XXX 15 XXX 約束の7月17日が近づいてきても、美也のほうからキャンセルの申し出はなかった。 あれから田崎がもう一度誘いなおしたのか、それをどちらかに確かめるということはできなかった。 けれど、美也と帰りが一緒になったときに、先約があったのではないかと話を向けることはしてみた。 「先約? ありませんよ。17日は元々、誰とも約束しないつもりだったんです」 意外な返事に、それならば自分が誘ったのも迷惑だったのではと思い始めた。 「実家に帰るつもりだったのかな。それなら悪いことを……」 母一人子一人で育った美也が、誕生日だからと母親と過ごす事にしていたなら、それは申し訳ないことをしたと思い直す。 「課長、もしかして、俺の誕生日を知っているんですね?」 謝ろうとした時に、美也が面白そうに保を見つめてくる。 「あ……、あぁ、まぁ……」 「どうやって知ったんですか……って、一つしかないか」 「すまない。履歴書を見たんだ」 それ以外にどうやって誕生日を知ればいいのかなど、思いつかなかった。 「君は教えてくれそうになかったし」 「17日はラーメンが食べたいな」 美也は苦笑して、突然思いついたように、食べたいもののリクエストをしてきた。 「ラーメンって……、この暑いのに。それに誕生日なんだから、もっと」 「いいえ、ぜひ、ラーメンを食べたいです。汗ダクダクで」 自分の思いつきがとても楽しいようで、美也はニコニコとしている。とても嬉しそうな表情が、彼の美貌を更に増しているようだ。 「わかったよ、ラーメンだね」 もしかしたら当日に気が変わってくれるかもしれないしと、それに期待することにした。 「でも、誕生日に一人のつもりだったのかい?」 他に誘ってくれる人には約束があると断り、わざわざ誕生日に一人でいるという選択は、少しばかり寂しいような気がした。 「えぇ。ずっと前に約束していた人が、約束を破り続けているので」 遠くを見つめる瞳。急に影が差し、寂しい色を濃くする。 「その人は……今年は……?」 もしかしたら、恋人がいるのだろうか。そんな人はいないように思っていたけれど。 「さぁ? って、課長、一度キャンセルされたりしたら、それでもう終わりじゃないですか」 だったらどうして今年も待つつもりであったようなことを言ったのだろう。 一人で過ごすつもりだったということは、その人がもう一度約束してくるのを待っているということではないだろうか。 「君は、付き合っている人は?」 聞かずにはいられなかった。 二人の間に、一瞬の沈黙が落ちる。 「……いません」 それまでの軽い表情を打ち消して、痛みを堪えるように、美也は俯いて表情を隠した。 「変なことを聞いてすまなかった」 「いいえ。俺、選り好みが激しいから。心を許せる人でないと、側にいられないんです。顔のことでいじめられてきたから、俺のどこが好きかって聞いて、顔のことを言うやつなんて、どんなにいいなと思ってても一気に冷めちゃうし」 屈折した心が美也を頑なにしているのだろうか。 「綺麗だとか美しいというより、君のその顔は、君という魅力を引き立てる要素の一つになるのに」 確かに最初は、美也のあまりの美しさに圧倒されるものが多いだろう。しかし、それだけを見つめている人というのは、案外少ないのではないだろうか。 「君という人を見ている人の中には、君の中身に見合った外見として、容姿を褒める人も多いと思うよ」 素直に感想を言ってみる。 自分の魅力を、美也が少しでも認められればいいのにと思うのだ。 美也は保の言葉を驚きの顔で見つめていて、突然、痛みを感じたように目元を細めて、横を向いてしまった。 「……すまない。何を熱く語っているんだろうな、私は」 必死だったとはいえ、あまりに青臭い台詞だった。 「びっくりして……。いえ、嬉しかったんです。そんなふうに言われたの、二度目です」 「二度目……」 「前にもそう言ってくれた人がいました。その時は、素直に聞けずに、大喧嘩しちゃったんですけどね」 何かを思い出すような、優しい目元。 その喧嘩も、嫌な思い出ではないのだろう。 「君の話題に時々出てくるのは、みんな同じ人なのかな」 気になってしまえば、心の隅に重くのしかかるようになってしまう。 「同じ……って?」 「そう。君の瞳の色をヘーゼルカラーだと言い、君の闇にポスポロスの矢を撃ったという人」 そんなことまで覚えている自分がうざったいと、本人でさえそう思う。 美也にとってみれば、保以上に鬱陶しく感じるだろう。 自分の過去を、過去の出来事を、誰かに写してもらった写真のようにしか思い出せないのに、細かなこともノートに書いていないと不安なくせに、美也の言葉をこんなふうに思い出せるのが、自分でも嫌で仕方ない。 美也は目を見開いて保を見つめ、何かを言いかけては口を閉じた。 「すまない。とても厭味なことを言ったね。忘れて欲しい」 素直に謝った。 「いいえ。課長が謝るようなことは何もないです」 それからポツリと呟くように付け加えた。 ……全部、同じ人です……と。 美也の過去にいた人物がどんな人なのかを、具体的に聞く事はできなかった。 彼自身がそれを聞かれることを拒否するような態度を見せたこともあるし、保も知ることが怖かった。 これは嫉妬だ、と自覚した瞬間から、自分の美也に対する気持ちも、もう誤魔化すことはできなくなっていた。 見も知らぬ人物に対する、美也の過去に対する嫉妬は、保の心の中に暗く存在を残した。 過去のこととは言いながら、美也の言葉の中に度々登場し、今も影響を濃く残している人。 その人物を想像する時、女性ではなく男性のシルエットを思い浮かべてしまう。 美也の告げた言葉が女性的ではなく、男性のような感じがするのは、自分の言葉と同じと言われたからだろうか。 思い浮かべた男性の面影が、だんだんと一人の人物に重なっていく。 夢の中でその男性が振り返る。 彼はそう、御子柴大介だ。 はっとして目が覚める。同時にこめかみにズキンとした痛みを感じる。 違う……。 それは御子柴ではないはずだ。 御子柴ならば、毎年の約束を破っているいう条件には当てはまらない。 こんな夢を見るほど彼のことが気になっているのだろうか。 「保、起きたの?」 隣の部屋からいらついた声がする。 「何? トイレ?」 朝からみどりの要求は途切れることがない。 保が出かけるまで、自分のことばかりをして欲しいと云わんばかりだ。 ともすれば、仕事に出かけることすら文句を言いかねない調子になる。 保が少しでも渋る様子を見せれば、ここぞとばかりに我が身の不幸を嘆き悲しみ、延々と愚痴を聞かされる羽目になる。 「ちょっと痛いのよ。足を擦ってよ」 ほとんど感覚の残っていない足が痛いといっては、保に撫でさせるのも、常套手段の一つだ。 「どうしても今夜帰ってこれないの?」 今日が美也の誕生日である。 「なるべく早く切り上げるから」 「全く、気楽なものね。人がこんなに辛い思いをしているのに。貴島に文句の一つも言えないで、遊び歩くなんて」 「遊びじゃないよ。仕事って言っただろ」 「本当かしら」 ブツブツとまた朝から愚痴を聞かされるのかとうんざりし、思わず立ち上がった。 「な、何よ」 みどりはびくりと身体を震わせ、保を見上げてきた。その目は息子の大きさに怯えているようでもあった。 「なるべく早く帰ってくるから」 平坦な口調で繰り返す。どうしても今夜だけは譲れない。 そう、自分だけは、美也との約束を破りたくないと強く思った。 それだけは、きっと、見えない相手に勝てることだから。 「頼むわよ。今度のヘルパーさん、きつい人なのよ。何でも一度じゃ聞いてくれなくて、何度も頼まないとしてくれないのよ」 哀れみを誘おうとする言葉の連続。 なんとか生返事を繰り返しながら、会社に遅れるからと家を出た。 「おはようございます、課長」 朝一番に美也に会えたのは僥倖だった。 それまでの陰鬱な気分がさっぱりと消える。 「河合君、早いね」 「なんだか嬉しくって。遠足に行く前の子どもみたいな感じで、早く目が覚めちゃったんですよね」 嬉しそうに言われると悪い気はしない。 就業中、田崎に睨まれているような気もしたが、気づかぬふりでやり過ごした。 帰り間際に先日のように絡まれるのではと心配したが、諦めたのか、何も言ってこなかったのでほっとする。 退社する時間は、外回りに出ていた美也のほうが少し遅くなり、最寄り駅で待ち合わせた。 「で? どこにする?」 「もちろん、ラーメンです」 「気は変わってくれなかったのか」 梅雨の明ける真夏の夜に、ラーメンを食べに行く。 「店内はクーラーが聞いてますし、スタミナつきますよ、課長」 美也の励ましに、苦笑しながらついていった。 カウンターに並んでラーメンを食べていると、どうしても笑えてしまう。 「誕生日にラーメンって、色気がないな」 「男二人ですから」 美也も笑っている。 美也が選んだ店は、店内はごちゃごちゃしていたが、味はとてもよく、二人とも汁まで飲んで大満足した。 「美味しかったよ、ありがとう」 「お礼を言うのは俺ですって」 食後に少し飲もうかと誘ったが、美也は少し考えてから首を振った。 「飲むより、あそこで休みません? 俺、冷たいコーヒー買ってきます。ラーメンのお礼に」 美也が指差したのは、駅前の小さな公園だった。 夜になっても噴水の水が上がり、綺麗とまでは言いがたいがライトアップもされていた。 ベンチもいくつか置かれており、半分ほどはカップルが座っている。 美也が駅前のスタンドカフェでコーヒーを買っている間に、保はカバンの中からプレゼントを取り出した。 さすがにラーメン屋では渡せる雰囲気ではなかったのだ。 「お待たせしました。ブラックでよかったんですよね?」 アイスコーヒーを差し出され、礼を言いながら受け取る。 「河合君、誕生日おめでとう。そんなにいい物ではないんだけど」 ラッピングしてもらった箱を差し出す。 喜んでもらえるかどうかは自信がなかったが、礼儀上は礼を言って受け取ってもらえると、疑いもしなかった。 けれど美也は、その包みを見て、顔を曇らせた。 「この大きさって……時計、とかですか?」 「あ、……あぁ」 美也は自分の左手首を右手でそっと押さえて、唇を噛んだ。 「河合君?」 プレゼントは保の手の中で行き場をなくしている。 「…………ごめんなさい。…………受け取れません」 保は顔を背け、うな垂れるように謝罪した。 |