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  箒星を捜し求めて 遠い空を眺める

  夜は暗い 黒く深く どこまでも  ……遠い

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「おはようございます」
 明るくかけられた声に振り返り、保は絶句した。
 いつもと変わらない美しい笑顔が保を見ていた。
「……おはよう」
 反対に保の声は不自然に震える。
 笑おうとした顔は引きつり、歪んでいるように見えただろう。
「今日も暑くなりそうですよね」
「あぁ、そうだね」
 相槌を打ちながら、心の中では全く別の叫びをあげていた。
 どうしてそんなふうに笑えるのか。
 どうしてそんなに平然としていられるのか。
 昨日までと全く変わらない態度はなんなのか。
 聞く前に自分の中で結論が出てしまう。
 保の告白など、美也の中ではごく普通のことで、断ることすらよくある出来事の一つに過ぎなかったと。
 そう思うと、昨夜以上に気分が沈んだ。
 その程度の存在でしかなかったのかと落ち込みが酷くなる。
 保のそんな心境など全く関係ないかのように、美也は会社の中でも、全く様子は変わらなかった。
 もっとギクシャクするだろうかと心配もしたが、こうもへ依然としていられると、時間がたつにつれ安堵よりも怒りに似た感情が芽生えてくる。
 大人気ない、男らしくないと思いつつ、美也のことを少しずつ避けるようになってしまった。
 母親が自宅療養期間だったので、出退社の時間がぎりぎりのタイトになっていたことも避けやすい条件と重なった。
 だがそんな保の態度は、やはり他の社員にはおかしく感じるものであったらしい。
 せっかく馴染み始めていた美也だったが、また微妙に浮き始めてしまったのだ。
 正直なところ、保は自分が職場でそんなに影響力があるとは思わなかった。どちらかといえば、自分は会社の中では異質な存在で、飼い殺しの人材であるとすら思っていたのだ。
 美也のほうは保に避けられていることに気づきつつも、あえて気づかないふりをしているような節があった。
 美也にとて告白され、それを断ることなど、日常茶飯事なのだろう。そのたびに人間関係に支障をきたしていたのでは、やっていけないのだろう。そのまま気づかないふりで押し通すことが、美也自身の処世術なのだと思えた。
 なるべく他の社員と変わらぬようにと接する時間を調整しつつ、個人的な接触はひたすら避けた。
 保のストレスは会社だけではなかった。
 家に帰れば母親に生活の不満を訴えられる。
 今までならば何とか宥めたり、聞き流したりできていたことが、どうにも我慢できなくなり、声を荒げてしまうこともあった。
 そうすると母親はさめざめと泣き、さらに我が身の不幸を嘆く。
「そんな子だったとは思わなかった」
「どんな子だったら良かったって言うんだよ」
 自分には細かな記憶はない。思い出せたことも紙芝居のように断片的で、どのようにいい子だったのか、要求されても困るだけだ。
「記憶喪失と一緒に性格も変わったのかもね」
 母親は息子に言い返されたことがショックだったのか、事故の責任は自分にあることを思い出したのか、顔を顰めて押し黙り、そしてしくしくと泣き始めた。
 そこで謝罪し、慰め、あなたの責任ではないと言ってあげられればいいのだろうが、そんな気持ちにはどうしてもなれなかった。
 狭い部屋では逃げる場所もなかったが、聞かないようにして逃げた。
 そんなふうに過ごしているうちに、会社はお盆の休暇に入った。
「墓参りに行こうか」
 父親の眠る墓。
 二人の家には父の仏壇も位牌もない。
「嫌よ。貴島の墓になんて。あんな奴らの墓なんて絶対に手を合わせたくない」
 父の遺骨も貴島の管理する、貴島家の墓に眠っている。
 みどりは頑なになる一方で、それに連れて貴島に対する要求も憎悪も増していくばかりだ。
 盆が明けるころに、みどりの次の入院先が決まった。
 リハビリ中心の病院で、療養施設のようなところだった。空き待ちをしていた病院で、ようやく受け入れてもらえるようになったのだ。
「どうせ治りもしないのに」
 今までならば入院を納得させるのにも一苦労だったが、夏の間の親子の険悪さがみどりにも堪えたのか、文句を言いながらも拍子抜けするくらいあっさりと入院していった。
 母親が入院すると、今まで迷惑をかけていた分を取り戻すように仕事に没頭した。
 周囲に軋轢を生じさせていたのは、保が十分に働けないせいだと思い込むようにした。
 仕事に打ち込むことで、美也に対する想いを封じようとしたせいもあった。
 熱心に仕事をいると、部下たちもそれ以外の用事では近寄りがたくなるのか、それはありがたいことだった。
「課長、無理しすぎじゃないですか?」
 そんな生活が半月も続き、九月に入ったところで、美也が見かねたように声をかけてきた。
 他の社員はみな帰った後で、美也も一度は退社したはずだ。
 手にはコンビニの袋を持っている。保に差し入れのつもりなのだろう。
「何か忘れ物か?」
 あえて答えない様にし、顔も見ずに聞いた。
 優しい言葉をかける余裕はもちろんなかった。
「これを……。何も食べていないですよね?」
 白いビニール袋が机の上に置かれる。飲み物と個包装の洋菓子が入っているらしい。
「いや、もう食べた。それは持ち帰ってくれ」
 ずいぶん冷たい言い方だと自分でも思った。
 美也はしばらく立ち尽くしていた。
「そこに立たれると邪魔なんだが」
 そんなに邪魔にはなっていない。ただ保の気持ちの負担になるというだけだ。
「すみませんでした。でも……ほんとに少しは食べてください」
 遠慮がちな声。
 冷たくあしらわれたのに、自分が振った相手なのに、何故そこまで気を遣うのか。思いやれるのか。
 気持ちにゆとりがあったならば好意的に取れる行為も、今は正反対の意味にとってしまいそうだ。むしろそうなる前に、美也にも距離を置いて欲しいと願った。
「私に気を遣うなら、もっと方法があると思うよ」
 刺々しい言葉が出てしまう。
「それは……どんな……」
「必要以上に話しかけないとか、ね」
 久しぶりにちゃんと美也の顔を見たような気がした。その美しい顔が強張っていく。
「でも課長は、私情を挟まないと言いました」
「挟んでいないだろう。仕事のこと以外で話をする必要はないというだけだ」
「…………そう、です…ね。……すみません」
 何故そんな傷ついた顔をするのか。どうしていまさら傷つくのだ。
「君に慕われているように勘違いしたのは私の罪だ。君のせいじゃない。謝る必要はない」
「でも俺は……」
「けれど、何も変わらない君を見ていると辛くなるんだ。しばらくは離れていて欲しい……仕事のこと以外では」
 当然、わかりましたという答えが返ってくると思っていた。
 明日からは少々寂しいけれど、それに慣れれば、以前ほどではなくても、親しい部下くらいには思えるだろうと。
「でも俺は……今まで通りにしたい」
 ずきりとこめかみが痛む。いや、痛んだのは胸か。
 まっすぐに見つめてくる目は、出会った時と変わらない。澄んだ瞳が懸命に保を見つめてくる。
 その瞳に惑わされないでいろというのは難しかった。
「この前君は私のことを残酷だと言った。けれど、君のほうこそ、とても残酷だと思う」
 振り切るように顔をそむけた。
「…………ごめんなさい」
 泣いているような、小さくか細い声。
 振り返りたい気持ちを精一杯堪えた。
 走り去る靴音とドアの閉まる音がしてからも、保はしばらくの間振り返れなかった。
 大きく息を吐いて、ぎこちなく視線を戻すと、机の上には美也の差し入れがそのまま置かれていた。
「いらないと言ったのに……」
 カサカサと音をさせながら中身を探る。
 コーヒー味のロールケーキと、ノンシュガーのストレートティー。
 どちらも保の好きなものだ。
 いつ好みを話しただろうか。忘れてしまうほどに、距離を置いていた。
 その距離は今夜さらに広がっただろう。
 またずきりと痛んだ。今度ははっきりと胸が。
 泣かせてしまっただろうか……。
 苦い後悔が胸を塞いだ。



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