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 美也の誕生日が近づいてきて、保は買い求めたプレゼントをどのように渡そうかと迷っていた。
 直接渡すにも、誕生日をどうやって知ったのかと、美也は聞いてくるだろうと思われた。
 よい言い訳も思いつかないまま、結局は履歴書を見たと説明するしかないと覚悟もしていた。
 他に調べようもないので、正直に言うしかないだろう。
 プレゼントを渡す日には、美也に貰ったネクタイをつけていこうと考えていた。
 そのためにはまず約束をしなくてはならないのだが、美也に嘘をつかれてから、その理由を探しては精神的に距離を取るようになってしまっていて、保からは声をかけにくくなってしまっている。
 美也は変わらずに接してくるので、自分の方が気にしすぎなのだとわかってはいるが、美也に対する気持ちと、彼から向けられる気持ちには、やはり大きな相違があると感じてしまうのだ。
 母親が退院してきてから、残業もままならなくなり、業務にも多少の影響が出てきてしまっている。
 美也と退社後に会うための時間を作るのも、かなりの困難を要することは自分でもわかっていたが、せめて簡単な食事と、おめでとうを言いたい気持ちは強く、なんとかやりくりをつけようと、七月に入ってから早めに出社したり、休憩時間を削ったりしては、仕事を持ち越さないようにと工夫していた。
「課長、なんだか、すごく無理をしているように見えますよ」
 昼食も簡単なもので済ませ、書類に向かっていると、目の前にコーヒーを差し出された。美也が心配そうに覗き込んできている。
「ありがとう。ちょうど喉が渇いたなと思っていたんだ」
 調理パンを掻きこむようにして食べただけで、コーヒーを休憩室に飲みに行く時間も惜しかった。
 みんなが休憩や外回りに出ていたので、室内には二人だけになっていた。
 誘うのならば、今が絶好の機会だった。
「河合君、17日の夜は何か約束がある?」
 美也にしてみれば唐突な誘いだったらしく、驚いたように保を見ていた。
「予定は何もないですけど」
 もしかしたら御子柴と会うのではないかと思っていたのだが、美也は予定を思い出す様子もなく、すぐに返事をしてきた。本当に何も約束はないのだと思われた。
「食事に行かないか? この前の薬のお礼もしたいし」
「課長はいいんですか? えっと……、お母様が帰ってらしてるんですよね?」
 介護に時間を取られることで、保は母親が退院してくると、そのことを部下たちには説明してある。
 なるべくみんなには迷惑をかけないようにとは思っているが、理解と協力なしにはやっていけない状況である。
 しかし、言葉で言うほど理解してくれているのは、部下のうち半数ほどで、特に若い社員たちは、課長という立場でそんなことが許されるのかという顔を隠さない者もいる。
 美也は母一人子一人で育ったという同じ境遇からか、共感して協力しようとしてくれる。
「一日くらいは私も息抜きがしたいと思って。ヘルパーさんも息抜きは勧めてくれるので、そういう時は延長してくれるんだ」
 本当のところは、延長をお願いすると、ヘルパーは渋い顔をするし、母親は非難というより罵倒に近い言葉を吐くが、それでもその日だけはと、聞かないふりを押し通すことにした。
「それでしたら、喜んで」
 美也は安心したように笑って、保の誘いを受けてくれた。
「何が食べたいか考えておいてくれよ」
「俺が決めていいんですか?」
「あぁ、私はあまり知らないから、決めてくれると助かるよ」
「わかりました。楽しみにしていますね。でも課長、時間を作るために無理しないで下さいね。手伝えることが言ってください」
 ウキウキとした様子で言われると、それだけで保もやる気が出てくる。
「そのときはよろしく頼むよ」
 パラパラと社員たちが戻ってきて、美也も自分の席に戻り、午後からは営業に出て行ったので、それからは顔を見なかった。
 保は早めに退社するために片付けて、持ち帰れる仕事をカバンにつめた。
 賃貸物件の入れ替わりは、やはり春が一番多く、忙しい時期は過ぎたが、苦情が増えてくる頃でもある。
 何かあった時には連絡をくれるようにと頼み、会社を出る。
「荒谷課長」
 駅に向かって急いでいると、横から呼び止められると同時に腕をつかまれた。
 その強引さに驚いて、思わず手を振りほどいてしまう。
「……田崎君……。いや、すまない、驚いたもので」
 部下の女性社員、田崎が強い視線で保を見ていた。
 それはどちらかというと、睨むという表現に近いものだった。
「課長、ちょっと話があるんです」
 穏やかではない口調で言われ、断るつもりがなくても、断りたくなってくる。
「明日にしてもらえないだろうか。急ぐんだ」
「そんなに長くなりません」
 歩道の真ん中で呼び止められたので、二人は通行人の邪魔になっていた。それでなくても、緊迫した二人の雰囲気に、興味深そうに視線が投げられる。
「じゃあ、そこのコーヒーショップでも」
 セルフ形式のショップではあるが、本当に急ぎではないのなら、そこでも十分だろう。
 時計を気にしつつ、店の隅の小さな丸テーブルに、立つくらいの高い椅子に座った。
「何の話かな」
 思い当たることはなくて、戸惑いながら向かいに座る田崎を見た。
「17日、私に譲ってください」
 言われた瞬間は何のことだかわからなかった。
「17日って……。……あ」
「河合君との約束です。今日の昼休み、約束してましたよね」
 二人だけだと思っていたが、田崎に聞かれていたらしい。
「譲ると言っても……。私からそれを決めることはできないよ」
「どうしてですか?」
 今度はきっぱりと睨まれた。
「君は私との約束を知っていて誘ったんだろう?」
 田崎の話を聞きながら、少しばかり混乱してくる。
「それとも、河合君が断ってくるなら、私はそれを聞き入れるけれど、本人から断ってこないのに、ここで君と替わるということを了解はできないよ」
「違います!」
 憎しみの色の濃い瞳で睨まれる。
「私は先週に誘ったんです。その時には約束があるからと断られたのに、どうして今日誘った課長が約束できるんですか? 私のほうが優先されてもいいと思うんですけど」
 そんな無茶なと思いつつ、17日が特別な日である限り、彼女が拘ろうとする気持ちもわかった。
「だったら、君は君でもう一度誘えばいいんじゃないかな。私から河合君に、君と替わるとは言えないよ」
 悔しそうに横を向かれて溜め息が出そうになった。
「邪魔なんです、課長」
 遠慮もなしにストレートに言われて、さすがに保も胸にこたえた。
「男なのに男の部下に色目遣ったりして。河合君が来てから、課長は浮ついてますよね」
 保の態度にも問題があるように責められる。
「17日がどんな日か知ってるんでしょう? 上司と食事なんて、本人だって迷惑に思ってると思いますよ。上司からの誘いじゃ断りにくいですもんね」
 次々と出てくる辛辣な言葉に、保は言い返す言葉もタイミングも見つけられなかった。
「気持ち悪いです」
 そこには部下としての顔は少しもなかった。
 一人の女として、ライバルに立ち向かう視線があっただけだ。
「私は面と向かって、邪魔だと、気持ち悪いといえる君が羨ましい」
 田崎の目が細められた。
「そのストレートさで、もう一度誘えばいい。君には邪魔だと言う人も気持ち悪いという人もいないよ」
 綺麗に口紅が引かれていた唇が歪む。
「河合君が断ってきたら、私もそれ以上は誘わない」
 田崎は飛び降りるように椅子をおり、カツカツと音をたてるように店を出て行った。
 ……邪魔か。
 声には出さずにその言葉を噛み締める。
 胸がきつい痛みを訴える。
 どこにいても邪魔だといわれる存在。
 そんな自分に、安らぎの居場所はあるのだろうか。
 美也と一緒にいると、本当に落ち着けた。
 ずっと隣に居て欲しい。それだけでいい。
 はじめて具体的に、美也のことをそんな風に思えた。
 好きだとか、綺麗だかとか、そんな言葉ではなく、精神的な部分が美也を求めていた。
『俺が貴方の夜にポスポロスの矢を撃ちたい』
 本当に、彼にこの闇を掃って欲しい。
 強く、そう願った。



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