XXX 19 XXX


 美也が目の前に立っていた。
 不安そうな顔をして、自分を見ている。
 いつもの笑顔を見たくて自分から声をかけた。
 ……美也、ただいま……と。
 笑ってくれると思っていた美也は、ぽろぽろと子どものように涙を零して泣いた。
 慌てて手を差し伸べる。
 けれど美也はその手を振り払い、何かをしきりに訴えている。
 その声が聞こえない。
 どうしていいのかわからず、暴れる美也を両手で抱きこんだ。
 ごめんな、ごめんなと何度も謝る。
 どうして自分が謝っているのかわからず、それでも泣かせているのが自分だということはわかっていた。
 美也、美也……と何度も名前を呼ぶ。
 美也は自分の腕の中で泣きぬれた顔を上げ、無理にも笑ってくれた。
 その唇が名前を刻んで……。


 はっと目を覚ました。
 ピッ、ピッと響く電子音を聞きながら、ぼやけていた視界がゆっくり形を取り戻していく。
 右手に誰かの温もりを感じて、握ったまま引き寄せようとした。
「課長……?」
 横から覗き込んできたのは美也だった。
 今まで見ていた夢を思い出す。
 夢と同じように、美也は泣いていた。
 涙は見えないが、目が真っ赤だった。
 自分が誰かに刺されたことを思い出す。電子音やベッドの周りのカーテン、点滴などを見てここが病院だとわかった。
「痛みますか?」
 美也の手がそっと離れていく。
 あの時、美也は現場にいなかった。彼……御子柴大介が呼んだのだろうか。
「御子柴君は……」
 擦れた声が出て、咳き込んだ。
「こっちを向いてください」
 刺されていないほうを向かせて、背中を擦ってくれる。咳が収まると、そっとストローを差し出された。
 渇いた喉に、冷たい水はとても美味しかった。
「大介くんは今、警察に行ってます」
「警察? 私を刺したのは彼じゃないんだが」
 疑われているのだとしたら、申し訳なさ過ぎる。
「はじめは疑われたらしいんですが、容疑はすぐに晴れました。課長が自分で証言されたんですよ。覚えてないですか?」
 まったく覚えがなくて保のほうが戸惑ってしまう。
「救急車より警察のほうが早く到着したそうです。直前に言い争いをしていて、誰かが駅前の交番に報告していたみたいで。それで疑われたんですが、課長が彼じゃないって、自分で言ったんです」
 その場に美也が戻ってきたという。大介の声は聞こえなかったが、駅前が騒がしくなって、胸騒ぎがして戻ったところに、信じられない光景を目にした。
 ちょうど救急車が来たので、一緒に乗ってきたという。
「大介くんは課長を刺した女のモンタージュを作りに行っているんです」
「女……」
 呟きが零れた。
「若い女だそうです。心当たりがありますか?」
 一人の女性が浮かぶが、それを言うわけにはいかない。
 今はただ、ひたすらに耐えるしかない。
「警察は痴情の縺れなんじゃないかと疑ってました」
「そんな女性はいない」
 美也に誤解されたくなくて、それだけはきっぱりと否定した。
「心当たりがあるんじゃないですか? どうしてかばうんですか?」
 刺された保よりも、美也のほうが苦しそうに訴える。
「かばっているんじゃない。……本当に心当たりはないんだ」
 貴島の娘、自分の叔母に当たる塚田由貴の長女、愛しかいないと思いつつ、まだ若い彼女が直接手を出してくるなどということがありえるだろうかと考えた。
 しかし、昼に正次と衝突して、すぐのトラブルなので、貴島がらみのこととしか思えない。
 だとすると、今は騒ぎを起こしたくない。相手を怒らせ、決別するような事態は、今だけは避けたい。
「背中から刺されて……相手のことは何もわからなかった。性別も今はじめて聞いたくらいだ」
 それだけは嘘ではないのでちゃんと言えた。
「そう……ですか」
 美也は納得できないながらも、それ以上は何を言っても無駄だと察したのか、またベッド脇の椅子に座った。
「でも、警察が今日にも事情を聞きに来ると言ってました。怪我は服の上からだったことと、相手が非力だったことも幸いして、そんなに深くなく、縫うだけで済みました。でも一週間は入院だそうです」
「また君に迷惑をかけてしまったね。申し訳ない」
 自分がベッドに寝て、美也が心配そうに覗き込んでいるというシーンは二度目だと思い、おかしくて笑ってしまった。以前のほうが美也を身近に感じた。
「笑い事じゃないです」
 保が笑ったのにむっとして、美也が抗議をする。
「すまない。君…仕事は?」
 窓の外は明るく、何時かはわからないが、もう仕事の始まっている時間だろう。
「今日は土曜日です」
「あ、あぁ……そうか」
 曜日の感覚までなくなっていたらしい。少しばかりほっとして、溜め息をついた。
「頭痛とか大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。世話をかけたね、あとは何とかするから、君ももう帰ってくれていいよ。ありがとう」
 これ以上は迷惑をかけられないと、保にすれば遠慮をした言葉だったのだが、美也は辛そうに美しい顔を曇らせた。
「俺は……ここにいちゃいけませんか?」
「君も迷惑だろう? 私のことはもうかまわないでくれ……前にも言ったように……」
 ガタンと椅子が鳴る。美也が立ち上がったのだろう。
 保は静かに目を閉じた。美也が出て行く後ろ姿を見たくなかった。
 けれど足音はしない。
「課長の気持ちが変わっていないなら……俺がそれを受け入れたなら……側にいてもいいんですか…………」
 苦しそうな呟きが聞こえ、保は目を開けた。
 美也がまた泣き出しそうな目で保を見ていた。
 彼はいつも保をまっすぐに見つめる。澄んだ瞳で、ただ真っ直ぐに。
「…………本気か?」
 二人の間の空気が張り詰めた。
「本気です」
 迷いはないように見えた。
 けれど信じがたい。
「それがどういう意味かわかっているのか?」
 今までのように上司と部下として側にいるだけでは済まさせない。
 一人の男として美也を求めているのだと、わかっているのだろうか。
「こんな時に、貴方の側にいられないほうがずっと辛い。俺は……もう二度と手を離したくない」
 涙が青ざめた頬を伝う。
 唇が震えている。
 涙を拭いてやりたくて手を伸ばす。
 美也はびくっと肩を震わせて、保の胸に頭を寄せてきた。
 伸ばした手で美也の頭を抱いて引き寄せた。
 ふわりと香ったのは懐かしいような、甘く切ない香りだった。
「本当にいいのか?」
 君は誰かへの想いを断ち切れるのか。
 自分を見てくれるのか。
「……はい」
 返事は予想外に落ち着いていた。
 もう覚悟は決まっているのだと思えた。
「名前で呼んでもいいか?」
 夢の中で何度も呼んでいた。その愛しい名前を。
「はい」
 まだ緊張しているらしい美也は、抱き込んでも保の胸に体重をかけないようにしていた。
「……よしなり…」
 びくりと震える身体。
「美也……美也……。好きだ……君が」
 強く抱きしめる。絶対に逃がさないと心に決めて。
 ぎゅっと肩に置かれていた手が握りしめられる。
「美也……」
 泣いているのだろうか……。
 無理をしなくても……そう言いかけて止めた。
 彼を離したくない。心の奥が強く訴えている。
「美也」
 泣いている彼の肩を抱きしめ、夢の中のように、何度も名前を呼び続けた。



 xxx xxx 18 xxx 20 xxx xxx