For You 9
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「拓也、先に行くよ」
「ああ、すぐ追いかける」
 拓也は自分の部屋で、大学に出かける用意をしていた。必要な物を詰めて、慌てて階段を降りる。
「あら、今、出たの、正也だった?」
 母親の問いに拓也は笑って頷く。母親は滅多に間違えないが、それでも時折、勘違いをする様だった。
「でも、今外で拓也を呼ぶ声がしたのよ?」
「え? 僕?」
 拓也は急いで靴を履くと、玄関を出た。すると、そこには正也と宮脇が何かを言い争っていた。
「おい……」
 拓也が駆け寄ると、正也はじろりと宮脇を睨んで、拓也の袖を引っ張る。
「待てよ。俺は拓也に用があるって言ってるだろ」
 拓也の腕を掴んだ正也の手を、更に宮脇が掴む。
「離せよっ!」
 正也がその手を振り払う。
「よせ、こんなところで。宮脇、何の用だよ」
 拓也が正也を手で制し、宮脇を睨んだ。
「こんな所まで来られたら、迷惑なんだけれど」
 宮脇は悔しそうな顔をして、それでも『ちょっと話があるから、車に乗ってくれ』と頼んできた。
「今日は一講目から授業があるだろ?」
 拓也はそれで断ったつもりだった。
「拓也、行こうぜ」
「ああ」
「待てよ。話を聞いてくれるだけでいいんだ」
 宮脇が拓也の肩を掴もうとして、手を伸ばしてくる。拓也は素早く身をかわす。
 ぱしっと、腕でその手を払い、拓也は宮脇を睨んだ。
 宮脇は、以前よりもなお荒んだ表情をしていた。重そうに瞼を腫らし、なのにその下の瞳は、ぎらぎらと濁った光り方をしている。肌の色は悪く、かさかさと荒れていた。
 入学してきた当初は、その外見だけで、女子生徒に人気があったというのに、今は見る影もない。
 こけた頬に、昔の精悍さが僅かだけ垣間見える程度だ。
「話があるなら、こちらの都合に合わせるのが筋だろ。いい加減に……」
 その時、拓也の携帯が鳴った。
 拓也は慌てて、コートのポケットから携帯を出して、通話ボタンを押した。
「おい、人の話を……」
 宮脇がその携帯を取り上げようとするのを、正也が阻止する。
「はい、三池……。え? …………そんな、まさか」
 拓也の顔色が変わるのを見て、正也は宮脇を突き放し、カバンの中から鍵を探る。
「いえ、僕は知りません。本当なんですか? ……はい。すぐに伺います」
「急ごう。病院だろ?」
「待てよ!」
 拓也と正也は呼び止める宮脇を無視して、家から少し離れた駐車場に走った。
「覚えてろよっ……!」
 残された宮脇が、暗い目で二人の背中を見送っているなど、拓也の頭の中には欠片も考える余地はなかった。

 ……京がいなくなった。
 病院からかかってきた電話は、最初は的場からのものだった。だが途中で京の母親に替わった。
『京君が居なくなったんだ。心当たりはあるか?』
 的場の抑えた声は、かえって彼が慌てている事を窺わせた。
『京が、京が朝からいないんです。拓也さん、ご存知ありませんか?』
 震える声に、母親の動揺が伝わってくる。
『すぐに、すぐに来ていただけませんか?』
 必死で縋ってくる声に、拓也はもちろん、頼まれなくてもかけつけるつもりだった。急いで病院へ向かう。
 ……どこへ行ったのだろう……。
 ……昨日はあんなに落ちついていたのに。
 ……やはり、無理を言っても、的場に頼んで泊まりこめば良かったのだ。
 そんな気持ちばかりが押し寄せる。
 ……京?
 ……どこにいる?
 病院への道のり、車のナビシートから、歩道を必死で目を凝らして見つめる。
 まさか京が自分のところへ来てくれるとは思わないが、もしかしたらという願いもある。
 ……あんな身体で。
 抱きしめた身体の細さに、恐怖すら湧いた。
 少し力を入れただけで折れそうだったのに。
 ……そんな身体でどこへ行こうっていうんだ?
 やがて見えてくる白い建物に、拓也はシートベルトを外す。
「ここで待っててくれるか?」
「いいよ。わかった」
 玄関先で車を飛び下り、拓也は人々の不謹慎なという眼差しを気づかない振りで、京の病室を目指した。

「まだ見つかりませんか?」
 京の病室には、京の両親、的場、伊能が揃っていた。
 的場が首を振るのに、拓也は抜け殻となったベッドを見つめる。
 小さくたたまれたパジャマ。京が自分の意志で病室を出たのだと解る。
 ……まさか?
『俺さ衛っていう友達がいたんだ』
『でもさ。居なくなった』
『助けられなかった』
 京が昨日言った、事故についてのはじめての言葉。
 それについて、自分は何と言ってやったか。忘れるはずもない。
『笑って、生きていって欲しい。それは残された者の使命だとも思うんだ。京が泣いて、幸せを選ぼうともしないで、それでみんなは喜ぶかな?』
 京は、納得した様に思えた。思えたけれど?
 あの子の性格で、それで済ませようとするだろうか?
「まさか……」
「拓也さん?」
「まーくんのお墓は、どこにありますか?」
「T霊園ですけど、そんな……。まさか」
 拓也は母親の言葉を聞いた途端、病室を飛び出した。
 そこにいる。
 何故か確信した。
「京……」

 ……どうして自分に痛いことばかりを選ぶ?
 ……どうして、辛い事から目を背けようとしない?
 ……そうすれば、楽なのに。
 ……楽に生きていけるのに。

 拓也は唇を噛み締め、正也がハンドルを握る車に飛び乗った。
 後を追いかけてきた両親や医者を残し、車は道路へ勢いよく滑り出した。


**********
 
 
 砂利を踏みしめる音だけが響く。
 途中求めた花は、店主の言う通り陽の光を浴びると淡い香りを放ち始め、八重に重なる白い花びらが歩く動きに合わせてゆらゆらと揺れた。
 時期も時間帯も微妙にずれているのだろう、冬にしては穏やか天気なのにも関わらず、自分の他には清掃員と数名の人影しか見えない。管理棟であらかじめ場所を確認した事もあって、思ったより迷わず京はその場所へと辿り着くことができた。

 ここにあるとは知っていたが、来るのは始めてだった。

 周りの物とそう際立った違いの無い墓標。
 京は石に彫られた名前を確かめる。

     中原  衛 享年八歳

 失うには早すぎた命。
 そしてまだ忘れては欲しくないのだと訴えかけているような新しい刻銘。
「まー・・・・・くん・・・久しぶり・・・・・・・・・」
 そっと呼びかける声は、唇から離れた途端、他人のもののように響いた。
 水を差し、花を供える。
「ず・・・と来れなくて・・・ごめん・・・」
 ほんの少し痛みを含んだ懐かしさ以外、何も感じないのが不思議だった。
 ここに来れば何かが解ると思っていたのに、目に前にあるのは無言で佇む灰色の石の塊。これが決着を付ける為の、見詰め直さなければならなかった『何か』だったのだろうか。外れてはいない様に思う。だが何かが微妙に違う。しかし何が違うのかが解らない。
 京は途方に暮れたようにその場に立ち尽くし、次に起こすべき行動も解らないまま、ただぼんやりと柔らかな風が花を揺らしているのを見つめていた。

 遠くから、砂利を踏みしめる足音が近づいてくるのに気付いた。そして墓地に不釣り合いなほどの賑やかな話し声。
 こちらへ近づいてくる。
 その中の特に声高に響く、ある一つの声を聞いた瞬間、京の身体が凍り付いたように動けなくなった。
「・・・この・・・声・・・」
 夢の『声』だと頭の何処かが反応し激しく警鐘を鳴らすが、京は動くことも出来ずその場に立ち竦んだ。

「あら、どなた?うちのお墓になにか用?」

 その声に京は咄嗟に顔を上げる。
 目の前には、記憶にある幼なじみの母親が幾分歳をとった姿でそこに立っていた。
「まぁ、お花。綺麗ね。君は誰?まーくんの友達だった子?」
 問いかけに答える間もなく『あの声』と『この顔』が一致し、瞬間、京の中の何かが激しい音を立てて壊れてゆく。自分はこの母親の記憶にさえ残ってないのかという驚きと同時に、喩えようの無い苦しい痛みが押し寄せてくる。
「まぁ、いいわ。あのね、今日はね、この子の月違いの命日なの。ずーっとなんだかんだで来れなかったんだけど、良い天気だし、たまたま時間が空いたから久しぶりに来てみたのよ。意外と綺麗になってるものね。
 知ってる?うちのまーくん。とっても可愛そうな子なのよ。たった8つで事故に遭って死んじゃった。もう私、悲しくて悲しくて毎日泣いて暮らしたわ。だって当然でしょう?愛しい我が子をいきなり奪われたんですもの。こんな酷いことってある?でも私は偉かった。立派に立ち直ったんですもの。生きていればそうね、君くらいの歳かしら?いいわよねぇ。私の息子も生きてればこんなに大きくなったのね。でもね、言ってみればもう過去のことでしょう?だから、前向きに生きることに早く気付いた私ってすごいと思わない?
 ところで、君は誰?このお花を供えてくれたのは誰なのかしら?」

 ひたすら話し続けるこの女性は誰に何を言っているのだろうか。
 思い出を語りながら泣き、そうかと思えば笑い、彼女の言う所の"過去"を延々と喋り続ける。
 京は途切れそうになる意識を必死保ちながら、耳に流れ込んでくるその「音」を、逃げ出すことも叶わぬままその身に浴び続けていた。
「やめなさい」
 誰かがその声を止めようとする。
「え?だって。少しでも私の苦労を他の人にも・・・」
「いいから」
「いいえ、是非聞いてもらいたいわ、苦労を知らない若い人には特にね」

 幼い子供の泣き声が京の頭の奥に木霊して、ガンガンと響く『あの声』と重なる。
 京は『あの夢』が今、現実に見えているのだと気付いた。
(もう・・・やめて・・・・・・お願い・・・・・・)
 握り締めすぎた手の爪が皮膚を破って食い込んでゆく。血が滲むのが解ったが、篭め過ぎた力は容易に指を解く事を許してはくれない。
 京は浅く呼吸を繰り返し、遠くなりかける意識を必死に保とうとした。
 だが。
「ぃ・・・・・・・・・っ・・・」
 突然全身が悲鳴を上げた。
 胸を何かにギリギリと締め付けられるような感覚に、指の先まで刺すような激痛が走り、相手の声が割れ鐘のように響いてくる。
(い・・・きが・・・でき・・・な・・・・・・っ・・・ぁ・・・)
 一気に霞んでゆく意識。
 京の身体はそのまま地面に崩れていった。

**********
 
 拓也は車から飛び下り、霊園の中へと、とにかく駆け込んだ。
「どこだ……、京……」
 わかっていたのに。京がただ単に喜んで、自分の生を受け入れる筈はないと。わかっていても尚、選んで欲しかった。それは自分のエゴでしかない。
 奥へと走りながら、角角で、その筋を見渡す。
 いないのか? ここではなかったのか?
 そう思った時、女性の声が聞こえた。
「……これは、まさか……」
 拓也はもう、何も考えず、その声目掛けて走った。
 やめてくれ。頼むから。
 もう、これ以上、その子の心を壊さないでくれ。
 やめてくれ!
 やがて遠目に、ある墓の前で、人影が見えた。
「京……」


**********

 視線が京の姿を捉えた瞬間、今にもくず折れようとする細い身体に向かって拓也は走った。
(京・・・!)
 容赦無く地面に昏倒しようとする京を、ギリギリで抱き留める。
 無意識でも覚悟した衝撃と違ったのか、京が微かに身を捩った。それはまるで、拓也に縋ってはいけないのだと自戒するような切ない動きで。
「ぃ...ゃ......」
 京の哀願に近い訴えが聞える。
 だが、拓也はこの腕を緩める気はない。
 出来る事ならこのまま京の痛みも苦しみも、全て包み込んで身の内に仕舞いこんでしまいたかった。
 京をこの手に取り戻したからには、もうここには用はない。
 拓也は、そこに存在する人間を視界に入れもせず立ち去る事を決めた。
 だが、それを信じがたいものを問うような男の声が引き止める。
「もしかして...君は...月乃くんか?」
「この子は違いますよ」
 拓也の口から放たれた恐ろしく冷たい声は、そう答えを返していた。

 拓也は二人に背中を向ける。
「しかし……」
 父親の戸惑う声に、拓也はきっぱりと告げる。
「あなた方には、何の関係もない子です。そうでしょう? それとも、この子の、この姿を見て、何も感じないのですか?」
 恨みだ。単なる恨みでしかない。
 それはわかっている。
 けれど、言わずにはいられなかった。
 涙が零れそうになる。
 何故、まだ、京を苦しめるんだ。
 京をこの手に抱いていなければ、何をしたか、自分でも自信がないくらいだ。
 殴られなかったのは京のお陰だと、感謝して欲しいほどだ。
「だって、私はね」
「黙れ!」
 母親はびくりと震え、何かを言いかけたようだが、拓也はそのまま足を踏み出した。振り返らない。何を言われても。
 泣き声が聞こえたがもちろん無視をした。
 その泣き声も聞こえなくなって、ようやく拓也は息を吐き出す。
「京……」
 呼びかけても、答えはない。
 このまま、意識を失っている方が、京にとっては楽なのかもしれない。
「京……」
 まぶたがぴくりと震える。
「京……。こんなに痩せて……」
 京の身体は驚くほど軽かった。あのホテルから助け出した時以上に、家で二人きり、療養していた時以上に。
 この細い身体のどこで息をして、どこで命を灯しているのだろうかと、心配なくらいに。
 車に戻ると、正也がコートを京にかけてくれた。京を抱いたまま、後部座席に乗り込む。
「今から連れて帰りますから。……ええ、お願いします」
 正也が的場に連絡をして、車は病院を目指して、走り始めた。
「京……。忘れていいよ。もう、何もかも忘れて、もう一度、真っ白な人生を始められればいいのにね。月乃京として、何も知らないところから生きていけるといいのに。僕はもう一度、君に好きになってもらえるように頑張るから。何もかも、忘れていいよ。もう……」
 細い身体を抱きしめ、まぶたに唇を落とす。
 ぴくりと震え、まぶたが僅かに持ちあがった。震える指先が、拓也の頬に触れようと伸ばされる。
「……た……くや…さん」
 聞き取れないほど掠れた声。
「何? 京、どうした?」
 けれど、再び、京はまぶたを閉じる。
 名前を呼んでもらえる事がこんなにも嬉しい。
 忘れていいとは言いながら、それでも、本音はいつまでもこの手にこの子を抱きしめていたい。
「京、何があっても、助けてやるから。どこへも、一人で行かせはしないから」
 頬に唇を寄せ、拓也は車が病院に着くまで、その愛しい身体を抱きしめていた。


**********

「京!」
 車が病院へ着き、拓也が京を抱いて下りると、母親が叫びながら駆け寄ってきた。
 ストレッチゃーが急いで寄せられる。
 そっと京を下ろすと、京の手が、拓也の袖を掴んでいた。
「拓也さん」
 母親は縋るように拓也を見た。
「大丈夫です。ついていますから」
 そのままストレッチゃーを運ぼうとした時、父親の声が割り込んできた。
「待ちなさい。三池君、少しいいだろうか」
 父親は京の手を無理にも離し、静かに拓也を見つめた。
「あなた、それは」
 母親が激しく首を振る。どうか、今だけはやめてくれと。
 的場はその空気を察して、ストレッチゃーごと、京を運んでいく。
 母親はおろおろと京と父親を見比べていたが、慌てて京を追っていった。
 拓也はそれを茫然と見送り、深呼吸してから振り返った。
「なんでしょうか」
 何を言われるのかはわかっている。できれば、もう少し、落ち着いた気持ちの時に、相対したいと思った。
「君は、息子と……」
「僕一人ではお答え出来ません」
「京に聞いてもいいのかね?」
「それもやめて下さい。お願いします。今の京は……」
「それくらい、わかっている」
 拓也ははっとして父親を見る。もちろん、自分に以上に、京のことを彼は心配しているだろう。
「申し訳ありません」
「もう君と、京を逢わせたくないのだが……」
「それは……!」
 拓也は苦しそうに視線を落とす。
「君のせいでもあると思うんだ、今日のことは」
 そう言われて、拓也は反論できなかった。拓也自身、自分のせいでもあると感じていたから。
「だが、京は君がいれば、落ち着くのもまた、……事実だ」
「お願いします。決して治療の妨げになることはしません。余計なことも言いません。京君が落ち着くまで、傍にいさせて下さい」
 拓也は深く頭を下げた。
「…………私には、その返事は出来ない。本当なら、駄目だと言いたい。それだけはわかって欲しい……」
「……はい」
 拓也はもう一度頭を下げ、京の病室目指して駆け出した。
 とにかく今は、離れては駄目なのだ。
 そのことしか頭になかった。

 走り去る拓也の背中を見送り、父親も京の病室へ向かう。
「何故、彼なのだ……」
 その答えは、息子の中にある。
 それをとりあげるのは酷く恐ろしいことのように思える。だが、理性では認められないのも事実だ。
「ギリギリと言うところか?」
 京も、自分もまた、ギリギリのところで、選択を繰り返しているのだろう。
 悲しいほどの選択を……。

 

 


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