XXX 16 XXX 「…………ごめんなさい。…………受け取れません」 美也の誕生日に用意したプレゼントは、受け取ってもらえずに、保の膝の上でぽつんと置かれている。 「それは……、その時計があるから?」 美也が右手で押さえている左手の手首。 そこにはサイズの合わない腕時計があることを知っている者も多い。 保の問いに美也は気まずげに顔を俯けたまま答えない。 「君の手にはサイズが合っていないように思うんだが」 手首を掴む右手に、かなり強い力が加わっているらしく、美也の腕や肩が震えだす。 「使わなくてもいい。受け取ってくれるだけでも、駄目だろうか」 美也のためにと、初めて買ったものだ。 拒否されることは辛い。 使ってもらえなくても、せめて義理でもありがとうと言ってもらいたかった。 「使わないものを受け取るのは申し訳ないですから。それをお店に持って行けば、引き取ってもらえるんじゃ……」 返品してはどうかと言われたとわかり、受け取ってもらえなかったショックも加わって、保は腹が立つのと同時に悲しくなった。 「その時計は君の誕生日の約束を破り続けている人のものじゃないのか?」 厭味まで口をついて出てしまう。駄目だとわかっているのに止められなかった。 美也の肩がびくんと震え、泣き出すのを堪えるように唇を噛んでいる。 図星なのだとわかると、腹立ちは小さくなっていった。 「その腕時計を外してくれないか」 美也の震える肩を見ていると、保の中から迷いが消えていった。 泣かせたくない。自分が守りたい。 いつまでも自分の境遇を恥じて、引き込んでいては、本当に大切なものを守れないと感じた。 「その持ち主は、もう君のところには戻ってこないんじゃないのか? 腕時計をつけたままでいると、いつまでも忘れられないだけだ」 美也の目が赤くなる。 今にも泣き出しそうなことはわかったが、保の気持ちは固まっていく。 「河合君、私は君のことが好きだ」 気負うことなく言えた。 正直な気持ちを打ち明けると、ほっとしたような安堵感が胸を包んだ。 「君はまだその時計の持ち主を忘れられないのかもしれないが、忘れる努力と、私とのこれからを、考えてみてくれないだろうか」 美也にとっても、保の申し出は気持ちを切り替える良いきっかけではないだろうか。 嫌われてはいないと思う。 誰かのためにずっと空けていた誕生日の夜を、保と一緒に過ごすと決めてくれた。 それは美也の気持ちの中で、保の存在が時計の男と替わろうとしているからではないだろうか。 「すぐには無理だろうけど、君が時計の主とのことを引きずっているのなら、私が彼を忘れられるように、君のことを一生懸命に想うと約束する」 美也はぎゅっときつく目を閉じた。左の目から涙が一粒、零れ落ちた。 それは噴水のライトアップの照明を受けてキラリと光り、腕時計を隠すように握りしめたままの右手の甲にぽとりと落ちた。 「返事は今夜でなくても……」 急がないつもりの言葉は、美也が髪を揺らすように首を横に振ったことで遮られてしまう。 「忘れるとか……できません」 涙声はかすれて、聞き取りにくいほど小さかった。 「完全には無理だろうけれど、少しずつでいいんだ。君だって、今のままでは辛いだろう?」 古い恋を忘れるには、新しい恋が一番だと思う。 実りのない恋を引きずるのは、誰よりも本人が辛いはずだ。 「辛い……です。どうしてこんなに苦しいのか……と、叫びたい、喚きたい、投げ出したい」 本音が零れ落ちてきて、保は震える細い肩に腕を回した。 抱きしめたい。けれど、美也は身体を固くして、その腕を拒むかのように、姿勢を崩さない。 涙は一粒限りで、もう出ていないようだった。 唇は震え、声も滲んでいるのに、泣こうとしない。 そのことで美也の辛さが、何よりも強く、今も彼の心を縛っているのだと思えた。 「俺は課長のことが好きです。……けれど、荒谷保さんという人を愛することは……できない」 小さく震える声。けれどきっぱり告げられた意味は理解できた。 肩を抱いていた腕を外す。 「私のことが好きでも、その人のことを忘れようとは、思わない……か」 きっぱり振られると、気持ちはさっぱりするものだとはじめて知った。 「ごめんなさい」 謝り方が幼くて、泣き出しそうな美しい顔とのミスマッチに笑いが零れた。 「謝るなら私のほうだ。誕生日の夜に、変な話をして悪かった」 何事もなく、笑ってまた明日と別れられたなら、それこそ淡い期待を抱き続けられたのかもしれない。 「振られたからと言って、仕事に私情を挟むつもりはないから。パワハラもセクハラもしないから、今までと同じように接してくれると嬉しい」 上司という立場を忘れないようにしなければ。それが自分の理性を縛る鎖でもあり、保たせる砦でもあった。 「できることなら、君とは会社ではなく、もっと若いときに出会ってみたかったな」 上司と部下ではなく、何の忌憚もない、しがらみもない、学生の頃に。 愚痴のようにこぼした言葉だったが、美也はそれに驚くほど強く反応した。 突然立ち上がり、赤く腫らした目で保を睨んだ。 「貴方は、とても残酷だ」 保は立ち上がることもできず、呆然と相手を見上げるしかできなかった。 何がそんなに美也を怒らせたのか、さっぱりわからなかった。 「すまない……」 勢いに押され謝ると、美也ははっとしたように顔を背けた。 「課長が悪いんじゃ……ないです」 美也は軽く頭を下げ、悲しそうな瞳で保をしばらく見つめたあと、くるりと身を翻して走り去った。 夜の暗闇の中に、美也の後ろ姿はあっという間に溶けて見えなくなってしまう。 追いかけることはできなかった。 結局、受け取ってもらえなかった時計が、保の膝の上に残されたままだ。 意気込んで買ったのが馬鹿みたいだ。 喜んでもらえるかもと思った数日前の自分を罵りたい。 捨て去ろうかと思った。噴水に投げ込めば、振られた惨めな自分も、浮かれていた馬鹿な自分も捨てられるかと思えた。 けれど、肩まで持ち上げたそれを、どうしても投げることはできなかった。 返品すれば料金は返してもらえるかもしれない。 正直なところ、この金額が戻ってくれば確かにありがたい。 少しは楽になるとわかっていても、返品する気持ちにはなれなかった。 恋の遺物なのだ、この時計は。 自分で使えばいいのかもしれないが、そうすると余計に惨めさが募るような気がする。 時計の包みをカバンに押し込んでしまう。 黒いノートに隠れるように、プレゼントはカバンの中で見えなくなった。 「夜は……明けない。明けの明星なんて……私の空には……昇らない」 矢を撃ってくれるのではなかったのか。 太陽を導いてくれるのではなかったか。 叩き付けたい言葉は思い浮かんだが、出てくるのは涙ばかりだった。 |