For You 6
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「拓也」
 嫌な奴に呼び止められたと思う。どうしてこうもタイミング良く自分の前に現われるのか、宮脇は相変わらずどこか人を見下した表情で、拓也に近づいてきた。
「今日は一人なのか?」
 気安く話しかけられる覚えはない。どころか、友人の一人になった記憶さえないのに、宮脇は拓也に絡むように声をかけてくる。
「何か用?」
 イライラしながらも、拓也はにこりと笑いかけてやった。新年に教授の家でこいつに会ってから、ろくなことがないなと思ったりする。完全なやつあたりではあるが。
「最近、やけに急いでいるんだな?」
「おかげさまで、忙しいんでね」
 嫌味をこめて言ってやると、自尊心ばかり高い男は、目尻をぴくぴくさせる。そんな癖も生理的に嫌いだった。
 出身高校がいかに優秀であるかをひけらかしてきた男は、基礎単位をかなり落とし、このままではどこのゼミにも入れないと噂されている。単位を落としているのは自分のせいでありながら、それを謙虚になって認められない。
 昨年秋頃から特にその荒みようは、誰の目にも明らかになってきている。
 それまでにも、何故か拓也に絡んだりしてきた宮脇は、より一層拓也を見かけただけで、いらぬ話をし、拓也を苛立たせている。
 普段ならそれも軽くあしらい、気にも止めない拓也だが、ここのところ自分に余裕がなくなっているせいで、どうも宮脇の態度が、顔を見るのさえ嫌になってきている。
「どこに行くのか知りたいねぇ。なんだかいつも病院の匂いがしないか?」
 拓也はそれまで浮かべていた微笑を無表情の下に隠す。
「どこか悪いのか?」
「おかげさまでいたって健康です。急ぐんだ。じゃあな」
「待てよ」
 肩に伸びてきた手を、思わず反射的に振り払ってしまう。拓也にしてみればたいして力を入れたつもりはなかったが、相手は相当驚いたようだった。
「おい……」
「悪かった。急ぐから」
 拓也は簡単に詫びの言葉を口に乗せると、宮脇の返事も聞かずに歩き始めた。もう宮脇は拓也を呼び止めることはなかった。だが、いつまでも背中に貼りつく、粘着質な視線だけは感じていた。
 首の後ろにざらざらとした嫌な物を感じる。
 とてもこんな気持ちでは、京に顔を見せられないと思う。
 その上、拓也にはこれからもう一つ気の重いことをこなさなければならなかった。
 ジーンズのポケットに入れた一枚のメモ用紙。
 まーくんと呼ばれた男の子の母親に会いに行く。
 苛立つ気持ちを必死で押さえながら、拓也は駅へと向かった。

**********

 静かなたたずまいの住宅街だった。一軒一軒の間にもゆとりが取ってあり、高級とまではいかないが、暮らしの良さそうな家ばかりが並んでいる。
 この町で京は育ったんだ。
 拓也は感慨深く、その町並みを眺めた。
 住所番地を頼りに、拓也は目的の家を探して歩いた。
 そして、一軒の家を見つけた。表札は『中原』
 その家は、数年前と変わらずに、そのままあった……。
 インターホンを押そうとして、拓也はその家の庭から聞こえてくる声に気がついた。
「ほーら、ユカちゃん、たかい、たかーい」
 女性の声に続いて、子供特有の甲高い笑い声が聞こえる。
 拓也は門から離れ、角を曲がって、その家の庭を道路から眺めた。
 ちょうど自分の母親と同じ年頃の女性が、赤ん坊を抱いていた。
「ユカちゃん、いい天気ねー。ばあばとお散歩行こうねー」
 朗らかな幸せそうな笑顔があった。拓也はその女性を信じられない思いで見つめる。
 今も沈んだ顔をしていて欲しかったのか?僕は……。
 そう自問してみるが、その答えはイエスでもあり、ノーでもあった。
 ……わからない。けれど、この何事もなかったような顔は……、見たくなかったかもしれない。
 今この時間も京は、遠い過去の傷から血を流し続けているというのに。
 ふと、視線を感じたのか、女性は道路の方を見た。そしてそこに立つ拓也に気がついた。
 最初は満面の笑みを上げ、拓也を認めると、次第に笑顔が消えていく。
 そして怪訝そうに、赤ちゃんを隠すように抱いた。
 拓也は頭を下げた。
「突然すみません。衛くんの事故のことで、お伺いしたいことがありまして」
 まーくんの母親は、奇妙に顔を歪ませ、ゆるゆると首を左右に振った。


**********

 病院へのきつい上り坂を歩きながら、拓也は内心の怒りをどこにぶつけていいのかわからずに、ただ黙々と足を運び続けていた。
『あの時は私もおかしくなっていたんです。そうでしょう? ある日突然、息子に死なれたわけですから』
 それはわからないではなかった。
 確かに拓也が通された応接室には、小さな男の子の遺影があった。まだ新しい仏壇も。
『それを今更謝れと言われても、お互い、過去のことじゃないですか』
 拓也は謝って欲しいと言ったのではないと何度も言った。ただ、どうしてそんなことを言ったのか、それを聞きたいと言っただけだ。けれど、彼女は最初から、自分は悪くないのだと繰り返すばかりだった。
『あの頃はみんなおかしくなっていましたよ。そうでしょう?』
 拓也に口を挟ませもせず、彼女はまくし立てる。
『今で言うならPTSDっていうんですか? わたしも長い間カウンセリングに通ったんですよ。それくらい大変だったんです』
 そんな言葉を聞きたいのではなかった……。ただ、拓也は……。
『京君になんて言ったのかなんて、私自身はっきり覚えていません。お見舞いには行きましたけれどね。京くんだって、もう過去のことでしょう』
 拓也は反論する気力さえなくしていた。
『いいじゃありません。もう高校生?生きていられたから、高校にも通えるんです。うちのまーくんは……』
 そこでさめざめと泣かれてしまった。演技に見えないでもなかったが、拓也にはもうどうでもよくなっていた。
 …………こんな人のために。
 …………京……。
 失礼しますと席を立ったとき、彼女は今まで泣いていたのが嘘のように、顔を上げてニッコリと笑った。
『京君にがんばるように言ってあげて下さいね』
 いい加減にしろ。
 そう怒鳴らなかった自分を、ここまでの道のりで、拓也は偉いと思ったり、どうして怒らなかったのか後悔しながら歩いてきた。
 病院の玄関の赤いランプが見えてきた。
 あたりはもうすっかり暗くなっている。
 今頃は夕食が済んだ頃だろうか。また京は、自分を見ようともしないのだろうか。
 何故……。
 心の中には一人では抱えきれないほどの感情が渦を巻いている。
 何か一つだけを選べと言われれば、間違いなく京を選ぶのに。何もかも捨てていいのに。
 こんな気持ちのまま、京と顔を合わせてもいいのだろうか。
 きっと今自分は情けない顔をしている。別に情けない顔を見られるのはかまわないけれど、それで今の京に何か悪い影響を与えたりしないだろうか。
 京の笑顔が見たい。
 京と、楽しく笑って話をしたあの日があまりにも遠い。
『春休みには旅行に行こう。ダイビングを教えて』
 そう言うと、京はとても嬉しそうに笑った。
『沖縄のケラマ諸島がとても綺麗だよ。拓也さんと一緒に行きたい』
 可愛い京。大切な京……。
 こんな情けない僕は見せられない。明日までにはきっといつもの僕になってるから。
 拓也は病院の前で踵を返した……。


**********


 昨夜から上がった熱が午後になっても下がらない京は、ベットに横たわったままの状態で、見舞いがてら伊能の訪問を受けていた。
 点滴は外されていたので少し身体が楽に感じる。
 伊能はといえば、京が喋らないのもあまり気にした風もなく、ベットの脇の椅子に座り窓の外を眺めながら、どこかの民族音楽だという歌を口ずさんでいた。
 京はその耳慣れない少し哀愁を帯びた優しいフレーズを聞きながら、天井の規則的に並んだ丸い穴を何をする訳でもなく目で追っている。
「ねぇ。この歌どう?」
 唐突に伊能が言った。
 京は黙って伊能の方を見て少し首を傾げてみせる。
「この歌ね、アフリカの少数民族の子守り歌なんだって。歌詞はね、『誰もが皆ゆりかごの海に還るから。だから安心してお休み』って言うの。山の奥深い所に住む民族で、海なんか一度も見た事の無いはずなのにね・・・知ってるのよ・・・不思議よね・・・」
 そう言いながら、また最初から歌い始める伊能。
 京はいつしかそのフレーズを無意識になぞっていった。
「ね、聞いてもいい?」
 どのくらい経ったのだろう。ひとしきり歌う事に満足したのか、伊能が問い掛けてきた。
 京が返事をせずにいると、それを了解と取ったのか彼女は言葉を続ける。
「京くんの『夜の海』って何?」
 一瞬京の瞳に力が篭った。
 だがすぐに全てを拒否する瞼に塞がれ、伊能はまたしても京の心への手がかりを取り逃がしてしまった。

**********

「的場先生?月乃くんですが・・・」
「なにかあった?」
「なんというか・・・」
「隙が無い?」
「・・・ええ・・・」
「若いのにねぇ。あれは40のオッサン並みのガンコさだ」
「センセ・・・なんてことを」
「解ってるよ」
「自閉というのとも違うんです。ちゃんと廻りを見てる。でも崩れない。自分を恐ろしいほど殺している」
「今までそうして過ごしてきたんだろう。筋金入りだよ。・・・月乃くんのご母堂に聞いたんだがね、彼は過去に自閉と拒食、失語を一度に経験している」
「はい。カルテにありました」
「うん・・・僕が見る限り、その原因となった事件のフラッシュバックが、今回の一番の問題のようにみえるな」
「誘拐。ではなく・・・ですか?」
「まぁ、それも有るだろうけど、誘拐はあくまで過去の傷を思い出させた『きっかけ』に過ぎないというのが僕の見解だ」
「・・・難しいですね」
「過去の実状をどれだけこちらが把握出来るかがポイントだろうな」
「何があったのでしょう」
「・・・・・・・・・・・・さぁね・・・」
「基本的で単純な事ですが・・・京くんの好きな人が、傍で居て支えてくれる状況が作れれば・・・」
「好きな人ね・・・まぁその辺は・・・」
「まぁ、彼女が?」
「付き合ってる人はいるみたいだよ?」
「なら少しは安心ですね・・・でもお見舞いに来てるのは見た事がないけど」
「そうかい?」
「でも・・・あの年頃の女の子に、今の京君を受け止めきれるか・・・大分疑問です」
「その辺は大丈夫じゃないかな」
「え?年上なんですか?おませさんねー」
「はははは。確かにそういう意味でも彼は早熟だ」
「あの年頃は難しいわ・・・大人でも子供でもなくて・・・普通でも自分を持て余すのに」
「・・・」
「先生?」
「ん?ぁいや・・・今日も冷えるかな・・・と思って」
 的場は立ち上がり、診療室の窓から病室のある方を見つめる。
 拓也と京が今、微妙な関係に有る事を的場は薄々感じていた。だが、それに関して的場は口を挟む立場には無い。
「若いねぇ・・・」
 溜め息交じりに呟いた言葉が、窓ガラスを曇らす息となって消えた。

**********
 
 寒い夜。
 白い雪が音もなく降り積もる。
 京は窓辺に立ち外を見ていた。
 室内から漏れる薄明るい光に反射した雪が踊るように舞い散る姿は、まるで花吹雪のようで。
 巻き上がる風のせいだろう。
 遠くの雪は下に向かって静かに降りて行くのに、自分のすぐ傍に降るはずの雪は、先急ぐように上へ上へと舞い上がってゆく。
 その幻想的な景色を、京はただ黙って見つめていた。
 窓を開け放つ。
 吹きすさぶ風と共に、白い雪が病室の中へと入り込んできた。
 か細い女の悲鳴のような風の音。
 肌を刺すような冷たい空気が暖かな空気を見る間に押しのけ、薄い寝巻きだけを身に纏った京の体を見る間に包みこんでしまう。
 一気に冷えて行く身体。
 寒いという感覚はなかった。発熱でぼやけた頭が正常に引き戻されるような奇妙な現実感。
 このままで居たらどうなるのだろうと、そんな解りきったことを京は考える。
 巡回の看護婦に見つかり、叱られ、また熱を出して寝込む自分の姿を想像し、思わず笑いがこみ上げた。
(でも、気持ちいいし・・・)
 冷たい風は考え事をするには丁度良い気がした。
 夢の正体。
 幼い頃の記憶。自分が覚えていること以外の何かが顔を出そうと暴れている。
 思い出してはならないものを覆い隠した、心の防壁が崩れかけてきている。
 あの事故によって京は理不尽な終焉を迎える命というものを目の当たりにした。だがその時、不思議なことに『死』というものを恐ろしとは思わなかった。ただ無性に哀しかっただけ。痛みが引き起こす意識の混濁は、諦めや恐怖などといった恐らく人間の根本的部分さえ希薄にさせたのかもしれない。
 何に・・・という事はなく、ただ哀しかった。
 覚えている。その部分は忘れてはいない。
 ここまで存在を誇示し始めた過去の記憶。無意識下まで押さえつけたその記憶を、自分の制御下で引き出すにはどうすればいいのだろう。
 京は氷のように冷えた指先をそっと唇にあてる。
 あの事故で死ななかった自分は、どんなに望んでも「死」というものだけは許されないような気がしていた。
 そんな楽な方法を取る事など決して許さないと、いつも誰かが責めていて。
 Kvを求めたあの3人の男達に傷つけられた時も、もっと早く楽になる方法があった筈なのに。
 生きなければ。自分はそうやって罪を償ってゆかなければならない。
 生き汚いと言われても構わない。自分の周りの人々に二度とあんな顔をさせてはならないのだ。そんな事になるくらいなら、どんな物も、どんな出来事も自分の中に押し込めてしまえば良い。
 そうして・・・そうして・・・
 選んではいけない。
 愛していればこそ。
 生きなければならない。

 ---考えるな。
 それは幼い頃身に付けた自分を守る為の殻。綻びだらけの記憶の封印が解けるのを恐れた、弱い自分の保身。
 そんな事は分かっている・・・・・・分かっている。

 胸が痛い。息が苦しい。

 今日、拓也が病室へ来なかった。
 たったそれだけの事で、こんなにも自分は駄目になる。
 散々冷たくあしらったのは自分。
 もう来るなと言ったのも自分。
 嫌いになれ。愛想を尽かせと願った。
 拓也の中から京という存在を切り捨てて欲しい。
 彼の負荷である原因が自分ならば、そこから解き放たせるのが己の役目。
 誰よりも大事な人だから、重荷になることだけは耐えられない。
 だからそうした。そう願った。
 なのに、心の何処かで微かに期待する自分が・・・・・・たまらなく嫌だった。

 分かっている。
 問いたげな拓也の視線も。伊能が何をどう答えて欲しいのかも。
 だが、それに応えることは無理なのだ。自分でも思い出せないことをどう説明しろというのだろう。
 だが仮に記憶を辿ることが出来、彼らが望む答えを返えせた所でどうなるというのだ。
 向けられる純粋な好意をそうとしか思えない時点で、自分はもうすでに終わっているのかもしれない。そう思うと、京はまた少し可笑しくて笑った。
 しかし、こうやって過去を思い出そうとしている自分が居ることも確かで。
 混乱しつづける頭。根本さえあやふやになってゆく。
 何故か可笑しかった。
 押し殺した笑い声が風に掻き消えてゆく。
 大事なものは何だっただろう。欲しいものは何だっただろう。優しい手に抱かれた温もりは都合の良い幻か。
 一向にまとまらない思考。過去も現在も全部一つに混濁し、割れるような頭痛を伴い京を襲う。
 大事なものは家族といえば、聞こえは良いだろうか。
 それとも・・・・・・・・・

 身体に触れる雪が体温では解けなくなリ、素肌にさえ雪が積もり始めた頃、後ろで看護婦の悲鳴が聞えた。
 京はゆっくりと振り向き・・・そこで意識は途絶えた。

**********

 


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