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 諍いがきいたのか、美也から親しく接してくることは極端に減った。
 けれど同じ課にいるという点と、保の受け持っていた営業先を美也が受け継いだので、接点がまったくないというわけにもいかず、よそよそしい態度で話してしまう自分に、かなり嫌気が差していた。
 もっとおおらかでいたい。美也のことを嫌いになったわけではなく、優しく接したい。
 そんな気持ちは常にあるのに、実際には冷たくしてしまう自分が嫌いだった。
 廊下や休憩室ですれ違う度、美也は話しかけたそうに見えるが、保は気づかぬふりで押し通した。美也を責めてしまうだろう自分が厭だった。もうこれ以上、自分を貶めたくなかった。
 肩の落ちた後姿を見て、苦い後悔が襲ってくるが、だからといって戻ったところで余計に溝を深めるだけだとわかっていた。
 その日は朝から朝から会議があり、午後からも貴島本社で会議が続き、自分の部署に座る時間すらなかった。
 本社の会議が終わったあとに、叔父である貴島正次に呼び出された。
 正次は本社の社長で、貴島家の次男に当たる。父の賢次が早世した後、貴島家の後継者として君臨している。
「みどりさんが入院されたそうだね」
 どこから情報を入手しているのだろうか、こちらから話をしなくても、親子のことをよく把握していた。
「はい。リハビリのためですが」
「お見舞いにうかがわないとと思いながら忙しくてね、申し訳ない」
 行く気もないくせにと思いながら、「お気遣いなく」と社交辞令の台詞を口にする。
 お見舞いと書かれた袋を出され、保は抵抗感を持ちながら、それを受け取った。
「ありがとうございます。母に叔父さんが心配していたと伝えます」
「しかし、長引くねぇ。もう完治の見込みはないのだろう? 君も大変だ」
 自分でも大変だ、負担だと思っていたが、何のために自分達親子が苦労しているのかと思うと、この叔父の他人事な台詞にはカチンときてしまった。
「父との婚姻関係を貴島家の皆さんに認めてもらえれば、すぐにも良くなるような気もしますけど」
 貴島家の面々に向かって保のほうから強気に出ることは滅多になかったことなので、正次はこの言葉にさっと顔色を変えた。
 まずいことを言ってしまったかと思ったが、投げやりな気持ちのほうが勝っていた。
「実際のところ、入院費もバカになりません。父が生きていてくれたらと、最近はそればかりを考えます」
 正次はいつも覇気のなかった保が、自分に向かってここまで言う事に、驚くと同時に怒りを増幅させているようだ。眉間の皺が深くなり、口が歪んでいくのがわかった。
「兄さんが生きていてくれたらと思うのは、何も君たちばかりじゃないよ。我々だってそう思ってるさ!」
 それはどうだろう。長男が不幸な事故で亡くなり、転がり込んできた立場に喜んでいるのではないだろうか。特にこの正次は。
「君こそ、金銭的なことばかりで、ちっとも悲しんでいるようには思えないがね」
「私は父との思い出が全くありませんから」
 あるわけがない。
 生まれていたならまだしも、それ以前に死んでしまった父の死を、どのように悲しめばいいというのか。
 ノートには父のいないことでいじめられたこと、寂しい思いをしたこと、大変だったことなどが書かれているが、記憶のない今はその感情すら失くしてしまっているのだ。
「母はずっと苦しんでいます。どうか、貴島家の皆さんも、父の死を悼むお気持ちがあるのでしたら、父と同じように母を家族として迎えてやってください」
「兄さんはみどりさんのことなど、一度も口にしなかった!」
 怒鳴るように告げられ、思わず一歩さがってしまう。
「当時は縁談も持ち上がっていたんだよ、良家のお嬢さんとのね。その話を進めようとしたいたときに死んでしまった。その後で子どもができていた、産んだ、認めろと言われて、ほいほいと認めることなんてできんよ。死人に口無しだ。本当に親子かどうか、わかったもんじゃない!」
「だから鑑定をしたじゃないですか!」
 鑑定結果も出ている。だが、父が死亡しているために親子鑑定ではなく、祖父との血縁関係で鑑定するしかなく、その信憑性を叔父たち反対派が疑っているのだ。
 裁判に持ち込めば勝てるだろうが、その費用が捻出できない。みどりの起こした事故のために、そのための費用を費やしてしまったのだ。
「その結果を見るべき父が重病なんだ。今、そんなことで煩わせないでくれ」
 そんなこと……と言われ、悔しさがこみ上げてくる。
 有耶無耶なまま、祖父が、貴島会長が亡くなるのを待つつもりなのだろう。
「君たちに悪いようにはしない。もう少し待っててくれ」
 幾ばくかの手切れ金を握らせ、片をつけようというのだろう。自分が莫大な貴島グループを継いだうえで。
 保自身は親子が困らなければそれでもいいと思っているのだが、みどりは積年の恨みが募っており、それではとうてい納得しないだろう。
「いつもそればかりですね。まるで時間稼ぎをしているようだ」
「何っ!」
 正次は気色ばんだが、保の真剣な目に、すぐに平静を装った。
「とにかく、父の容態が落ち着かないことには、どうにもできない。君だって、祖父の回復を祈っているだろう?」
 試すように目を眇められる。
「ええ、私はきっと誰よりも」
 憎々しげに鼻を鳴らし、正次は背を向けた。話はもうないという態度だ。
「失礼しました」
 形式ばかりの挨拶をして部屋を出た。
 正次は塚田夫妻に連絡を取り、保のことを罵っているだろう。
 どうでもいいことだ。なんとでも言ってくれ、と気持ちがささくれだっている。
 本社を出るともう辺りは暗かった。
 このまま帰りたいと思いながら、午前中の会議の報告書だけは仕上げたいと、会社に戻ることにした。
 どうせ家に帰っても誰もいない。それにこの時間ならば、残っている社員も少ないだろう。美也も帰っているだろう……。
 だらだらと気持ちを引きずるようにして、第三営業部に戻ると、自分の机の上に見慣れた薬袋が置かれていた。
 中身を確かめると予想通り、頭痛薬が入っている。
 そろそろ薬が切れるころだろうと、美也が調達してきたのだろう。
 違う、美也ではなく、彼……御子柴大介が。
 苛立つ気持ちが増幅した。
 知っているんだと言ってやりたくなった。この薬ならもう自分で用意したと突き返したくなった。
 美也にすれば、最悪なタイミングで薬を置いていったことになる。
 簡単に議事録をまとめ、明日一番に提出できるように封筒に入れて引き出しに入れ、慌しく退社した。
 美也の住所は知っている。
 最寄の駅を降りると、駅前の歩行者信号がリズムの狂ったとおりゃんせを奏でているのが聞こえた。
 ずきりとこめかみが痛む。
 それを振り切るように改札を抜けた。
 ちょうど信号が赤に変わるのが見えた。立ち止まったのは、その信号を渡るのがなんとなく嫌だったからだ。
 しかし立ち止まったために、保は見たくないものを見てしまうことになった。
 以前、美也と一緒に入った喫茶店から、美也と大介が出てきたのだ。
 二人は保に気づかなかった。何やらもめているように見えた。
「俺にはあんたの言っている意味が全然わかんねーよ」
 大介の声は美也を詰っているようで大きくなり、保のいる場所にまで聞こえてきた。それに対する美也の声は小さくて、ほとんど聞き取れない。
「もう彩華(あやか)が限界なんだよ。慰めるのも大変……」
 こちらに身体を向けていた大介が保に気づいて言葉を止めた。
 黙ってきいていた美也も、何故言葉を途切れさせたのかと大介を見やり、その視線を追って保に気がついた。
「…………課長」
 美也が目を見張っている。
「あんた……、こんな所で何してんだよ」
「大介くん」
 大介が気色ばんで向かってこようとするのに、美也が手を引っ張って止めている。
「立ち聞きしてたのかよ」
 美也に向けていた怒りを、今は完全に保に向けていた。
「今ここについたばかりだ。最後の君の台詞は聞こえてしまったが、私の知らない女性の名前だから、聞こえてしまったが意味はわからない」
 ちゃんと説明したのに、大介は余計に怒ってしまったようだ。
「てめぇ……」
「大介! 駄目だ!」
 美也が必死で止める。周りの視線が三人に集まってきた。ひそひそと喋る声も聞こえてきて、このままでは通報もされかねない。
「わかったよ。何も言わねーよ」
 美也の手を振り切って、大介はぷいっと横を向いた。
「課長……どうされたんですか、こんなところまで」
 すっかり毒気を抜かれた保は、美也に薬を突き返すつもりが、全く反対のことを口走っていた。
「薬をありがとう……と言うつもりが、ここまで来ていた」
「そりゃご丁寧なことで」
 何故か大介に返事された。そういえば薬は彼が貰ってきたのだろうから、彼に言われるのも当たり前かもしれない。単なる厭味だったのかもしれないが。
「余計なことをしてすみませんでした」
「なんで美也が謝るんだよ」
「いいんだ」
 何事にも突っかかる大介を制して、美也は力なく笑う。
「別の病院で同じ薬を貰える様になったから」
 気を遣わなくていいと言ったつもりが、美也にはもう構うなというように聞こえたのか、悲しげに顔を曇らせた。
「そうですか……じゃあ、もう安心ですね」
 無理にも笑って、美也はさよならと聞こえないような声で告げ、走り去っていった。
「あーあー、無茶苦茶だよな、あんた」
「追いかけなくていいのか?」
 奇妙なペアで残されて、保は気まずくなった。
「追いかけなくちゃなんないのはあんたのほうだろ」
 そう言われても、追いかけることはできなかった。
「何も知らないくせに、余計な口出しはしないでくれ」
「…………何も知らないのはどっちだよ」
 ぼそっと吐き出され、今日はとことんついていないと思う。
 苛立ちも、腹立ちも、今日の分は使い果たし、疲れしか残っていない。
「君はいったい……」
 どういうつもりだと問い返そうとした時、背中からどしんとぶつかられた。
 腰に熱いような痛みが走る。
「……おい? おい、どうした……おい! あんた!」
 崩れるように膝をついたら、大介が焦ったように肩を支えてくれた。
「大丈夫かよ?!」
 大介の呼びかけがわんわんと頭の中で響いた。
「誰か! その女を捕まえてくれ! いや! 救急車だ! 美也! 戻ってこい! 美也!」
 ざわざわとした声に悲鳴が混じる。
「女だよ! 茶色のチュニックの女! 捕まえてくれ! そいつに刺されたんだ! 美也! よしなりー!」
 大介の言葉で自分がどうなったかわかった。
 本当に今日は最悪だ。
 正次にあんなに言い返さなければ……。
 呼びかける声が頭の中で反響する。もう意味をなさない騒音に聞こえてくる。
 救急車のサイレンを遠くに聞きながら、腰よりも痛む頭を恨んでいた。



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