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「京・・・三池さんに失礼だろう」
「ごめんなさい・・・」
「謝る相手が違う」
「・・・」
「何があった・・・?」
「・・・大丈夫だから・・・」
「そういう事は、自分の姿を見てから言いなさい」
「・・・」
「心配もさせてくれないのか?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・解らない・・・んだ・・・」
「解らない?」
「・・・父さん」
「なんだ?」
「・・・俺・・・何を忘れてるんだろう・・・」

**********

 京が入院して数日が過ぎた。
 拓也が病室を訪れると、いつもと多少時間がズレたせいか、付き添いの母親の姿が見えなかった。
 一人ベットに眠る京。
 的場から聞いた通り、傷の治癒を最優先にする為だろう、安定剤を含んだ点滴を投与され、ここ数日、拓也が病室へ顔を出しても、京は深い眠りに就いている事が多かった。
 仮にタイミング良く起きていたとしても、あの日から京の瞳は一度も拓也の顔を見る事はなく、会話も交わされることも極希で、そこから伝わるのは頑なに自分を拒む空気のみ。
 それが解っていても拓也は、少しでも時間を見つけては、病室へ通うことを止められなかった。

 白く細い腕から太い点滴のチューブが延びている。
 針の刺さった場所の周りは、幾度も点滴の場所を変えた跡があり、それぞれに鬱血していた。あまりの痛々しさに拓也はその場所から目を逸らした。
 人形のように動かない頬に、そっと拓也は手を伸ばす。
 彼の両親の手前、京へ触れることは憚れていた為、既に懐かしく感じるほど久しぶりな京の肌の感触。
 額にかかる前髪をそっとかき分けるように触れると、京の瞼が微かに震えた。
 深い眠りから、ゆっくりと引き上げられるように、静かに開かれる瞼。そしてそこからあらわれる黒耀の瞳。
 その幻のような光景に見惚れていると、京の吐息が微かに拓也の名を呼んだ。そして浮かんだ無防備な微笑。
 拓也は誘われるまま優しい口付けを落していた。少し力を込めただけでも壊れてしまいそうな京に、拓也は何度も優しく軽く触れるだけの口付けを与える。
「京・・・」
 しかし、柔らかな響きで囁かれたその声が、幸せな夢の終わりだった。
 突如として耳に入ってきた現実の拓也の声に、京の表情が一瞬で強張る。
 硬直した身体は拓也を完全に拒否し、少しでも閉じこもろうとするかのように瞼が硬く閉じられてしまう。
 だが、京が落ち着いたのは、それからわずかばかり後。
 ス・・・と刷毛で掃いたように、見る間に無表情の鎧がその身を覆った。
「ごめん・・・」
「・・・・・・・・・・いえ」
 何について謝ったのか自分でも分からないまま出た言葉に、返ってきたのは、無慈悲なほどそっけない一言。
「昨夜も・・・熱が出たって聞いた・・・でも今は大分顔色が良くなってきたみたいだね」
「・・・お蔭様で」
 当たり障りが無いというよりも、あまりにも余所余所しすぎる会話。そこには先ほどまでの甘く優しい空気は微塵もない。
 助け手を拒み、一人上半を起した京は、拓也を完璧に視界から追い出し、微動だにしないまま窓外の冬空を見つめていた。
 重苦しい沈黙が続く。
 先にそれを破ったのは京だった。
「先日は・・・大変失礼致しました。すみません。少し疲れたので・・・お引き取りいただけますか」
「京・・・」
「拓也さんもお忙しいでしょうから・・・ここにはもう・・・・・・来て・・・くださらなくて・・・結構です」
 窓の外を見つめたまま一度も拓也を見ずに京は言った。
「・・・来るよ。毎日、京に会いに来るから」

 ドアが閉まり、拓也の気配が遠く消えても、京はじっと外の景色を見たまま動かなかった。

**********
 
 拓也がまず始めたことは、当時の事故を調べることだった。あまりにも大きく悲惨な、そして自分の息子と同じ年の子供たちが巻き込まれたということで、母親がそのあらましを覚えていた。
「あれは……、勝也が3年生の時よ。春の遠足の時期で……、当時は新聞やテレビでもその話題で持ちきりだったわ。亡くなったお子さんのことをこと細かく報道したり、助かったお子さんに、事故のときの様子を聞こうとしたり、亡くなった子たちも、生き残った子たちも、気の毒で」
 テレビのワイドショーの報道合戦。
 亡くなった子供たちがいかに可愛かったか、残された家族がどれほど悲しみにくれているか、その報道は加熱の一途を辿るばかりだった。
 ……そして。
 生き残った子供たちに、助け出されるまでの様子を聞こうと……。
 拓也は今更ながら、熱い怒りを覚える。そんなことをして、何になるというのだろう。その中に京がいた。京がいた……。
「どうしたの? 突然、そんな昔のこと」
 拓也の様子に常ならぬものを感じたのか、母親が心配そうに尋ねてくる。
「う……ん。ちょっと調べたいことがあったから。ありがと」
「拓也」
 リビングを出て行こうとする時、母親が拓也を呼んだ。
「何?」
「いつでも帰ってらっしゃい。何もかも捨ててきても、私がすべての批難から守ってあげる」
 母親は時折、そんな事を言った。考えてみれば、いつも辛いことがあった時に。何もかも投げ出したいと思った時、それを言われることが良くあった。その度、まだ頑張れる自分を見つけるのだった。ぼろぼろになっても、助けてもらえるのだと思って。
 不覚にも涙を流しそうになり、無理にも笑うと、拓也はありがとうと言って、リビングを出た。


 インターネットで調べると、たくさんの記事が出てきた。それらを一つ一つ調べていくうちに、当時亡くなった生徒たちの詳細が出ている記事に行き当たった。その児童の名前と住所が出ている。
 そして……、助かった生徒と、運び込まれた病院の名前も。
「月乃京(8) 清和大学病院」
 その名前に胸が痛む。今も京はこの記事の中に閉じ込められているような気がして。
 亡くなった生徒たちの中から「まーくん」らしき生徒の名前を探す。
 中原衛…………「まーくん」と呼べそうな名前はこの子だけだった。
 拓也は住所をメモして、パソコンを終了させる。
 暗転した画面に、自分の顔が映る。
 自分でも驚くほどきつい目をしていた。
 こんな顔で京の見舞になんて行けやしない。
 パンパンと頬を両手で叩き、立ちあがる。
 この母親に会ってどうすればいいのか、拓也にもわからない。
 京に突き刺した言葉の、ほんのわずかでも悪かったと思ってくれているのなら、何かが変わっていくはずだと思う。京が今も苦しみの中にいると知ったら、京に優しい言葉をかけてくれるかもしれない。
 それだけでいい。きっかけさえあれば、自分がそのあとのことは責任を持って守っていく。
 だから……。
「京、行ってくるから」
 その場にいるはずもない京に向かって、拓也は声をかけた。
 一人の戦いに勝つために。

**********

「月乃君。はじめまして。カウンセラーの伊能です。よろしくね」

 心地よい、女性にしては低めの静かな声と共に差し出された手を、ぼんやりと京は見つめた。
 目の前にある、ほっそりとした清潔そうな女性の白い手。
 握手を求められているのだと気付くまで、ややしばらくかかったが、伊能という名のカウンセラーはそういう事に慣れているのだろう、緩慢とも言える京の動作を、面倒な様子も見せず微笑みながら待っている。
 京がゆっくりと手を持ち上げ、そっと彼女の手に添えるように合わせると、同じくらいの力で柔らかく握り返してきた。
「京くん。って呼んでもいいかしら。私の事は厭じゃなければ『佳子』と呼んでね」
「け・いこ?」
「そう。ケイコ」
 押し付けがましくないその言い方に、京はクスリと小さく笑った。

 伊能が京に求めたのは、自分の事を話すということ。
 小さな頃の事でも、最近の事でも。好きなもの嫌いなもの。どんな事でも構わない。
 自分の事を語れという。
 しかし京は、何も話せなかった。何を話したらいいのか解らない。自分から己の事を話したいと思った事など今までにほとんど無いのだ。話し方を知らないと言ってもいいのかもしれない。

 京の身体への負担を考え毎日少しづつ行われるカウンセリング。決められた時間内、一言も言葉が交わされないこともあった。黙りこくる京の傍で、伊能は辛抱強く待ち続ける。

「京君は海に潜るんですって?」
 どこから聞きいれてきた情報なのか、今日の話題の始まりは趣味の事らしい。
「どこの海に行ったことがある?私は学生の時にグアムで潜ったわ。初心者の体験ダイビングだったけど」
「・・・グアムは2回ある」
 返された言葉に伊能は少し驚いた。
 今まで何を聞いても、精々首を振る程度の答えしか返ってこなかったのだ。
「2回も?すごいわね」
「・・・近いから」
 カウンセリングが始まって初めて交わされているといってもいい"会話"に、伊能は京の心を開く何かが無いかと慎重に言葉を選ぶ。
「何処の海が好き?」
「・・・・・・・・・ケラマ」
「ケラマ?」
「・・・沖縄」
「日本なんだ」
こくりと肯く京。
「・・・・・・・・・・・・でも・・・」
 カウンセリングを開始して、初めて京から始められる会話に伊能は神経を研ぎ澄ます。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・好きなのは・・・夜の・・・海」
「夜の海?」

 それ以降、伊能がどんな質問をしても、京は返事を返すことはなかった。

**********

 夕刻の回診の時、京はおもむろに口を開いた。
「先生」
「はい」
「お願いがあります」
「なんだい?」
「安定剤を入れないで下さい」
「・・・何故?」
「・・・」
「理由も無く処方を変えることは出来ないよ?」
「・・・夢を見ます」
「どんな?」
「覚えていません・・・でも・・・夢を・・・見ます」
「・・・伊能君を呼ぶかい?」
「いえ」
「・・・拓也君は?」
「必要ありません」
「おいおい」
「聞き入れて下さらないのなら結構です。失礼しました」

 担当医のため息が聞えてきそうな会話だった。
 カウンセリングが、どの程度功を成しているのかまだ分からない。
 カルテを見ながら、的場は京の崩れそうで崩れない精神力にある意味敬服する。
「こうやってムリヤリ全部押さえつけてきたんだねぇ。すごいよ。まったく。」
 ただそれだけに恐ろしい。
 ギリギリまで張り詰めたものが崩壊したその時、何が起こるのか。
 一気に手の届かない所まで行ってしまう例は少なくないのだ。
 (たのむから・・・壊れるなよ・・・?)
 的場は眉間に深い皺を刻み、誰にも聞えないような声で呟いた。

**********

 幻覚さえ伴う薬の力。
 ゆらゆらと漂う夢と現の狭間。
 身動きの取れない暗闇に囚われながら求めたのは誰だったのか。
 すぐ傍に、記憶に閉じ込めた優しい匂いがした。
 好きで好きでたまらない人の幻が見えた。
 夢の中なら微笑んでも許してもらえるだろうか。
 幸せな幻は、欲しかった口付けをくれた。
 幾つも・・・幾つも・・・
 そっと触れるだけのそれは何よりも優しくて・・・

 ―――――嬉しかったのに

 「・・・拓也さん・・・」
 京は震える両手で顔を覆い、溢れそうになる涙を堪えた。

 


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