For You 7
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部屋のドアをノックすると、中から応えがある。ドアを開けると、正也はベッドにうつ伏せに寝転んで、雑誌を読んでいた。 「何?」 「ちょっと付き合ってくれない?」 正也はベッドの上に起きあがって、ドアのところに立つ拓也を見た。そして、その手にあるものを見て、首を横に振る。 「やだ」 「頼むよ」 「やだって」 空手の胴着を持った拓也は部屋の中へ入ってくる。 「一時間ほどでいいんだ」 「明後日、撮影があるんだよ。痣なんて作っていったら、崇志が煩いもん」 「痣が出来るほど打たないって」 「……もー、仕方ないなぁ」 正也は立ちあがり、自分もクローゼットの中から胴着を取り出した。 「絶対、止めてよ。右足に重しつけるからね」 「わかってる」 疑わしそうな目で拓也を見て、正也は肩を竦めた。明後日の撮影はどんな衣装だったかを思い浮かべながら。 目の前に自分がいる。 「何迷ってるんだよ。見え見えじゃない」 自分が話しかけてくる。 弾む息と、額を流れる汗。 正也と組んでいると、真剣に取り組めば組むほど、自分と向き合っている感覚になる。 目の前に自分がいる。 迷ってばかりの自分。迷い、恐れ、不安に怯え、弱い自分がいる。 大切な物は何か。それを問い、答えるのは容易い。 あまりにもあっさりした答えだけが在る。 「これなら僕のほうが勝てるよ?」 目の前の自分がにやりと笑う。 何故こんなにも自分は弱いのだろう。 右足に錘のついたサポーターを嵌められた拓也は『自分』との距離を詰める。 負けるな。すべては自分との闘いである。 克己。己の心に勝て。己の心を征する者が克つ。 そう教えられてきた。 心が澄んでくると、目の前にいる自分の顔も引き締まる。 シュッ、シュッと空を切る手刀。跳んでくる足を紙一重で避ける。右足は重くて使えない。けれど……。 「はっ、はっ」 何があっても、護ってみせる。 胸の中にはその言葉しか見えなくなった。そして、京の淡く幸せそうな笑顔が……。 距離が一瞬開いた。拓也は右足を軸に左足を振り上げる。目の前の自分が背中を反らせそれを避ける。振り上げた左足が床に届く寸前、身体を捻り、右足をうしろ向きに蹴り上げる。丁度のタイミングで左足が拓也の身体を支える。 「ば、かっ、拓也!」 正也は咄嗟にくるりとバク転をする。シュッと、音が鳴る。空手でいえば反則技ではあるが、拓也の蹴りをまともに食らえば、撮影どころか、身の保証はないのだ。 トンと床に下りたつもりが咄嗟のことで、つるりと足が滑り、正也は尻餅をついた。 「信じられない。何キロつければその足、あがんないんだよ!」 もう止めだ!と正也が喚く。 「悪かったよ……」 手を差し出すと、正也はブツブツ言いながら、拓也の手を借りて立ちあがる。 「崇志に怒られたら、拓也が撮影に出てよ!」 「だけど、僕だったら崇志さん撮ってくれないもん」 「こんな痣つけてるよりいいさ。ったくもう、崇志以外わかんないんだから、拓也でいいよ」 肩と二の腕に出来た真新しい痣を見せつけながら、正也は文句を並べる。 そう、入れ替わっても、誰にもわからない。お互いの特別な人を除いては……。 だから、何にも替えられない、大切な存在。それを見失ってはいけない。それだけが大切なこと。 拓也はすっきりした顔で笑い、正也に礼を言った。 「あれ? 携帯鳴ってるんじゃない? 拓也の」 二人きりの道場に、その明るいメロディーは、妙に浮き立って聞こえる。 拓也は慌てて、カバンの中から携帯を取り出した。 「はい、三池です」 『タクちゃん!俺!』 電話の向こうからは勝也の切迫した声が響いてきた。 「何かあったのか?」 勝也が拓也のところに電話をかけてくるなんて、一つのことしか考えられない。拓也は今日、訪れなかった病院の景色を思い浮かべる。 『京がすごい熱で倒れたんだ! 肺炎起こしかけてるって』 泣き出しそうな勝也の声に、拓也はすぐに行くと言って、電話を切った。 「車の中で着替えて。僕が運転するから」 正也は拓也の着替えを押し付け、自分も荷物を持っていた。手には既に車のキーが。 「頼む」 二人は慌てて道場を飛び出した。先ほどまで降っていた雪はいつしかやんでいた。道路の脇は薄く白く積もっているようだが、道路は既に解けている。シャーベット状の轍が幾筋も走っている。 病院までの道のりは遠く、長く、拓也の気持ちを急き立てた。 …………京。 どうして今日はあそこから引き返してしまったのか。 どうしてちゃんと、自分の気持ちを整理できなかったのか。 苦い後悔ばかりが押し寄せてくる。 京をこの手の中から奪うものがあれば、どんな運命でも逆らってやる。 拓也は深く心に刻んで、都会の闇を見つめていた。 *********** |
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重い・・・・・・ なにもかも重くて ・・・動けない・・・・・・・・・. 苦しい・・・ 息が 吐けない・・・・・・・・・・・・ (拓也さん...) 雨の音がするのに... 届かない。 目の前のあの子に 届かない。 ----京君は大人になれるのね ----何故京君が助かって、うちのまー君が死んじゃったのかしら。 ----どうしてだと思う? [おばさん...嫌だっ...どうして僕にそんな事聞くの?...わかんないよ...わかんないよそんなの] ----おばさん解ってるのよ。君が見捨てたんでしょ? ----自分だけ助かればいいと思ったんでしょ? [...違う] ----隣に座ってたのにね。フシギよね。どうして京君が生きてて、うちのまー君が死んじゃったのかしら。 ----自分だけ助かればいいと思ったんでしょ? [違う!] ----ねぇ...そうなんでしょ? [違う!!] ----ねぇ...ねぇ!そうなんでしょ! [違うよ...!] (拓也さん...) 痛い..... 痛いんだ... なんでこんなに痛いんだろう 苦しい...... ----京君の代わりに、まー君が死んだのよ。解る? [ごめんなさい...本当はまーくんが助かるんだったの?そうなの?ごめんなさい...おばさん] ----京君はいいわね。これからちゃんと大きくなれるんですもの。 [おばさん...] ----大人になって好きな人が出来て、まー君は死んじゃったのに、自分一人で幸せになるのかしら? [ごめんなさい。おばさんごめんなさい] ----おばさん、京君の事許さないから。 うん・・・・・・・・・ 許さなくていい 俺 もう いい・・・ 欲張りすぎたんだ ごめん・・・・・・ (拓也さん・・・) 俺 許してもらえないんだ・・・ (拓也さん・・・) ごめん・・・ (拓也さん・・・) ごめんなさい・・・・・・・・・ (拓也さん・・・) 痛い・・・・・・痛いよ・・・・・・・・・ (拓也さん・・・・・・・・・たす・・・・・・・・・け・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・) ********** |
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拓也が病院へ駆けつけると、京の病室の前には、勝也がぽつんと立っていた。 「どうなんだ?」 拓也は息を整えながら、勝也に尋ねた。 「とにかく抗生物質を打って、あとは京の体力に任せるしかないって。解熱剤がなかなか効かないって、さっき先生が言ってたけど」 「中には入れないのか?」 「……今は遠慮してくれって言われた……」 勝也は沈んだ面持ちで病室のドアを見つめる。拓也はどうしたものか迷いながら、それでも意を決して、ドアをノックしようとしたその時だった。 病室のドアが開いて、京の父親が顔を出した。拓也は咄嗟に頭を下げる。 父親は拓也の存在に、最初驚いたような顔をしたが、すぐに表情をきつく引き締めると、真っ直ぐに拓也を見つめてきた。 「三池さん、どうしてここに?」 「おじさん、俺が呼びました」 勝也は学校の帰りに見舞いに寄って、そこで京の異変を知り、拓也に電話をかけた。 「お二人ともどうぞ今夜はお引き取り下さい。京はとてもお会いできるような状態ではありませんので」 京の父親は疲れた顔色の中にも、親としての威厳を滲ませて、そう言い切った。 「しばらく待たせて頂けないでしょうか。せめて、京君の様態が落ちつくまで。病室には入れなくてもかまいませんので」 拓也が頭を下げて頼むが、父親は静かに首を振った。 「三池さん、京がどうして高い熱を出したか、ご存知ですか?」 「いえ、それは……」 拓也は顔を上げて父親を見た。父親は瞳の中にわずかな怒りを宿しているようにも見えた。 「京はこの寒空に、窓を開けて外を見ていたといいます。あなたは毎日来て下さっていたようですが、今日は来られなかったそうですね。あの子は、あなたを待っていたのではないでしょうか……」 父親の言葉に、拓也は何も言い返せなかった。京が自分を待っていたとは、実のところ拓也には思えない。けれど、そう言われれば、否定も出来ない。待っていて欲しいと、エゴイスティックな気持ちも、確かに心の中には存在する。 「あの子はあなたに言ったそうですね。もう来ないで欲しいと。私がその言葉をもう一度あなたに言いましょう。あの子はあなたから離れようとしている。あなたは今日、その答えをあの子に返した。ですから、これ以上、中途半端な友情で、あの子に近づかないでやってください。このまま、離れて下さい」 「おじさん、そんなっ……」 勝也が何かを言いかけるのを制して、拓也は頭を深く下げた。 「申し訳ありません。月乃さんのそのお言葉を聞き入れる事は、僕にはできません。どうか、今夜だけ、僕に時間を下さい」 悪い青年ではないと思いながら、父親はそれでも、頷く事は出来なかった。これが息子と年の違う友人として出会わなければ、例えば自分の会社に入社してきた社員として出会っていれば、自分はこの拓也という男をかなり評価していただろうと思う。強い精神力を備えていると感嘆していた本当の友人、勝也以上に。 けれど、京が拓也に見せる態度に、なにかしら不安な物を感じてしまう。今のうちに、離してしまった方がいいのだと思えるほどの、わずかな引っ掛かりを……。 「お引取り下さい。京をそっとしておいてください」 父親のその言葉が終わらないうちに、拓也は病院の廊下に膝をついた。掌を膝の前につく。 「きみ……、三池君」 「今日、お見舞いに来れなかったのは、僕なりの理由があります。けれど、言い訳はしません。それは、京君から離れたいとか、そんなことを思っての行為ではありません。どうか、京君の様態が落ちつくまで、この廊下でかまわないんです。待たせて下さい。決してご迷惑はおかけしませんから」 父親は自分の足元にみえる頭を見つめた。 どうしてここまでしてくれるのだろう。疑問は、今までの不安の答えなのだろうか。 けれど、それでは、決して遊びではないともいえる。だから……、困るのではあるが……。 「廊下でなら……」 「あなた、京が……」 廊下でなら追い出す権利はない、そう言いかけた父親の言葉に、病室から顔を出した母親の言葉が重なる。 「拓也さん、来てくれたのね……良かった。京が、あなたに助けてって、うわ言で呼んでて……」 ひどく張り詰めた空気が流れる。 今すぐにでも駆け寄りたい気持ちをかろうじて抑え、拓也は顔を上げて父親を見た。 父親は苦しげに顔を歪め、病室の中へ視線を移す。 「あなた……」 縋るような声に、父親は逡巡し、けれどドアを開けたまま、拓也に向かって頷く。 拓也は立ち上がり、そしてもう一度深く頭を下げて、病室に入った。 ********** |
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幾度も通った病室の中。京が居る場所を何よりも先に視線が捕らえる。 凶悪なほど大きくみえる吸入器や太い点滴のチューブが取り付けられ、愛しい人はそこに横たわっていた。 思わずベッドへ駆け寄り、間近でその顔を見つめる。 たった一日見ないだけだというのに、記憶にある京の姿よりも、更にやつれた青白い顔。 苦し気な荒い息と、時折激しくむせ返る咳が無ければ、まるで生きていることすら疑わしいその姿に、拓也は息が詰まりそうになる。 「・・・・・・・・・きょ・・・う・・・」 掠れて声が出ない。 しっかりと呼びかけなければならないのに。 不意に京の眉が微かに寄り、唇が僅かに動いた。 呼吸器が放つ音の中に吸い込まれてゆく微かな呟き。それを聞き逃したくなくて拓也は京の口元に耳を近づけた。 「京・・・京・・・・・・?」 苦し気なその表情が少しでも和らぐ様祈りながら、何度も呼びかける。 突然、肺が嫌な音を立て、京が激しく咳き込んだ。 息苦しさからなのか吸入器を外そうと痩せた腕が上がる。無意識の動きは緩慢で、望みがままならないまま京の身体が再びむせ返えった。 「京・・・・・・!」 「京!」 母親の声が悲痛に響く。 「・・・た・・・・・・・・・く・・や・・・さ・・・・・・・・・」 「ここに居る・・・・・・僕だよ・・・僕はここに居るから・・・・・・っ!」 「拓・・・也・・・・・・さん」 「京・・・」 「ごめ・・・な・・・さ・・・・・・・・・」 「いい!そんなの!京・・・!謝るな・・・僕が・・・僕のほうが・・・」 何かに気付いたように薄ぼんやりと熱に浮かされた京の瞼が上がり、さ迷うように何かを探すが、その瞳には何も映されてはいないように見える。 「・・・た・・・・・・ぃ・・・・・・・・・」 「京・・・?」 「い・・・・・・・・・た・・・」 「痛い?京・・・・・・どこが痛いんだ?」 京の呼吸が引き攣ったように止まり、そしてまた咳き込むことで吐き出される。 聞いてる方が酸欠になりそうなそんな動きに、京の胸の傷は開き、寝巻きに滲んでくる血の色を見た母親が悲痛な叫びを上げた。 「・・・たくや・・・さ・・・たす・・けて・・・」 苦し気に胸を押さえ、何かから逃れようと弱々しく首を振るその姿は、あまりにも哀れで拓也はこみ上げるものを抑えることが出来なくなる。 京の父親の視線は痛いほど感じていた。 だが、なりふりなど構っていられない。京は自分を。自分だけを求めてくれている。今、これに応えずして自分は一体何処で何が出来るというのだ。 点滴で痛んだ腕を庇いながら、拓也は京の手を握った。 「ぁ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 京の目尻から流れ落ちる涙。 燃えるような熱い手が、僅かに握り返してくる力がたまらなく愛しい。 間違っていないと確信をくれる痛々しいまでの意思がそこには存在していた。 「京・・・」 握り締めた手を額へとあてる。 「京・・・!」 これほど傍に居て何よりも大事な人なのに、どうしてこんなに届かないのだろう。 拓也は自分の無力さを悲痛なほど感じながらも、それを埋め合わせる様に京の回復を強く願った。 何故この青年なのだ。 何故この青年でなければならない。 京の父は絶望的な気持ちでその光景を見ていた。 漠然とした不安は、最悪な想像を現実の物として象り始めている。 息子がここまで求める存在が何故、この青年でなければならない。 この事態を、親として一体どのように対処すれば良いのか。 ふと見れば少し離れた病室の隅で、もう一人の友人が心配そうに息子様子を伺っていた。邪魔にならない様気遣うその姿は年相応の者よりも遥か上に見え、それ故心底自分の息子を気遣ってくれている気持ちにも疑い様が無い。 良い青年なのだ。彼も、そしてあの青年も。心根の強く優しい、本当に好ましい青年達。 だが、何故彼でなければならない。 京の父親は、己が持ち得る常識的なものと、それとは異なる彼らの物言わぬ希望の狭間で判断を下しかねていた。 実際、拓也が病室に来てから京の容体は驚くほど落ち着いてきている。 手を握り、意識を散り戻さぬ京へと幾度も呼びかける真摯な姿は、傍にいる者へもその気持ちを痛いほど伝えてくる。 胸傷の治療時、一端離れようとした拓也の手に縋りついたのは、間違いなく意識の無い息子のほうで、医師の判断で彼は治療に立ち会うことになった。 2人の間にある、静かでありながら恐ろしく激しい絆を、どう受け止めるべきなのか。 父親の心にどうしようもない危機感が走る。 「三・・・」 「あなた・・・っ」 拓也に呼びかけた声は妻に阻まれ、そのまま腕を引かれ病室の外へと連れ出される。 「なんだ」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今は・・・お願い。そっとしておいてあげて・・・」 「どいう意味だ」 「わからない・・・でも、だけど・・・今、あの子から拓也君を離すのは・・・」 「だが」 「怖いのよ・・・またあんな風に・・・あの子がまたあの時みたいに・・・」 「・・・・・・沙耶・・・」 「お願い・・・怖いの。まだ・・・全然癒えてなかったのよ・・・あんな・・・あんなに苦しんで・・・」 「もう京も子供じゃない」 「違う。そうじゃないわっ・・・。多分・・・理屈じゃないのよ。あの子が抱えてる傷は・・・理詰めで黙らせられるほど簡単な事じゃなくて」 「そんな事は・・・」 「頭でならあの子だってきっと・・・でもそれが出来ないから・・・」 「・・・だからって・・・何故あの男なんだ・・・っ」 「あなた・・・お願い・・・」 「・・・・・・・・・」 「お願い・・・っ」 必死で懇願する妻に、夫は力を抜いた。 「・・・・・・・・・・・・今・・・だけだぞ」 震える細い肩を抱き寄せ、妻の面差しに良く似た息子の顔を思い出しながら、男は重いため息を吐いた。 ********** |