For You 20
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  「京!」
 拓也は叫びながら、その冷え切った細い身体を抱き寄せた。
「京・・・京!」
 冷えた頬を撫で、自分の腕の温もりで暖め呼びかける。
 呼吸は弱く、血の色は薄い。
 急ぎ車に運び込み、ヒーターを最大にする。
 濡れた服を脱がせると、白い体のあちこちに打撲や傷があった。やはりあの場所から落ちたのだと拓也は息を詰める。
 それを全て覆い隠すよう、常備していた毛布に包みこみ、氷のような身体を抱きしめながら、拓也は携帯のボタンを押した。
『もしもしっ!』
 コール音もほとんど鳴らず、相手は叫ぶような声で電話に出た。
「京を見つけました」
『ほんとですかっ!』
「はい。ですが、少し怪我もしているようなので、今から病院へ連れて行きます。的場先生の方へ連絡を入れておいて頂けますか」
『ええ、わかりました』
 回線を切り、拓也はアクセルを踏み込んだ。
 タイヤが悲鳴と白煙を上げる。
 京を探す為に辿った道を、引き返す。
 シートを倒した助手席では、京が苦しそうな息をしていた。
 救急車を呼んだ方がいいだろうか。だが……。それではどこの病院へ運ばれるのかわからない。
 身体より、心が深く傷ついているだろう京のケアを頼めるのは、やはり的場しか思いつかないのだ。
 京の耳にはピアスがなかった。手当てをしただろう耳朶には、まだ薄っすらと血が滲んでいる。
 ピアスをなくし、あの海へ一人で行った京に、拓也は胸が潰れそうになる。
 そこまで悩んでもなお、自分に縋ろうとしなかった京の、幸せに対する忌避観が可哀想になる。
 甘えることが苦手だと言った。誰に対しても遠慮がちで、自分をつまらない存在のように言う。
 拓也にとっては、京こそがこの世のすべてであるのに。
「う……、ん……」
 汗ばむほどヒーターを効かせたのが良かったのだろうか、京が毛布の中でわずかに見動きをした。
「京」
 拓也が左手でそっと頬に触れて名前を呼ぶと、京はまぶたを震わせた。
「京」
 もう一度名前を呼ぶと、京は目を閉じたまま、嬉しそうに微笑んだ。
「た…く……ん……」
 ほとんど唇を動かさず、拓也の名前を呼ぶと、京はまたすうと、眠りに引き込まれていった。
「僕は……、間に合ったかい?」
 夢の中の京を、自分は助けられただろうか。優しく抱きしめられただろうか。
 市街地に近くなるに連れ、幹線道路は混み始める。帰宅ラッシュとぶつかっているためだろう。
 夜の街を、裏道を縫うようにジグザグに走り、拓也はアクセルを踏み続けた。
 やがて、通いなれた病院の看板が夜空に浮かび上がってくる。
 拓也は遠慮せずに、玄関脇まで車を乗り上げた。救急用の玄関脇には、的場と二人の看護婦、京の両親、そして弟の姿があった。
 ブレーキを軋ませて停まると、的場が助手席を覗きこんできた。
「怪我をしているのか?」
「ええ、腕と、足に少し。多分、崖から落ちたんだと。身体も冷え切っていました。海に半分以上浸かっていたような状態で」
 的場は顔を顰め、ストレッチャーに運べと拓也に言った。
 拓也が下りて助手席側に回り京を抱き上げる。
 こうして京をこの銀色の冷たい台に降ろすのは2度目だと思うと、涙が込み上げてきた。
「京……」
 拓也の声に、京は薄っすらと目を開ける。だがその目は、何も見ていないようにも思われた。
「京!」
 母親がストレッチャーの上に寝かされた京に縋りつく。だが、すぐに京は目を閉じた。
「大丈夫です。すぐに手当てをしますから」
 的場がそう言い、救急処置室へ台を運ぼうとする。
 拓也はそれについて行こうとした。
 けれど……、それは出来なかった。
 腕を掴まれ、拓也は立ち止まった。
 拓也の目の前で、銀色のドアがパタンと閉まった。
 
   拓也は、自分の腕を掴んで引き止めた主を振り返りかえる。
「月乃さん・・・」
「息子を見つけてくれてありがとう。君には感謝している。だが、もうここでお引き取り願いたい」
 父親のどこまでも意志の強い瞳がそこにあった。
「無体で失礼な事を言っているのは承知の上だ。だが、今ここで私は私の方針を変えるつもりはない」
「・・・!」
「これ以上話をするつもりもない。弟さんを連れてお帰りなさい」
「月乃さん!」
「世話になった。では」
 ドアの向こうに月乃近衛という人物が断ち切るように消えた。
 完璧な拒絶だった。付け入る隙も無い。
 拓也は、その場に立ち尽くした。

**********

 拓也が京を見つけてすぐ、冷えた身体を暖めた事が何よりも良かったらしい。
 ウォーマーが取り付けられたベットの中で、京の容体は大分落ち着きを取り戻してきていた。
 的場の診断では、外傷は打撲と切り傷のみで、骨には異常はないとこのと。脳波にも一応異常は見られないので、意識を取り戻し、何か口に出来るようになったらとりあえずは大丈夫だろうという話をもらっている。
 ベットの傍では、京の母親が心配そうに息子の様子を覗き込んでいた。
 軽いノックの後病室のドアが開き、音につられるように沙耶はそちらへと視線を移したが、入ってきたのが夫一人であったことに僅かに顔を顰めた。
「あなた・・・三池さんは?」
「帰ってもらった」
「なんてこと・・・!」
「もう、京には逢わせない。すぐに渡米の手続きをする」
「駄目・・・駄目です!」
「これ以上ここに居たら酷い事に・・・取り返しの付かない事になる」
「違うわ!駄目。あなた・・・お願い!」
 妻の激しい物言いに、夫は僅かながら目を見張る。
「私は反対です!」
 我が息子を庇うように立った女は、今までに無いほど強い声で言い放った。
 互いの沈黙が重苦しく病室に落ちる。夫婦間の話し合いでここまで平行線を辿った事は今までに無かった。ジリジリと互いに譲らない意志をぶつけあい、最後には再び黙り込んだ。
 膠着状態が続く。そんな危うい均衡に僅かながら二人が疲れを見せたその時、沙耶は、京の瞼がゆっくりと開いてゆく事に気付いた。
「京・・・!」
「気が付いたか」
 二人は駆け寄り、それぞれに息子の顔を覗き込む。
 よかったと、喜びも露に声をかけたが、何かがおかしい。その瞳は空ろで、髪を撫でる母親の手にも、耳元への呼びかけにも応えがない。
「京!?」
 母親の悲痛な叫びが病室に響く。
 ナースコールで呼び出された看護婦が、慌ただしく駆け込んでくる。暫く遅れて的場と伊能がやってきたが、結果が動く事はなかった。

**********

「くそっ!」
 的場が自席の椅子に乱暴に座る。無造作な圧力に椅子がギィと嫌な音を立てた。
「先生・・・」
 伊能が、宥めるように声をかけたが、実際、誰に対しての慰めなのか伊能にも解らない。
「一番ヤバイ状態じゃないか・・・!」
 的場が憤りを隠せず、拳で机を殴る。それには自分の力が及ばなかったことへの後悔も大きく含まれていた。
「あのまま拓也と引き離してみろ。もうあの子は救われんぞ」
「解ってます。ですが・・・まだ・・・決まった訳では」
「あぁ、そうだとも。解ってるさ。解ってる」
 とりあえず、治療最優先を理由として、彼らを引き離すことには反対してきた。だが、こればかりは長い時間が必要になる。 回復と同時に引き離せるものかといえば、絶対にそうではない。
「こればっかりは当人同士がどれだけふんばった所で、状況的に難しすぎる」
 半身に出会ってしまったのだろう。しかし、二人が結びつくにはあまりにも障害が多すぎる。
 出会うのが早すぎたとは思いたくない。いつ出会った所で、常識一つとっても味方にはならないのだから。
 それら統べてを受け止め、守ってゆこうとする強い意志と、様々に絡み付くものを思い遣るばかりに、そこに頼ってはならないという自制の想いと。
 様々な要素はあるだろう。細かい事を今更言った所で仕方の無い事だ。だが、それら全ては相手を想う事により動いている。そこに互いの愛情だけでなく親のものまで絡んだ場合、思い遣る気持ちとその想いの狭間で苦しむことになるのは当然の事だ。それが、己の為を想っての事ならば尚更。
「最悪だよ。この場合、誰も間違っていない事が一番の問題なんだ」
 的場は、整った髪を無造作に掻きあげ、大きな溜め息を吐いた。

**********
 
   
「帰ろう…………」
 ぽつんと呟く拓也に、勝也は目を見張った。
「でも……」
 しばらく待っていれば、的場がこっそり会わせてくれるのではないか。勝也はそんな期待を抱いている。
「いいから。ほら、乗れよ」
 まだエンジンをかけたままだった車の運転席に拓也は乗り込み、弟が助手席にくるのを待つ。
 シートを元に戻し、勝也は座ってドアを閉じた。到着した時のような荒々しさはなく、セリカはスムーズに滑り出す。
「ピアスは……なんとか返してもらうから」
 勝也が遠慮がちにそう告げると、拓也は「もう、いいよ」と聞き取り難いほどの微かな声を漏らした。
「でも、タクちゃん……」
「どうしても必要ならまた買えばいい。あんなものに京が縋りついたから……。だから……」
 それ以上は言えずに、拓也は唇を噛みしめた。その唇が震えている。
 代わりの物でいいのだろうか。勝也は小さな不安を覚える。教室でぽつんと一人座り、耳朶を触っていた親友の姿が思い出される。
 代わりの物でいいはずがない。あれでなければ京は、支えをなくすのだ。この兄が、傍にいることがかなわないのなら……。
 帰り道、隣に勝也が座っていることが、少なからず、拓也に冷静さを取り戻させた。
 もしも今一人きりだったのなら、どんなことをしていたのか、自分でも想像出来ない。真っ直ぐに帰ろうと思えるのは、勝也が隣で、ぽつり、ぽつりと話をしてくれるからだ。
 その点においては、拓也は京の父親に感謝していた。狂おしいほどの衝動を、苦労して飲み下す。
 抱きしめた京の身体が冷たく震えていた。せめて無事だけでも知りたい。
 落ち着こうとする気持ちとは裏腹に、呼吸まで苦しくなりそうで、拓也は力をこめてハンドルを握る。
 家に到着すると、家族が待っていた。
「的場から電話があった」
 珍しく帰宅していた洋也が、的場からの電話の内容を伝えてくれた。
 京は、とりあえずは、病状に心配はないこと。念の為、しばらく入院すること。伊能が再び、カウンセラーとして担当することなど。
 的場は敢えて、京の様子の変化については説明を避けていた。会うことが出来ない拓也に、余計な心配はさせたくないという気持ちだったのだろう。
「よろしく……、伝えておいて」
 何とかそれだけを頼み、拓也は自分の部屋に戻った。
「拓也……」
 部屋の外で正也の呼ぶ声がした。だが、拓也は入ってくるなと言った。
「拓也、どうして」
「いいから。大丈夫だから」
 ベッドに座り込み、それだけを言う。
 今、正也に傍にいてもらえば、自分は眠れるだろう。
 だが、自分だけが、安らぎを得られるなんて、そんなことは許せなかった。
 一人で何もかもを背負い、隠し、どこかへ消えようとした京が可哀想でならなかった。
 安らぎなど要らない。だから、だから京に優しい夢を……。
 京に健やかな眠りを……。
 拓也は一人きりの部屋で嗚咽を噛み殺した。自分には泣く資格もないと思ったから…………。

**********

 夜、近衛が帰った後、沙耶は目を見開いたまま空ろな姿を晒す息子に、様々な事を静かに語り掛ける。
 何かをきっかけにこちらに戻ってきて欲しいと願いながら。

 夫との話し合いは、結局平行線に終わった。さすがに、京の容体から今すぐという動きは取れないということにはなったが、近衛の基本的な考えは変えることは叶わなかった。
 だが、沙耶は何としてでも、自分の意志を貫くつもりだった。
 去年の暮れからふた月に満たない間に、色々なことがあり過ぎた。そのどれもが京を苦しめ苛み、同時に、どれだけ息子が今まで危うい精神の均衡を保っていたかという事を思い知らされた。
 確かにきっかけは"誘拐"だっただろう。これは京が三池拓也という人物と出会っていなくても起っていた事件だ。同時に彼が居なければ、最悪その時点で息子を失っていただろう事も。
 京が姿を消す度、必ずや既の所で拓也が見つけてきてくれた。自分達が届かない場所からも。必ず。
 これほど密接なのだ。本当の意味で近い場所に居る。
 ここで無理に引き剥がせば、恐らく想像も出来ないダメージが京を襲うだろう。息子が本当に手の届かない所へ行ってしまう。それは恐ろしいほどの現実感を伴い、沙耶の胸の中を締め付けた。
 どんな形でも良いから子供に幸せであって欲しいと願う、自分の希望とはまったく異なるものとして。
「ね・・・京?」
 今まで口に出来ずにいた、だが、一番聞きたかった問いを言葉に乗せてみる。
「拓也さんの事、そんなに・・・好き?」
 すると、今までまるで反応の無かった瞳に柔らかな色が浮かんだ。それはこの上もなく幸せそうな微笑みにも見えて。
 だが、ゆっくりとした一つの瞬きのあと、淡雪のようにその表情は消え失せ、また光の無いものへと戻っていった。

**********

 掌にぽつんと乗せられた小さな青い石は、あまりにも頼りない物だった。
 これだけのものだったなんて、と泣きたくなる。
 放課後の生徒指導室に勝也は陽に呼び出された。そして、昨日頼んでいた京のピアスを返してもらえたのだ。
「ありがとうございました」
 勝也は礼を言い、深く頭を下げた。そのまま部屋を出ようとした。
「三池」
 背中にかけられる声に、勝也は足を止める。
 振り返らずに、「なんですか?」と聞く。
「昨日のことは……」
「わかっています。ちゃんと……」
 それだけを言い、勝也は部屋を出る。
 パタンとドアが閉じられて、溜め息と共に、歩き始める。
 考えるな。自分に言い聞かせる。
 今、一番大切なことは、これを京に届けること。
 兄は代わりは買えば済むと言ったが、それでは勝也は納得できなかった。これでなければならない。
「取り消させろよ……」
 陽の呟きは病院へと急ぐ勝也の耳には届かなかった……。

 以前と同じ病室で京と向き合い、勝也は茫然と立ち尽くした。
 京はぼんやりと勝也を見て、一瞬その瞳に力をこめたが、勝也の後ろに何かを求めるように視線を移したあと、今勝也を見たことなど忘れたかのように虚ろに空を見つめる。
「京……。これ」
 これさえあれば。勝也は一縷の望みをこめて、京の手を取り、ピアスを乗せてやった。
 京は不思議そうにそれを見つめていたが、「あ……」と小さな声を漏らし、その石を握りしめた。
「京、良かったわね」
 母親の語りかけに、京はうんと頷く。それが回復の兆しのように思えた母親は、ビアスをつけてやろうとした。つけてあげるわと言いながら、握り締めているピアスを取ろうとした。
 だが京は益々それを強く握り締め胸に抱き込むと、怯えたように小さく頭を振った。
「京……」
 怯えるように母親は涙を流す。
「大丈夫、おばさん」
 勝也は細い肩に手を置いて、親友の母親を励ます。
「俺、こんなになった人知ってるから。その人、もっと酷かったけど、今は元気になってる。京も絶対に良くなるから」
 勝也の言葉に、母親はうんうんと何度も頷いた。

**********

 会えなくてもいいから。
 今なら父親は会社に行ったのではないか。
 拓也は自分の卑怯な行動に唇を歪める。
 父親の目を盗み、京に会いに行く。たとえ一目、病室の外から見るだけでもいい。話し声を聞くだけでもいい。それだけでいいと、拓也は車を走らせたのだ。
 一睡も出来なかった。
 鈍痛のような頭痛を感じる。
 だが、それは気にならなかった。京はもっと苦しんだ。
 単なる感傷かもしれない。だが、自分が苦しめば、京の苦しみが軽くなるような気がするのだ。
 この角を曲がれば、遠目に病院が見えてくる。そう思ったとき、携帯が鳴った。ハザードをつけ、車を路肩に寄せる。
 携帯のディスプレイを見て、拓也は眉間に深い縦皺を寄せた。
「かけてくるな」
 宮脇の番号が表示されていたのだ。相手の声さえ聞かずに拓也は電話を切った。深い溜め息をつき、車を発信させる。
 信号を曲がり、広い道路に出て、拓也はアクセルを踏み込んだ。
 見通しのいい道路で、とても空いていた。自分の前には遠くにテールランプが見えるだけで、対向車もなかった。
 病院の看板が近づいてくる。そう思った時だった。
 突然黒い影が車の前に飛び出して来た。
 息を詰めて、ブレーキを踏み込んだ。それでも間に合わないと思った。
 ハンドルを左に切りながら見たのは、両手を広げて、嬉しそうに笑っている宮脇の顔だった。
 急ブレーキの音。揺れる車体と、遠心力で右に感じる重力。
 最後に目に映ったのは、見る見る迫ってくる木の幹と、視界を奪った灰色と、胸を押しつぶすような圧力。周囲を轟かせた破壊音は、拓也の耳には届かなかった。
 
 


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