For You 8
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 窓の外が薄っすらと白み始めた頃、京の呼吸はずいぶんと楽なものになり、薄い胸は規則正しく上下し始めた。拓也の手を握り締めていた手からも少しずつ力が抜けていき、ようやく京が眠りに就くことができたのだとわかる。
「京……」
 微かな声で呼びかけると、指先がぴくりと震え、瞼の下で目が動くのがわかった。けれど、またすぐに眠りに入っていく。
 どうか、夢を見ないで。あの苦しい目覚めをこの子に与えないでくれ。
 拓也はそれだけを祈る。
「すみません、少しいいですか?」
 拓也は、一晩中一緒に見守っていた母親に、潜めた声で外に出るように促した。部屋の外では、検温などの準備が始まっているのだろう、かちゃかちゃと金属の音が聞こえてきている。
「勝也、頼むな」
 ベッドの足元でうつらうつらとしていた勝也に京のことを頼むと、勝也は顎を引き、大きく伸びをした。
「何かしら、拓也君」
 廊下に出ると、母親は不安そうに拓也を見上げてくる。
「一緒に話を聞いて頂きたいのです。的場先生のところまでお願いできますか? すぐに済みますから」
「…………ええ」
 母親はとても不安そうに、けれど拓也の申し出を了承すると、医務局まで一緒に来てくれた。

***********

「やはり……そういう人でしたか」
 拓也がまーくんの母親と会った時の経緯をすべて話し終えると、京の母はハンカチで目を押さえ、やりきれないという台詞をぽつりと漏らした。
「すみません、勝手な真似をしました。何かが変わればと思っていましたが、僕はとても甘かった……」
 まーくんの母親が、せめて京に優しい言葉の一つもかけてくれれば。それを願ってしたことは、すべてが無駄に終わった。
「拓也君のせいではないわ。忘れるのが一番なんです。忘れるのが……」
 けれど、本当にそれでいいのだろうか。
 忘れるのが一番いい。拓也もそれはわかっている。
 もしも京が本当にすべてを忘れてくれるなら、自分はなんでもしようと思う。だが、京は意識の下に、いつ思い出すとも限らない爆弾を抱えている。
 それを思い出してしまったとき、京はどのようにして自分を支えていくのだろうか。
 どんなことでもしてやりたいと思う。が、それを、拓也の手を京は求めてくれるだろうか。昨夜のように……。
「あとのことはカウンセリングの先生にお任せします」
 母親は深く頭を下げ、拓也にもありがとうと言ってカンファレンスルームを出ていった。
「拓也、どうする?」
 的場はずっと厳しい顔をしていたが、部屋に二人きりになると、重い溜め息をついてそう尋ねてきた。
「僕は……、京に乗り越えて欲しいと思います。今のままじゃ……、駄目だ」
「それはお前が強いから言える言葉なんだぞ?」
「わかってます。わかっているけれど……」
「ちょっと待ってろ」
 的場は拓也を引き止め、院内電話に手を伸ばした。
「伊能君来てるかな? ああ、そう。カンファレンスまで来るように伝えてくれる? うん、お願い」
 電話の相手にそう告げると、的場は受話器を置く。
「どなたですか?」
「カウンセラーだよ、月乃君の」
「ああ……」
 カウンセリングを受けていると聞いてはいたが、それがどのように進んでいるのかは、拓也は知らなかった。
「まあ、月乃君の状態を見ながら、判断するのが1番だろう。お前も急ぐつもりはないんだろ?」
「ええ、もちろん。ただ、京の苦しみが長く続くのだけは……」
 拓也が言いかけた時、軽いノックの音が聞こえた。
「どうぞ」
 的場が入室を促すと、ドアは静かに開き、一人の女性が姿を現わした。
「的場先生、何か?」
 伊能は室内に拓也の姿を認めると、軽く会釈をしてきた。
「こちらは?」
 拓也も頭を下げてから、その女性を見た。
 柔らかなそうな物腰にほっとする。この人なら京も話しやすいのではないかと思った。
「月乃君の親しい友人だよ。過去の事件のことで、今話を聞いていたんだ。君にも知っておいてもらいたいのと、君の意見も聞きたいと思ってね」
 伊能は軽く頷き、拓也にも椅子をすすめ、自分も近くに腰掛けた。

**********
 
 拓也はなるべく主観を交えないよう、京の母親から聞いた昔の事故、そして例の子供の母親に会いに行った話を伊能に説明した。カウンセラーの表情は、時間が進につれ僅かながら沈痛な面持ちへと変わってゆく。
「……それでこの事を、京……月乃君に話すべきか……それをご相談したいと思いまして」
「私の率直な意見としては……まだ話す時期ではないと思います」
「……そうですか」
 やはり。と思う拓也の気持ちが、無意識の落胆を伴い押し寄せる。
 性急に進めてはいけない事は分かっている。だが、京の苦しみの根本もそこにある事は確かであり、なんとか取り除いてやりたいと、自分はそれだけを切に願っているのだが...
「彼の精神の傷は、多分、こちらで把握しているものより大きい可能性があります。ですから、もう少し様子を見てその上で……」
「最終的には話す事も……?」
「……ありえます。けれどそれは、あくまで前向き且つ希望的な一つの方法としてです。彼が過去と向かい合う機会に恵まれれば、必要になるかも……」
「ただ、彼がそこまで望んでいるか。それが最大の問題だよ?」
「はい。ですから、いつ切り出すか。難しい判断になると思います」
 的場が危険性を示唆し、伊能が慎重に言葉を返す。
「未だ本人の口から聞かせてもらえない、彼が『脅える』ものが何か。それがはっきりすれば良いのですが」
 今までのカウンセリングから掴んだ数少ない判断材料からの予想である事が大前提の返答。思うように進まぬセラピーに、申し分けなさそうな声で伊能は述べた。
「せめて、件の幼なじみの母親が、京くんに一体何を言ったのか。それが解れば……」
「それだが、直接居合わせたという月乃さんのご家族の一人から、昨夜私が聞いた。今日君たちにも伝えようと思っていたことなんだが……」
「なんとおっしゃってました?」
「……………………………………『許さない』だそうだ」
 普段からは想像も付かないほど、険しい顔の的場が低く唸りながら言った。
「『許さない』……ですか?」
 伊能が細く引き攣ったような息を吸い込む。
「何……に………………?」
 拓也は多分解りきってるだろう「答」だった。だがこの面子であやふやにしたくはなくて、互いの意志の疎通の意味も込めて改めて聞き求める。
「まぁ……あれだ。自分の息子が死んだのに、月乃くんが生きている事は変だと」
「…………そんな」
「見捨てたんだろう。自分だけ助かればよかったんだろうと……ね。責めた訳だ」
「……っ……!」
 拓也は的場の言葉に、更に握り締めていた拳に力を篭めた。
「………………そして……生きて、成長し、大人になり……幸せになる事など許さない。と。」
 最後の言葉は決定打となる。
 何の権利があってそんな事が言えるのだろう。
 拓也は、先日対話したあの女の姿が過去に戻り、その場が見え、声さえ聞こえてくるような気がした。
 自分が最大の被害者だという思い込みの傲慢さに守られた彼女。当時の事情を現実として受け止めきれず、自ら昇華する事さえ拒否し、甘え、大人としてありのままの事を伝える事さえ出来ない彼女の弱さに、拓也は腹の底に蟠る黒いものがふつふつと煮え返えってくる。
 無論、彼女も子供を奪われた被害者で有る事は確かだ。しかし、だからといって京を……なんの罪も無い幼い子供を、これほどまでに打ちのめすなどという行為は、どんな理由があっても人間として許される事ではない。
「過去の例から言って、幼い頃、無理矢理意識下に押え込んだ恐怖感情や精神損傷といった類のものは、いわゆる常識で考える通常の『理屈』では解決出来ない場合が多いです。」
 治療の難しさをあくまで客観的に伝える伊能。
「……自我も何も分からないうちに、自分なりに作り上げた「何か」で押え込むだろうからね」
 それに的場の補足的説明が続く。
 拓也は思わず片手で顔を覆い俯いた。
「…………京……っ」
 今何かを目にしたら、怒りに任せた感情のまま全てのものを薙ぎ倒してしまいそうで。
 不意に、京の儚げな微笑みが拓也の脳裏に浮かぶ。
 『愛している』と伝えると、嬉しそうに返してくる柔らかな表情とは裏腹に、いつもどこか控えめで寂しげな空気を纏っていた京。この話を聞けば、思い当たる節はいくつも出てくる。京が無意識に「自分の幸せ」というものに罪悪を感じていたのだとすれば全てに説明がつくのではないか。
「とりあえず……カウンセリング側としては、このまま彼の精神状態を見つつ治療を……という事で進めたいと思います」
 当然と言えば当然の伊能の言葉に、誰も反対する意見など無く、ただ3人は黙ったまま肯きあった。
 重苦しい空気が、カンファレンスルームに立ち込める。
 そんな中、伊能は京の病状の件とは別に、もう一つの思考に捕らわれていた。
 目の前の青年の存在だ。
 的場は彼の事を京の親しい友人と紹介したが、治療に関して、かなりのウエイトを彼に委ねようとしている節が見える。そして京の母親も、彼にはある意味依存とも取れる気の許しがあり、家族ではない分、非常に不可解なものとして目に映っていた。
 友人、しかも接点も少なそうな微妙な年齢差のこの青年が、患者のどういった部分に関わっているのか。
 月乃京という患者の事をここまで親身に心砕く『他人』の存在。
 考えれば考えるほど解らない。
 だが一つだけ。非常識とも思える結果に辿り着いたが、それは伊能個人にとっては許容内ではあっても、常識の範囲で否定するしかない答えだ。伊能は可能性だけで決断が下せず、ただ以前的場から聞いた”京には付き合っている人がいる”という言葉に拓也を重ねながら、妙な符号を感じ取っていた。

**********

 拓也が病室に戻ると、京の母親と勝也がベットの傍に座っていた。
 まだ薬が効いているのだろう、京は拓也が朝見た状態とあまり変わった風もなく、静かな寝息を立てながら昏々と眠り続けている。
「拓也君……この子落ち着いたから…お帰りになって下さって結構ですよ?」
「あの、付いていては……駄目ですか?」
「……いえ……そんな事はないけど……お疲れでしょう?」
「いえ。平気です」
 そういって拓也はピクリとも動かない京の寝姿を見下ろした。
 その様子を母親が見て、一瞬逡巡するような仕種を見せたが、思い切ったように言葉を続けた。
「…………それじゃぁ少し、お任せしてもいいかしら」
「……?」
「家のことを放っておいてるので、片づけてきたいの」
「もちろんです。僕でよろしければ」
「じゃぁ……申し訳ないけど...夕方には戻ってきますから」
「お任せください。何か有りましたらすぐ連絡を入れさせていただきます」
「お願いしますね」
「はい」
「タクちゃん。俺も一旦戻るよ」
 勝也が背伸びをしながら眠いだろう目を擦った。
「ああ。悪かったな……色々ありがとう勝也」

 二人が病室を出てゆくと、室内はシンと静まり返った。
 スチームの音だけが時折カンと無機質に響くだけで、吹きすさぶ外の風音さえ遠い。
 拓也はベットの枕元のごく近い位置に椅子を置き、ゆっくりと音を立てぬよう腰を下ろした。京の額に手をそっと置くと、まだ少し高い体温が静かに伝わってくる。癖の無い黒髪の滑らかな感触に、得も言われぬ感情が混み上がり拓也は唇をかみ締めた。
 一体この子に何の罪があったというのだ。
 理不尽に浴びせられかけた言葉の数々を思うだけで、鋭い刃物で胸を突き刺されるような痛みを感じる。そして、実際京はそれ以上のダメージを受けたのだろう。
 記憶から消し去ってしまわねばならないほどの想像を絶する言葉の暴力。
 心を守る為、自分を閉ざし込んでしまった京。遠く離れたそこから、拓也は彼を救い出さなくてはならない。それはとても途方も無い事のように感じた。だが、成し遂げなくては、この愛しい人を本当の意味で手に入れる事にならないのも事実なのだ。

 どのくらいそうしていただろう。拓也は京の瞼がゆっくりと開いてゆくのに気付いた。
「……京?」
 小さく呼びかけると、すっかり乾いてしまった痛々しい唇がわずかに動く。
「……何?」
「…………み……ずを」
 要求のまま拓也が吸口を使い静かに水を飲ませると、僅かな溜め息が京の口から漏れた。
「気分は……?」
「大……丈夫……」
 いつ聞いても京はこの答えを返えしてくる。拓也はまたここでも京の心の傷を見たような気がした。
「……………………お……れ。わか……んなく……なりそう……だ……」
「…………ん?」
 京が何かを考えるように再び瞼を閉じ黙り込む。それは決して眠りに就こうとするそれではなく、拓也が続きの言葉が紡がれるのを見守っていると、京は擦れる声でぽつりと話し始める。それはまるで懺悔のような呟きだった。
「わか……な……い」
「焦らなくていいよ……あとでゆっくり。話せるようになってから聞かせて?」
「ちが……ぅ」
「?」
「俺さ……衛……ってい……友達が……いた……んだ」
「……うん」
「まーくん・・てね……仲良くて」
「うん」
「…………………………でも…………さ。居なくな……た」
「…………うん」
「たす……け……ら……な……か・た」
「…………」
「ほかにも……さ……たくさん……たくさん……で・も……ぼく…だけ……」
「………………京?」
「皆……いなく……なった………………」
 音もなく零れる京の涙を、拓也はそっと指先で拭ってやる。
「何か、思い出したのか?」
 あくまでも優しく問う拓也に、京はわかるかわからないかほど、僅かに首を左右に振る。
「事故……が、……おこった……」
「うん、知ってる。勝也と同じ年の子達が巻き込まれた事故のことは、朧げだけど、覚えてる」
 京の、単語だけが繋がれていく会話に、途切れがちな言葉に、拓也はなんとか京を現実に引き戻そうと努力する。今は思い出さなくていい。せめて、もう少し体力が回復してからでいいんだと願いながら。
「ぼくも………………いた。なのに、……みん…な……」
 更に溢れてくる涙を、拓也は唇で吸いとる。
「京、言ってもいい?」
「なに…………?」
 うつろな瞳が拓也を見ようと焦点を結び始める。
「僕はね、京が生きていてくれてよかったと……、酷いだろ。京が生きていてくれて、嬉しいんだ」
 京は目を閉じて、首を振る。弱々しい動きに、拓也はベッドに横になったままの京の頭を柔らかく抱きしめる。
「でも……」
「京の言いたいことはわかる。多分、だけれどね。一人で生きてるのは辛いか?」
 拓也の言葉に、京は身動ぎもしない。多分それは、Yesということなのだろう。
「けれどね、京。僕は京に、強く生きて欲しいんだ。すべてのことを受け入れろというのは、とても辛いと思う。それはわかっているんだ。だけどね、例えば、僕が死んだとしてね」
 ぴくりと京の身体が震えるのがわかった。
「例えば僕が死んだとしたら、京には僕の分も笑って生きていって欲しい。僕のためにも笑って、生きていって欲しいと思うよ。それは残された者の使命だとも思うんだ。京が泣いて、幸せを選ぼうともしないで、それでみんなは喜ぶかな?」
「……いや……だ…」
「京……、だからね」
 京の手が、自分の頭を抱きしめる拓也の腕を掴んだ。
「拓也さんが、いなくなる……。やだ……」
「どこへも行かないよ。今日を残してどこへも行ったりしない。だって京が辛いときに一緒にいてやりたいもの。京が強くなろうとするのに、傍で支えてやりたいからね」
 こくりと、京が小さく頷いたと思うのは、拓也の願望が感じさせた振動だろうか?
「一緒に、どんなことも乗り越えていこう。京を一人になんてしない。辛い時は一緒に泣くよ。僕も」
 京にとっては、今の拓也の言葉は、どれをとっても詭弁に聞こえるかもしれない。だが、他人がそれを言わなければ、京はその選択を出すことは出来ないのだ。京が自分で出せる答ではないのだ。
 だから、酷い言動かも知れないが、京へ無理にでも導いてやりたい。
 幸せになりたい、その答を出して欲しいから。
「京……」
 愛してるよ。それは京の耳元で囁く。
 静かに、音もなく流れる涙を、拓也はもう一度、唇で吸ってやった。

 病室のドアの向こうで、伊能は足音を殺し、そっとその場を離れた。
 自分が聞き出せないことを、あの青年はいとも容易く、聞き出し、カウンセリングとしては拙い方法だが、生きる力を与えようとしている。
 本来なら、患者自身からその答を出させれば、最高のカウンセラーと認められるだろうが、そんなカウンセラーは本当に少ないのも現実だ。
 何より、自分はあの少年から、どれだけの言葉を引き出せたというのだろう。
 カウンセリングに本当に必要なものは何かを、あの二人に見せられたような気がして、伊能は力なく笑う。
 何かが変われば……。そう思いながらも、伊能の心からは不安が消えない。人に頼った立ち直り方は、支える人をなくすだけで、更に悪い方向へと転ぶ。
 それをあの青年はわかっているのだろうか……。
 伊能は唇を噛み、京のカルテをこつんと叩く。
「君は……、幸せになってもいいのよ?」
 どれだけの言葉を投じれば、京がそのことに気づいてくれるのだろうか。
 窓の外は、あきれるほどいい天気だった。

***********
 
 
 朝の検温の時間が近いのだろう。ワゴンが行き交う空気や、金属が立てる微な音が廊下から伝わってくる。
 京は昨日の事を思い出しながら一つため息を吐き、窓の外を見た。
 完全看護のこの病院では、一昨夜のような付き添いは本来ならば認められてはいない。的場の判断で特例の許可が降りたというだけだ。
 そんなに酷い状態だったのだろうかと、京はまるで他人事のように又ため息を吐いた。

 あの夜。冷たい風が心地よかったのは事実だ。
 それに支払った代償は思いもよらず大きなものだったようだが。
 舞い散る雪を見ながら、様々なことを考えていたような気がする。だが、それもいつしかあやふやになり、気付いた時には身動きも取れぬほどの重苦しい暗闇の中にいた。体は鉛を流し込んだように動かず、足掻こうとすればするほど何かがどろどろと纏わり付き、身体のあちこちから血が強引に吸い取られてゆく異様な感覚に囚われた。耐え切れなくなり、このまま暗闇に身を委ねてしまおうかと諦めかけた時、不意に京の手を引き上る力を感じた。
 暖かな優しい力。
 それが拓也の手だと言う事に気付いたのはいつだっただろう。拓也が傍に居る。そう思うだけで体が少しづつ楽になってゆくような気がした。事実そうだったのだろう、夢は相変わらず色々なものを京に見せていたが、その時は普段と少し違っていたようにも思う。

 目覚めて初めて見たものは、見覚えの無い白い天井。
 体中何処も動かせないのに、指先まで走る痛みがある事をはじめて知ったあの日。
 心配そうに覗き込む瞳。
 ……それがあまりにも似すぎていて。

 混乱した頭は、自分がいつ目覚めたのかも解っていなかったのかもしれない。
 一体自分は何を口走ったのだろう。

『一人で生きてるのは辛いか?』

 拓也の声が京の耳に残っている。
――辛い
 そうなのかもしれない。だが、自分の中の"これ"をそう呼んでいいものなのか京には解らなかった。
 生き残ってしまった罪悪。記憶に残る忘れられない事故の幻影。そして何か大事なことを忘れているという恐怖。
 気が付けば、いつもその全てに追いつめられているような気がする。だがそれを『辛い』と言葉にしてしまうこと自体、自分には許されてはいないと、何故かいつもそう思っていた・・・



 昨日、京は拓也と口接けを交わした。
 何度も、何度も。
 最初、許しを請うように優しく触れるだけだったそれは、京の唇が微かに開いた時から次第に深いものへと変り、濡れた音に煽られるよう求め合った。
 指を絡め、抱き合い、久しぶりに触れ合う2人は、ほとんど無言で時を過ごした。

 夕方、家の用事を済ませて戻ってきた母親と入れ代わりに、拓也は帰っていった。
 『また明日来るから』
 そう優しく言い残して。

「今日も・・・逢える・・・?」
 仄かな安堵と共に、自分を見詰める悲し気な瞳を思い出す。
 拓也にそんな顔をさせたくなくて自分は彼から離れることを決めた筈なのに、あの苦しい暗闇の中で彼を呼んでしまい、そして差し伸べられたその手に縋ってしまった。
 ・・・離せなかった。
 抱きしめてくる力は何者にも代え難い温もりで京を暖かく包みこんでくる。
 突き放さなくてはならないその腕を離せず、聞き分けの無い子供のように欲しがる自分を知る度、京は己の弱さを認めざるを得ない。
 拓也の愛情に甘えてはいけない。
 それだけが正しいのだと、心で誰かが叫ぶ。
「俺は…………………」
 優しい声が自分の耳元で愛していると告げる度、自分ではどうすることも出来ない哀しい想いが込み上がった。
 堪えきれない涙は彼の唇へと消えていき、行き場の無いその想いだけが京の心の中に蹲る。
 京はどうすれば良いのかも分からないまま、ただ結論を見出せない思考ばかりが堂々巡りを繰り返えしていた。

 不意に、京は他人から与えられようとする結末ではなく、自分で決着を付けなければ駄目なのだと感じた。
 過去の自分を知る為にも、それは必要不可欠なものだというように。
 それが本当に正しい事なのかはどうかはまったく解らなかった。だが、京は何かに憑かれたようにベットから起き上がり、身体に刺さったチューブを引き抜く。寝巻きを脱ぎ捨てシャツを羽織りジーンズを履いた。以前はそれほどでもなかったそれは、今ではみっとも無いほど体に合わず、慌てて締めたベルトの一番内側でもずり落ちそうになっていた。京は自分の状態をそこで改めて知る。だが引き返えす気にはならない。
(外・・・歩ける・・・かな?)
 京は、慎重に一歩を踏み出す。
 萎えた脚が前に進むのを拒み幾度も躓いたが、頭の中は既に一つの事以外何も考えていなかった。
 ただ自分を追いつめる「何か」を見つける為、自分が行くべき場所へ。
 それだけを求めて。

 


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