For You 19
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   兄への電話を切って、勝也はピーピーと高い耳障りな音を出す公衆電話から、カードを抜き取った。
「何かあったのか?」
 勝也のただならぬ表情を見て、勝也の担任である朝比奈陽は心配そうに問いかけてきてくれた。大好きな人。大切な人。だが、まだ勝也の恋は、陽の元へと届かない。
「先生……」
 頼むのなら、陽しかいない。
 陽の顔を見るまでは、自分で取り返しに行くことを考えていたが、陽の顔を見てしまっては、もう一度この人にあの時のような苦しみを負わせたくないと思った。二度と苦しませないと誓ったのは、陽と自分自身へ、だった。だから……。でも……。
「どうした?」
 あくまでも、教師として勝也を心配する表情に、生徒としてつけいる自分を、勝也は忸怩たる思いで、自分の気持ちに蓋をする。
「お願いがあるんです」
「……それは、生徒としてか」
 近づいた様で近づかない、哀しい距離。どうしても飛び越えることを許さない、陽の態度と、その確認。勝也はけれど、今回はその想いを飲み込んだ。
「そうです」
「なんだ?」
 あきらかにほっとする陽に、勝也は哀しい気持ちを覆い隠す。
「松岡先生が、今日、月乃のピアスを取り上げたんです。それを……、それを急いで取り返してきて欲しいんです」
 陽はその願いを聞いて、眉を顰めた。
「三池、知っていると思うが、我が校ではピアスは……」
「もちろん、校則に違反することは知っています」
「なら、生徒会長である君は……」
「お願いします。月乃にとっては、あれは……、とても大切な物なんです」
 勝也の真剣な表情に陽はしばらく黙ったまま考え込んでいた。
「一つ条件を出そう」
「なんですか」
「教師と生徒であることを……、認めろ」
 勝也は陽の言葉に瞬間、息を止めた。
 教師と生徒であることを盾に陽は勝也の気持ちを拒み続けている。それに対し、勝也は、二人の立場は関係ないと言いつづけて来た……。
 それを認めるという事はつまり、勝也にとっては決別の言葉でもあった。
「どうする?」
 陽には、ピアスは買えば済む物という思いもあった。校則違反を生徒会長自ら認めるような態度に出た勝也に対する戒めのつもりでもあった。ただ、それだけのことだった……。
「俺に選べって言うんですね」
「ああ」
「俺の気持ちを試したいんですか? それとも、俺の気持ちを今までそんなものだと思っていた?」
「三池?」
 勝也の澄んだ視線に真っ直ぐに見つめられ、陽はたじろぐ自分を感じる。いつの頃からか、この真っ直ぐな視線が……、怖いと感じるようになっていた。
「ピアスを取り返して下さい。俺にはこの問題は選択肢がないんです。何をしてでも、あのピアスは必要なんです。兄の恋人と、俺の親友の、命がかかっているから」
 勝也は深く礼をして、京の鞄を持ち、校門へと急いだ。京を迎えるはずだった車は、まだ校門の所にいた。家にも京が戻っていないことを確かめ、勝也は京の家まで一緒に乗せて行ってくれと頼んだ。
 後部座席に座り、勝也は振り返った。
 生徒玄関に佇む陽の姿が小さくなっていく。
 勝也は振り切るように前を向いた。

**********
 
 
   大事な物は海にある。
 無くした物は海に行けば見つかる。
 だから、そこに行けばいい。

 なにか、とても大事な物があったような気がする。
 だけど、僕はそれを無くしてしまって・・・
 だからね、探しに行かなくちゃ。
 そうすればきっと見つかるから。

 大丈夫だよね。
 見つかるよね。

    ね・・・見つかるよね?

**********

 彼らは、ほんの暇つぶしのつもりだった。
 午後の半端な時間。人気のない道。速度を落さず走り去る車。時折、長距離のトラックが爆音を立てて我が物顔で通り過ぎるだけの海辺の道路。
 単調なドライブに飽きた男は、遊びに丁度良い獲物をみつけた。
 それは小高い丘の上から海を眺望できる、歩道も無いような白いガードレールの傍、ぼんやりと佇んでいる一人の青年。ちょっと気まぐれにからかうにはいい獲物。
 助手席に座る女が同じ楽しみ方をしたいのだろう。その道路脇の姿を指差し猫なで声でねだる。
 男は女に良い所を見せたかった。
 男の認識の範囲内では、この二月の寒空の中、手ぶらで学制服といういでたちは、この辺に住む者だと想像できたし、ちょっと"遊んで"やった所で、泣いて家に駆け込んでゆく姿が容易に想像できて、それを嘲笑うもの愉快だと思った。
―――ぼんやりしている方が悪い。
 男は、底意地の悪い笑みを浮かべた。
 一旦通り過ぎた道をUターンで戻り、ブレーキの音で空気を裂きながら、その青年の傍に車を横付ける。
「よぉ」
 ウインドウを開け、男は後ろ姿へ呼びかけた。だが、その青年はまるで聞えていないかの様に、振り向きもしない。
 隣に座る女が甲高い声で笑いながら、からかう様に囃子立て、男の矜持を煽る。
 しかし、いくら声をかけても完全に無視をする青年に、男は苛付きを増しながら更に声を荒げてゆく。
 そのうち、その青年は彼らを無視してゆっくりとその場から歩き出した。
「待てよ!」
 怒鳴りながら車を飛び出した男は、青年の腕を鷲掴み、強引に振り向かせる。
 だが、その腕を掴んだ男は一瞬にして硬直し、言葉を失った。
 人形のような端正な顔。死人と間違えそうな稀薄な生気。勢いで男の方に向かせた白い顔は、何も捕らえることの無い瞳を漂わせ、またゆっくりと海へと戻った。
 掴んだ腕の恐ろしいまでの細さと、抜けるような肌の白さが、あまりにも現実離れしている。だがその青年は、生気の薄ささえ異様な艶めかしさに変え身に纏い、現実の物としてそこに立ってた。
 男の背筋に冷たい物が走る。
 "人"でない物に触れた感触とでも言えば良いのか。
「なにしてんのぉ?」
 女の声で男はハッと我に返った。
 慌ててその掴んだ腕を突き放すと、離された方の体がぐらりとよろめく。そのあっけないほどの頼りなさに、男の中にさっきまで確かにあった怒りが再燃した。
 男は、一瞬怯えた自分の憤りの捌け口だと、腹立ち紛れにその体を蹴り飛ばした。
 あっさりとその細い身体は崩れ、ゆるやかに空を掻いた手は何かに縋ることもなくガードレールを越えて、そのまま下へと落ちてゆく。
 あまりの手応えの薄さに、呆然と見送る男の背後から「ヒッ」という悲鳴が聞えた。振り向くといつのまにか車から降りてきた女が真っ青な顔で男の顔と青年が落ちていった場所を交互に見つめている。
「や・・だ・・・・ウソ・・・」
 尻込みする女と二人、恐る恐る青年が落ちた筈の斜面を見下ろしたが、見えるのはゴツゴツとした黒い岩と、冬越し立ち枯れた背の高い草だけ。その下には海が広がり、今も波飛沫がすぐそこまで上がってきている。
 何かが草を薙ぎ倒し落ちていった跡は見えるが、さっきまでここに居た青年の姿は、忽然と消えていた。
「ね、チョ・・ット・・・逃げよう・・?ね。逃げよう?」
 女が泣きながら男の腕を何度も引く。男も無言で何度も頷き、慌てて車に乗り込む。震える腕はハンドル操作を誤り、何度かガードレールと車体に大きな傷を付けた。だが、彼らにそんな事を気止める余裕は無く、吹かし過ぎたエンジンで、アスファルトに幾重も色濃く黒い筋を残し、その愚か者は爆音と共に去ってゆく。

 文字どおり"逃げた"彼らの後には、何事も無かったような海の景色が広がっていた。

**********

「・・・っ・・・」

 不自然な姿勢で自分が倒れている事に気付いた京は、ゆっくりと目を開け上半を起した。
 体の節々が、疼くように痛んだが、朦朧とした頭はあまりそれを気にしない事にしたらしい。
 立ち上がろうと膝をたてた途端、自分を支えていた何かが崩れ、悲鳴を上げる間もなく、京は足場ごと落下していった。
 重苦しい衝撃と共に身体が止まる。京はかなりの痛みにうめいたが、岩肌に沿ったせいか、それとも高さが然程無かったのか、息苦しさと痛みが去れば、たいした怪我が無い事が解る。
 余韻のように、カラカラと小石が落ちてくる音を聞きながら、京は体を起し、あたりを見回す。そこは、岩壁と波打ち際の隙間に出来た小さな砂地だった。
「ここ・・・どこ」
 とりあえず頭に浮かんだものを口に出してみたが、当然ながら答えてくれる人は居ない。
 京は自分の背丈の五倍はあるだろう岩の高さを見上げ、小さくため息を吐いた。
 自分は一体どうしてこんな所にいるのか解らない。保健室に向かったあたりから、酷く記憶があやふやだった。
 とりあえず、この崖を登る方法はない物かと考えてみたが、波に削られ迫り出すような形をした岩肌は、どうみても素人が素手で登ることは難しい。ましてや、いつのまにか靴も片方脱げ、あちこち痛む体を持て余した今の京には、到底崖を登りきることは無理としか判断できなかった。

 やがて、しばし考え込むようにしていた京が、砂浜に沿って歩き出す。
 引き潮に助けられ、普段人など歩かない岩場や砂地を細い影が進む。それはまるで何かを探すようにゆっくり、ゆっくりと。

**********

 街を抜けるまで幾度も赤信号に捕まり、拓也は思わず叫んでいた。
「早く変われっ!」
 青に変わった信号に一瞥し、拓也はアクセルを踏み込む。
 気ばかりが焦る。この道はこんなに遠かっただろうかと。

 眺めの良い海岸線だった。
 拓也が京を連れてきて気に入り、その後、幾度も二人で足を運んだ。
 車を持たない京がここへ来るには、かなり不便な場所で、真っ直ぐに来れたとしても結構な時間がかかる。まさかとは思わないではなかったが、もうここしか拓也には思いつかない。
 時計を見て、思わず唇を噛んだ。既に勝也から連絡をもらってから4時間が経過している。
 拓也は延々と続く道を睨み付けながら、道のりの遠さに焦れていた。いつもは京と二人一緒だったから、この道のりが短いと感じていただけなのだと。
 もう少し・・・もう少しであの岬へと続く道へ出る。
 そこから一緒に歩いた砂浜へ。
「今・・・行くから・・・!」

 気が逸る中、それが視界に入ったのは偶然だった。
 最初はアスファルトに伸びた不自然なブレーキの痕。次に目に入ったのは歪んだガードレール。
 一気に血が下がる。
 なぜなら、そこはその岬へと向かうバスの停留所からすぐ傍。僅かしか離れていない場所。
 どうしても見過ごせず、ハザードを点け、路肩に車を止める。
 そして。
 歪んだガードレールの向こう側には、最も信じたくない痕跡があった。
 明らかに何か。人間大の物がその目の前の斜面を滑り落ちていった跡。
 見覚えのある片方の靴。
「京!」
 拓也は叫びながらガードレールを飛び越え、その下を覗き込んだ。
 岩の塊が崩れて落ちた跡がある。
 あたりが薄闇に包まれてゆく中、拓也は必死で目を凝らし、岩が崩れた以外の『跡』を探し、そして見つける。
 "足跡"
 京はこの近くにいる。
 絶望と希望とが、ない交ぜになった直感だった。
 ここから落ちたのは間違いない。
 だが、波に攫われながらも僅かに足跡を残し、姿が消えているという事は、まだ大丈夫だと、動けない程の怪我はないと、そう辛うじて判断できた。
 拓也はその想い縋るように立ち上がり踵を返す。すぐさま車に乗り込み、足跡が向かった方角へと車を走らせた。
 あたりはもう薄暗く、東の空が夜の気配を連れてきていた。

**********

 どのくらい歩いたか、京にはもう解らなくなっていた。
 凍るような冷たい波に幾度も足を攫われながら、なんとか大きな岩場を迂回すると、不意に京の目の前に、見覚えのある景色が広がった。
――そうだ・・・俺、ここに来たかったんだ。
 急激な安堵に力が抜ける。
 ずるずると膝が砕けるに任せていると、不意に優しく囁く声が耳もとに聞こえた。
『あの海へ二人で行こう……』
「うん・・・来た・・・よ・・・」
 確かめるように京の凍えた指先が耳元に伸びる。
 ガーゼの感触にいかにも不快そうに眉を顰め、無造作にそれを剥がすと直接その部分に触れた。
「な・い・・・」
 京の唇が戦慄く。
「どこ・・・?」
 指先にいつも感じていた石の感触が何処にも無い。
「いや・・・。どこ?あれが無いと・・・」
 立ち上がり探そうとするが、膝に力が入らず波打ち際に挫けた。次第に満ちてきた波が、京の身体を徐々に濡らし、冷え切った身体はどこまでも萎えて、京の体力を奪ってゆく。

――何か、大事な物を探しに来た筈なのに。
――大事な物
――ピアス
――そう。ピアスだ。
――・・・
――でも、ピアスは無い。・・・無い。
――誰か・・・
――誰?
――拓也さん・・・

――さがさなきゃ・・・

 取り乱す気持ちとは裏腹に、京の身体は冷えきり、重く濡れたまま動けなくなっていった。

**********

 拓也は車を止め走った。乾いた砂に足を取られ、思うように前に進めなかったが、そんな事は問題ではなかった。
 あの崖下からここまで歩いてくるならば、あの岬の下だ。拓也はそこへ向けて必死で走る。

 波打ち際。岩にもたれた影を見つけた。
 見間違える筈など無い。
 早く行かなければと、気ばかりが逸る。
 視界に認め、駆け寄る間にも無造作に波が彼の身体を濡らしてゆく。
 早く・・・早く・・・!

「京!」
 
 
 
 


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