は取ってあるとのことだったが、体調にも問題はなく、保はベッドを起こして座った。
 美也は保の入院準備のために、荷物を取りにいってくれていて、病室には保一人きりだった。
「この女性に心当たりはありませんか?」
 一枚の写真を差し出す。
 表情が不自然に見えるのは、顔のパーツを繋ぎ合わせて、一人の顔を作っているせいだろう。
 身構えるまでもなく、顔を横に振ることができた。
 さすがに自分の従姉妹に当たる塚田愛が直接手を出してきたのではないと思ったほどだ。
 だが、身内の遺産がらみの犯罪に、他者を巻き込むとは考えにくく、愛が変装をしていたか、母親のほうが若作りしていたのかもしれない。
「もう一度良くご覧になってください。目や、口元、一部がどことなく似ているだけでもいいんですが」
「知り合いにはいません」
「よく思い出してください。学生時代や、過去にトラブルのあった人などにも心当たりはありませんか?」
 保は瞬きをして、写真を刑事たちに返した。
「私は2年前に事故を起こして、それ以前の記憶がかなり曖昧なのです。昔に何かあったのだとしても、今頃仕返しされるというのはおかしいように思います」
「事故?」
 刑事ははじめて聞くというように顔を見合わせた。
「病院はここじゃありませんが、ずっと診察に通っていますので、カルテを調べてもらえればわかると思います」
 刑事たちもこれ以上は保から聞きだすことは難しいと考えたのか、写真を手帳に挟み込み、会社関係などについて質問を移したが、それこそ特にトラブルもないので、たいした収穫は得られずに引き上げていった。
「御子柴君、君にも迷惑をかけてすまなかった」
 二人になった病室で、意識が戻ってから始めて顔を合わせた大介に謝った。
「別にいいけど……。美也に聞いたんだけど、あんた、前にも仕事場で怪我したんだろ? どうして警察に言わなかった?」
「あれは事故だよ。偶然、ブロックが落ちてきた」
「下手したら死んでたかもしれないんだろ? 今回だって、ナイフが小さくて、女の力だったからたいしたことにならなかっただけで、少しずれていたら危なかったんだぞ」
 真剣に心配しているようなその様子に、驚きながらも嬉しさや戸惑いが混じって、笑って誤魔化そうとした。
「そんな大袈裟な」
「笑い事じゃねーよ」
「すまない。一度きちんとお礼をしないとな。前にも退院の手伝いをしてもらったし」
「いらねーよ。もう寝てろよ。……美也は?」
 話をしながら、あれほどわだかまりのあった大介との会話が、とても気楽なことに気がついた。会話のテンポが小気味いいとでも言えばいいのだろうか。
 美也が彼とは本当に何もないのだと思えるようになったことが、保のわだかまりを消してくれたからだろう。
「入院の用意をしてくれてる。もう戻ってくると思う」
「何日くらい入院するんだ?」
「5日で抜糸をして、すぐに退院できるらしい」
「また気が向いたら来るよ」
「会っていかないのか?」
 大介はドアのところでじゃあとばかりに手を振って出て行ってしまった。本当に美也に会うつもりはないようだった。
 仲がいいようでいて、変にあっさりしている二人の付き合い方に、友達以上のものはないのだろうなと、今なら思えた。むしろ友達よりも付き合い方は薄いと感じる。
 それから一時間もしないうちに美也が戻ってきた。
「ありがとう」
 美也は微笑みながら首を振って、衣類をロッカーに入れてくれる。
「さっきまで御子柴君がいたんだ。警察も一緒に来ていた」
「モンタージュができたんですね。俺も見たかったな」
 心当たりがあるのかと、目で問われる。
「見覚えなどなかったよ。仕事関係のことも聞かれたから、週明けには写真を持って会社に行くかもしれないな」
 それはそれで気が重い話だった。
 避けられないこととはいえ、また貴島や塚田の耳に入るだろう。
 だが、警察が動いたことを知ったほうが、相手もしばらくは何もできなくなるだろうと思えた。
 その間に自分にできることはないだろうかと考えた。
 そんなふうに思える自分に驚く。
「課長? 痛みますか?」
 心配そうに美也が覗き込んできた。
 ああ、そうかと気づく。
 美也が側にいてくれる。そう思えるだけで世界が変わっていくように感じられるのだ。
 自分の抱えた問題を降ろしてしまいたい。
 母の望む結果でなくてもいいではないか。今の生活は苦しくても、母と二人、贅沢をしなければ生きていける。母も公的な支援を受けるようになれば、少しの余裕もできるだろう。
 もう争うのは嫌だった。美也が隣に居てくれて、穏やかに慎ましく生きていきたい。
 刑事たちは保の生い立ちにも踏み込むだろう。貴島たちが慌てたら、自分は身を引くことを告げよう。
 何もいらない。穏やかな生活が欲しい。
 母を説得しなければいけない。貴島たちにも信じてもらわなければいけない。
 どちらも大変なことだろうけれど、その先に美也の笑顔があるのなら頑張れると思えた。
「薬が効いているのかな。痛みはないよ」
「でも、熱が出るかもしれないって、先生が言ってましたよ。無理しないで下さい」
 純粋に心配してもらえることが、こんなにも嬉しくて、心温まることだとは知らなかった。
「君がいてくれるから、痛みも熱も吹っ飛んでいるのかもしれない」
 美也はじっと保を見て、ぷっと吹き出した。
「課長らしくないです」
「浮かれているんだよ」
 保も笑い出してしまう。本当に浮かれているなと自分でもわかった。
「もっとらしくないことを言ってもいいかな」
 冗談のついでのように言う。
「なんですか?」
 澄んだ瞳が見つめてくる。その視線はいつのときも真っ直ぐだ。
「二人のときは役職じゃなくて、名前で呼んで欲しい」
「か……」
 課長と言いかけて止まる。
「えっと……」
 少し戸惑っている様子が微笑ましい。
「たも…つ……さん」
 すらりと出てこないのが愛らしい。
「もう一度」
 リクエストする。
「保さん」
「美也」
 手を伸ばすと、躊躇いながらも美也が身体を寄せてくる。腕を掴み引き寄せると、肩に額をことんと置かれる。
「私は……幸せになりたい」
 ぴくんと反応した背中に手を回す。
 君が矢を撃ってくれたとしても、今の私じゃきっと変われない。人頼りじゃ駄目なんだと思う。自分で切り開きたい」
「そんな大変な事……」
「大変でも、頑張ろうと思えるようになったんだ。君のおかげだ」
「名前……」
「え?」
 近くだけれど、布越しに聞こえる遠い声を聞き返した。
「名前で呼んでくれるんでしょう? 保さん」
 美也が身体を離した。心配そうな顔に、大丈夫だからと笑いかける。
「美也……。私は頑張るから、これからも側にいてくれるかい?」
「……はい」
 首の後ろに手を伸ばす。
 ゆっくり力を入れると、抵抗なく近づいてきた。
「好きだよ美也」
 言葉を聞く直前に閉じられたまぶたが震える。
 軽く触れた唇を離し、すぐにまた触れる。
 背中を抱き寄せると、刺された脇腹をかばうように、美也はベッドに膝を乗り上げた。
「保…さ……ん」
 かぼそい声が不安を訴えているようで、強く抱きしめ唇を重ねた。
 頬が濡れたのに驚いて顔を離すと、美也のまつげも濡れていた。
 その涙に、美也の消せない想いを垣間見てしまう。
「美也?」
 抱きついて涙を隠される。
「美也……、私は頑張るから」
 君の心にまだ消えない人がいても。
 ぎゅっとパジャマを握りしめる手に、この時はまだ、美也の心が自分に向くのだと信じていた。



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