For You 22
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「京・・・」 近衛が苦々しいとも取れる声で、息子へと呼びかけた。 細い身体がビクリと震え、それでも意を決したようにゆっくりと拓也の胸から顔を上げてゆく。 両手は離れがたく拓也のシャツを掴み、京はどうやっても隠し切れない病み疲れた白い顔を両親へと向けた。 だが、その瞳には先ほどまで纏っていた頼りない迷い子のような色は消え、僅かながら強い意志さえ感じられる力が戻っている。 近衛の怒りが震えで伝わり、沙耶が次に起こりえる事態を予測し、夫の袖を引きながら止めてくれと懇願する。 「京、こちらへ来なさい」 有無を言わさぬ声音に、廻りの緊張が高まった。 「・・・ごめんなさい」 「それは・・・何に対して言っている?」 「全てに」 「どういう事か解っているのか?」 真っ直ぐな黒い瞳が、一つしっかりと肯いた。 近衛が大きく息を吸い込む。そして、静かに吐き出し、また緊張を孕んだ沈黙がその場を包み込んだ。 「とうさん。俺・・・アメリカには行かない」 痛いほどの沈黙を、先に破ったのは京。 その口から放たれた意外な言葉に、拓也は驚きを隠せず、思わず京を抱く腕に力が篭る。 「行かない」 細い指先は拓也のシャツを強く握り締めたままだったが、京は強い意志を込めきっぱりと言い切る。 『行きたくない』ではなく、『行かない』という意志。 沙耶が感じ、理解し、受け止めた部分。 京が初めて見せた『自らが望む気持ち』を近衛はそこに見る。 拓也が京を呼び戻し、そして、京が拓也の所へ戻ってゆくという、新たなる構図。 守る筈の子供が、不意に巣立ってしまった感覚とでも言うのだろうか。確かにこの手の中にあったはずのものが、霞のように消えてゆく喪失感に、近衛はたまらず己の手を握り締める。 完全に手を離れてしまった息子。 近衛は今度は別の意味の含んだ溜め息を吐いた。 「とうさ・・・ん」 「忘れるな。お前は私の息子だ」 「・・・はい」 「私は、私たちは誰よりもお前の幸せを願っている。不孝になる事だけは絶対に許さない。本音を言わせてもらえば『駄目だ』と言いたい。―――特別だと思ってもらおう。次は無い」 きっぱりと強く響いた最後の言葉は、事実上、拓也へと向けられた言葉。 「ありがとうございます。必ず、京に幸せな笑顔を」 はっきりと返事を返し深く頭を下げた拓也に、近衛は複雑な表情を返すと、苦悩隠さぬまま目を瞑った。 そして再び瞼を上げ、拓也を捕らえた視線は苛烈なほど強く揺るぎ無く、同時に彼らの将来を見守ることを己の責に組したことを二人に伝えた。 「先生。お騒がせいたしました」 近衛が振り返り様に的場へと声を掛ける。 「いいえ」 「息子は大丈夫でしょうか」 「この騒ぎで多少怪我をしたようですが・・・恐らく。ただ現実問題として、もう少し御子息の体力的回復を看させて頂きたい所ですが」 「よろしくお願いいたします」 「お任せください」 近衛は一つ的場に礼をし、沙耶の肩を抱き寄せると処置室を出ていった。 |
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張り詰めた緊張の糸が緩み、ほうと誰もが溜め息をついた。みながみな、次に何を?と思った気の抜けた空気に再び緊張感を高めたのは、微かな呻き声だった。 「拓也さんっ!」 京が叫ぶ。 胸を押さえ、前屈みになる拓也を支えているのは、今にも倒れそうな細い身体だ。 「静かに寝て。どこか傷むかね?」 医者が介添えをして、拓也を再び寝かせた。 「大丈夫です。ちょっと痛んだだけですから」 「我慢強いのはいいことだが、今は正確に痛みを伝えてもらわなくては」 「拓也さん……」 拓也の手を握った京が心配そうに覗き込む。 「えっと、君、もうしばらく外に……」 「ああ、その子は置いといて。荷物だと思って。今離すのは良くないんだ。なんだったら、伊能君に証言してもらってもいいけど」 的場の助言に医者は苦笑して、とりあえず、拓也の傷の手当てを済ませ、その場でエコーを撮った。 「内蔵には損傷はないようだね。まぁ、酷い打ち身だろう。時間が薬だな」 「はい……」 「とりあえず、的場先生が病室を手配するみたいだから、移ってもらおうかな。痛みが酷くなったり吐き気がしたらすぐにナースコールして。いいね」 「ありがとうございます」 看護婦にスリッパを履くように勧められ、京は自分が裸足だった事に気づいた。 「大丈夫? 寝てなくて平気か?」 酷い怪我をしても自分の事を心配してくれる拓也に、京はやっと微笑んで、大丈夫と、小さな声で答えた。 拓也が病室に運ばれるのと一緒に、京も病室を移って来た。 本来は個室らしいが、もう一つベッドを運び入れるだけのスペースは余裕であった。 拓也の母親が入院の手続きを済ませ、正也と洋也が拓也の荷物を運び入れてくれた。勝也は京の母親を手伝って、京の荷物を。 拓也が持ってきてもらったパジャマに着替える時、京がひっと息を吸い込んだ。 綺麗な肌はほとんどが包帯で覆われていたが、そこから出た部分は赤黒く、鬱血の痕を残している。 よく無事で……。 ただただ奇蹟に感謝した。 拓也を失うかもしれないと思った時の恐怖が再びかけのぼってくる。 「大丈夫。これくらいは、平気だから」 拓也は笑い、素早くパジャマを羽織った。 さんざん正也は拓也をからかい、勝也は京に学校での出来事を説明した。松岡をはじめ、他の教師たちも必ず説得すると約束をする。 京はずっと握り占めていた手を開いた。そこには小さな石があった。 「早く元気になれよ。待ってるから」 「ありがと……」 京は微笑むと、久し振りに笑ったよなと、勝也も笑った。ぽんぽんといつものように京の頭を叩くと、「こら」と、隣から声がかかる。勝也がバンザイをする。 「別の病室の方が良かったのに」 ポツリと勝也が呟くと、京がふるふると首を振る。 「ごちそーさまー」 勝也の呆れた声に、病室が笑いに包まれた。 拓也も的場が受け持つ事になり、病室を訪れた的場は二人を簡単に診察した。 「もう大丈夫ね」 伊能が穏やかな顔つきになった京を見て、安心したように微笑んだ。 「……はい」 京が照れ臭そうに俯いた時、拓也が叫んだ。 「先生、痛いって!」 「拓也さんっ」 「なぁ、どれくらい痛い?」 「ええっ」 「一度さ、患者に試してみたかったんだよ。縫った跡を直接触ると、どれくらい痛いのかなーって」 「骨折った時くらい痛かったです」 「あれ? お前、骨折った事ある?」 「先生はその時も折れたところを直接触ってどれくらい痛いか聞きました」 「あれは正也じゃなかったか?」 拓也は溜め息をついて目を瞑り、正也は可笑しそうに笑った。 「先生」 伊能に窘められ、的場は肩を竦めた。 「これくらい丈夫な奴じゃないと、試せないんだろ。殺してもしにゃーしねーのは、今日証明されたし」 「冗談が過ぎますよ」 京の顔色を見て、的場は頭を掻いた。 「まあ、ゆっくり寝ろ。な?」 ぽんぽんとまた傷の上を叩いて、拓也が顔を顰めるのに満足して、的場は「面会時間は終わりだ」と言って、正也と勝也を連れ出した。 京の母親も拓也にお願いしますと言い、息子にも気をつけてねと残して、病室を出て行った。 途端に病室が静まり返る。 ふっと、二人の視線が合う。 京はするりとベッドを降り、拓也のベッド脇に座り、そっと拓也の肩に額を押し付けた。 「京……、心配かけた? ごめんな」 滲む涙を拭きながら、京は拓也の肩に額を擦りつける。 「ねえ、顔を見せて。ずっと、会いたかったんだよ。本当に」 ゆっくり顔を上げた京の頬を、拓也はそっと撫でた。 「会いたかった。京……」 「俺も。俺も、会いたかったっ」 流れる涙を拓也の指が拭う。 京の頭の後ろに手を回し、拓也は京を引き寄せた。 そっと、そっと、綿毛が降るような、優しい口接けを交わした。 |
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それはどこまでも優しい口接け。 淡雪が降るように、瞼に、頬にそして唇に落ちてくる。 腕の中にある愛しい存在を確かめるだけの、静かで穏やかな触れ合い。 交わりあう、ほのかな温もりという現実に、京は涙が零れて止まらなかった。 生きている。生きて、自分の傍にいてくれる、京にとって何者にも代えがたい、唯一絶対の人。 そして愚かな京の誤りを受け入れ、正し、どんな場所からも安らぎの元へ引き戻してくれる人。 京の指先が拓也の頬に触れる。 整った輪郭に添う様に流れるように落ち首筋へと、そのまま柔らかな羽根が滑り落ちるように胸元へと向かう。 「・・・痛・・・そう」 包帯の感触を捕らえ、京の声が小さく震える。 「動かせばね」 苦笑を含んだ拓也の言葉に、京の脳裏に先ほど見えた痣が蘇る。それに気付いたのか、宥めるように拓也の手がそっと髪を撫でた。 「平気だよ。こんなのすぐ治るから」 優しく囁くような拓也の声。この声に京はいつも救われてきた。 「京もね。早く良くなって」 その言葉に、京は僅かに顔を上げた。 拓也はその頬に手を添え、頬に出来た真新しい痣に目を細める。その視線の隅には、痩せすぎた身体が作る胸元の隙間の白い肌。そこには、まだ癒えきれぬまま傷痕が覗いていた。 「僕ら、二人とも満身創痍だね・・・」 小さく笑いながら、拓也が京の髪をなでる。 「・・・ごめんなさい」 京は様々な思いを込めて、その言葉を唇に乗せた。 自分が逆の立場になり初めて解るこの心の痛み。 今まで京は、拓也にどれだけこの痛みを与えていたのだろう。そう思うだけで謝る以外、他に出る言葉がない。 「京・・・僕もだよ。ごめんね」 拓也がお互い様だと、優しく京の背を撫でる。 「俺、考えれば考えるほど拓也さんから、離れたほうが・・・良いって思った。拓也さんと一緒に居たいって思う事も、それを幸せだって感じることも、俺には許されない事みたいに感じて。自覚すればするほど、頭の何処かにいつもあって・・・」 「京・・・それは」 「うん・・・」 解っていると肯く頭。京自身では癒しきれなかった過去の傷は、無自覚のまま己を一層幸福から遠ざけたのだと。 それにより引き起こる自信の欠落は、己への不信感と内罰的自傷を強くし、そのどれもが、次々に引き起こる外部的な”事故”に絡まり、傷の乾ききる隙を与えぬまま心の生傷を深く抉った。 身体よりも心を深く苛みつづけるそれは、当人の意に反しながら最悪にも廻りの人間を巻き込み、更に奥深くへと贄を欲しがり暴れた。 「だから、そういうものから一番遠い所に居るべき俺が、居なくなればって・・・」 「京・・・?」 「・・・そう思った。だけどね」 恐らく拓也という存在が無ければ、京はあの誘拐の時点で生きる事を放棄していたかもしれない。 その証拠に、拓也から離れようと決意した後陥った闇は、躊躇いも無く死の底から手を伸ばし、絡め取られるがまま京はその足を向けたのだから。 「俺・・・こんなに自分が欲が深いって知らなかったんだ」 「・・・」 「でもね、拓也さんに逢うまで、欲しいものが無かったのも本当なんだ・・・だから気付かなかった」 京はまっすぐに拓也を見つめる。 「俺が何よりも欲しいのは、拓也さんなんだって」 「・・・京」 「拓也さんが居ないのだけは・・・嫌なんだ」 京のつたない告白を、拓也は優しく髪を撫でながら黙って受け止める。 「・・・駄目なんだ。離れたら・・・息も出来なくて・・・時間も何も動かない」 「京、僕の幸せも京と一緒に居る事なんだよ?」 こくりと小さな頭が肯く。 「愛してる・・・京に、僕の想いを受け止めて欲しい」 「拓也さん・・・」 「愛してる。京」 「拓也さん」 「足りなければ、何度でも繰り返し言ってあげる」 「うん・・・言って・・・俺、馬鹿だから、すぐ解らなくなるから・・・」 「愛してる・・・ずっと一緒に居よう」 「う・・・ん・・・」 切なくほど見える嬉しそうな微笑が、涙を隠す為に両手で覆われる。だが、拓也は京の手を取り顔を上げさせた。 「愛してるよ・・・京・・・僕の傍にいて」 幾度も繰り返すと約束した、誓いの言葉と共に。 ********** |
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