For You 17
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朝、目が覚めると、隣に正也の穏やかな寝顔があった。ああ、そうかと、拓也は思い出す。 とても苦しい夢と、幸せな夢。それを繰り返し見て、夜中、何度も目が覚めた。その度、温かい手が伸ばされ、包み込まれた。 ベッドの上に座り、よく寝ている正也を見るともなしに見る。 …………どうして。 不意に胸につかえるものがこみあげてくるのを感じる。 どうして自分は、京の手を離してしまったのだろう。こんな風に、不安も哀しみも、苦しみも、すべてを預けてもらえる存在になれなかったのだろう。 傍にいるだけで安心して眠れる、そんな存在にどうしてなれなかったのだろう。 愛している。 その言葉だけでは足りないくらい、自分の心をすべて賭けてもいいという存在に、京はなってくれたのに。自分は何もあの子にしてやれなかった。 …………後悔。 いや、違う。後悔なら吐くほどした。けれど、それでもまだ気持ちを殺すことは出来ない。 既にこの腕に京を抱くことが出来なくなったとしても、もう一度笑顔を見るまでは、あの子が幸せになったと思えるまでは、今は離れてはいけない。 まだ信じたい。京は真実、自分を愛してくれていたのだと。 過去形でもいい。愛してもらえていたと、そのことだけは疑えない。 ならば、あの子の幸せを見守りたい。 拓也は己を嘲るように唇を歪める。 見守りたいなどと、それは詭弁だ。そんなのは、自分を正当化するための言い訳にすぎない。 まだ諦められないのだ。 京の心の中にいるのは、まだ自分だと思いたいのだ。 そう言って欲しいのだ。 諦めたくない。諦められない。 自分がどれほど醜くなっても、追いかけて行きたい。疎まれ、蔑まれても、傍で守りたい。 結局……、『守りたい』 すべてがその言葉に行きつく。 この腕の中で、穏やかに笑っていて欲しい。安心して眠って欲しい。 …………それだけでいい……。 正也を起こさぬようにベッドを降りて、階下に降りる。 「おはよう」 春の陽だまりのような母親の笑顔にほっとする。自然に微笑みが零れ、おはようと言えた。 「いってきまーす」 玄関で勝也の声が聞こえて、拓也はリビングを出た。 「勝也」 「なに?」 靴を履いていた勝也は座り込んでいた姿勢のまま振り返った。 「何時ごろ終わる? 学校」 「…………電話するよ。もしかしたら、来ないかも知れないじゃん、まだ……」 「…………頼むな。家にいるから」 勝也はそれには返事をせず、玄関を出ていった。 拓也は小さな溜め息を残し、リビングに戻った。 ********** 「はよ」 勝也は早い時間に登校をして、一つ離れた教室を覗いた。まだ空気の冷えたままの教室に座る細いシルエットがあった。ぽんと肩を叩くと、びくんと震えるが、京は勝也に顔を見せようとはしなかった。 「おはよう」 耳を澄ませば聞こえるという程度の小さな声。語尾が震えるのに気がついて、勝也はじっと細いうなじを見下ろした。 「もういいのか?」 僅かに縦に揺れる首に、勝也は黙り込んだ。 自分を見ようともしない。必要以上の言葉は言わないと決めたような頑なな態度。 以前から感情を極端に抑えているような京ではあったが、こんなにも堅い表情ははじめてのことだった。 兄の名前を出そうかどうしようか迷い、勝也は結局それ以上の言葉を飲み込んだ。 砕けそうだと思ったのだ。 目の前の親友は、張り詰めた糸のようで、薄いガラスのようで、触れるだけで砕けそうな、切れそうな危うさで教室の固い椅子に座っている。 ……喧嘩しただけではなかったのだ。 いや、それはわかっていた。兄がこの親友をどれほど大切にしているかは、弟として見ているには滑稽なほどで、喧嘩をして京を怒らせたりしたのなら、どんなことをしてでも謝っただろう。そして、京がそれを受け入れないということはないことも。 昼休みにもう一度勝也は京の教室を覗いたが、親友の態度は少しも変わることはなかった。何が会ったのだろうと心配にはなるが、勝也から聞き出したリはしなかった。 いつか……、自然に、この友人の口から話してくれるのではないか。そんな期待も持っていた。 「一緒に帰ろうぜ」 昼休み、拓也に電話をかけていた勝也は、帰り支度を始める京を捕まえた。そろそろ学校の近くまで来ている拓也とすれ違わないようにするために。 だが、京は弱々しく首を左右に振った。 「なんだよ、俺だと嫌なのか?」 茶化したように誤魔化す勝也に、京は消え入りそうな声で答えた。 「……迎えが……、来てるから」 「え?」 京は慌てたように荷物を鞄に詰め、勝也の脇を摺り抜け、教室を出ていく。 「京!」 勝也は京を追った。 「待てって。なぁ、まだ調子悪いのか?」 心配そうに尋ねる親友に、京は首を振る。 「ごめん」 それだけを言い残し、京はバタバタと走り去った。 勝也はその細い後ろ姿を見送る。やがて、校門前に停まっていた黒塗りのベンツに京の姿は消える。 勝也は歩いてそのあとを追い、校門の所で左右を見回した。 少し離れた場所に銀色の車体を見つけ、近づく。コンコンと窓を叩くと、ウインドーが下げられた。 「京なら、さっきの車だよ」 「……見てた」 拓也は何か悟り切ったような表情で今はもう見えない車の影を見ていた。 「乗って帰るか?」 苦笑いと共に拓也が聞くのに、勝也は首を振った。 拓也はそうかと呟き、ギアを入れる。 セリカは瞬く間に消えた。 「捕まえてよ、京を……」 勝也は二人の奇跡を、見えない軌跡が一つになることを祈って、校内へと引き返した。 ********** |
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京、このメールを君が読んでくれると祈って僕は書くよ。 君のあの言葉を僕は受け入れるつもりはない。 一度会おう。会いたい。 どうしても、君の顔を見て、ちゃんと話がしたい。 君に会うためなら、どんな障害も必ず取り除いてみせるから。 僕を信じてくれないか。 京、君を愛している。 その気持ちは、ずっと変わらない。 君の気持ちも疑うつもりはない。 だから、会おう。 暗い部屋の中、押し殺した鳴咽が微かに響く。 マシンの前に座ったその影は、小さく頼りなく震え、夜が白んでもその場を動こうとはしなかった。 ********** ピアスを指先でなぞり、窓の外を眺める。 短い休み時間にも快活さを見せる学生達の声が、あちこちから賑やかに響いていた。 気付けば外はほのかに春めいて、木々の枝先が淡く赤らんで揺れている。 萌芽だ。 確実に流れてゆく時間を、京はただその目に映していた。 残り僅かな期間だったとしても、往生際悪く学校へ足を向けるのは、おそらく京自身のくだらない感傷なのだろう。 そうでも思わなければ、京は一歩も前に進めなかった。 毎日届く拓也からのMAIL。 逢いたいと綴られる、その真摯な文字達は、京の心を酷く掻き乱した。 泣くまいと決めた心が激しく揺れ、それを押し殺す為に、また己の殻で硬く覆った。 それでも京は、日々送られてくるMAILを開くことを止められなかった。 京、君の夢をよく見る。 ――俺は見ない。 ――貴方の夢を見るのが解っているから。 ――眠らない。 ――追いすがってしまう自分が見えるから。 ある時は泣いていて、君は泣いているのに、僕の手は届かない。 ある時は笑っていて、僕はとても楽しい気分で目が覚める。 そして、どちらも目が覚めてから、自分の力の無さに悔しくなる。 君を攫いに行けたらいいのに。 ――届かないのは ――俺が貴方を酷く踏みにじり ――背を向け逃げるから ――だから拓也さん ――貴方のせいじゃない そんなエゴを感じて、自分がまた情けなくなる。 それでは、君に苦しみを負わせるだけだよね。 なんの解決にもならない。 ――悪いのは ――全部俺だから ――逃げた俺だから ――だから ――だから 愛しているよ、京。 君も、君の周りも全て含めて、その中で君が笑っている場所を作りたい。 その方法を探していくつもりだよ。 君の夢にも僕が行ければいいのに。 行って君の悲しみを全部持って帰れたらいいのに。 少しでも君の慰めになれればいいのに。 愛しているよ、京。 ずっと、ずっと。 ――言わないで ――俺を忘れて ――お願い また、二人であの海へ行こう。 必ず行けると信じているから。 ――お願い 愛しているよ。京。 ********** これからの事を退学にするか、今更何故か母親が強く望む休学にするか。それすらもまだ決められずにいる自分に、京は自嘲の笑みを浮かべる。 体力復帰を理由に通学はしているが、何処の御曹司かと疑わんばかりの送り迎えに、嘲笑う者も多いだろう。 だがそれすら長い期間ではない。 若い時間は昨日の事すら過去にするのは容易く、数ヶ月顔を見ただけの無口な同級生など、そう遠くなく、記憶の隅に追いやられ、将来必要になって始めて名簿から名前を拾い出す程度になるはずだ。 それでいい。そうであって欲しい。京は全ての人の記憶から、自分を消し去ってしまいたかった。 父親にああ返事はしたものの、あくまで京自らに将来を選ばせようとする父親の意向は、決定権をあやふやにし、ただ、望みすら無い京の中身を露見させた。 拓也を選ばないと決めたのは京。 だが、それ以降の事を考えることを頭が拒否する。 一番の望みを選べないのならば二番で良い。そいういう訳にはいかないことを改めて思い知らされた。 1か0か。 ――――欲しい物を望めないのならば、何も要らない。 京はそう遠くなく、日本を離れるだろう。 選択肢を広げられ、一つの道を自分で選んだ。 向こうでの行き先は大学よりも、以前望まれた通り、I社の開発ラボへと決めようと思っている。プログラム開発のみをする隠者のような生活は、まさしく自分に相応しい。戻っては来ない。その覚悟で、これから先全てを決めるのだ。 例えそこならば行き先を探り当てられても、機密部署への連絡は難しく自分へのアクセスは非常に困難になるだろう。 ふと、それを考えて、京は自分の浅ましさを自覚する。 追いかけてきてもらえると思っている。 どこまでも馬鹿な考えを拭い切れずにいる自分に、また一つ絶望した。 「月乃。生活指導室へ来なさい」 ざわめく教室に、突然指導担当教諭の声が響いた。 ********** 「長期の休みを取っていたようだが、体調不良というのは本当だろうな?」 どう受け止めてよいのか解らない問いを、目の前の教諭が口にした。 「まず、その髪。なんとかしなさい。我高校は風紀に対して然程煩い事を言う気はないが、月乃。お前のそれは行き過ぎだ」 京は答えず、目の前に立つ中年の教師を見つめた。 「なんだその目は」 「・・・いえ」 京は僅かに目を伏せた。 ここで、無用な争いをする気は無い。 「その態度には反省の色がないな。帰国子女はこれだから生意気だ。日本教育を馬鹿にしているのだろう?」 「いいえ」 「今更ご丁寧に日本の高校に通わなくても構わない君の事だ。さぞや授業はつまらんだろうな」 「そんなことはありません」 「診断書だって怪しい物だ。こんなものは金さえ払えば幾らでも捏造できる」 嫌味としか取れない言葉を浴びて、京は瞳を閉じた。 なにを言われても構わない。もうすぐ京には関わりのない世界になるのだから。 とうとうと話を続ける指導教諭の言葉を受け流しながら、京は自分の父親もこのくらいあからさまな嫌味を言ってくれれば良かったのにと思う。 物心付いてから、初めて父親に反抗した。 あんなに声を出したのも、自分の意志を言い募ったもの初めてかもしれない。 せめて日本に居たいと。進もうと決めていた道を諦め、父親の仕事を継ぐことも厭わぬから、日本に。この地に居たいと訴えた。 だが、正論を理路整然掲げ、そしてそれを裏切らない父親の人となりを知る限り、京に勝ち目はなかった。 「聞いているのか!」 苛々とした金切り声が上がった。 「大体にして長期欠席の間、非行に走っていたという生徒は少なくないからな」 「・・・そうですか」 「『そうですか』じゃない。私がそのピアスに気付いていないとでも思っているのか!」 鋭い声が室内に響いた。 咄嗟に京の手がピアスに伸び、瞳に怯えた色が走る。 それをどのように解釈したのか、勝ち誇ったような笑みを浮かべ、教師が京へと一歩近づく。 拓也と自分以外、触れたことのないその蒼い石に、他の者の手が伸びてくる。 京はピアスを外そうとする手を躱し・・・ 鼓膜の傍で鈍い音がした。 走る鋭い痛み。 君の夢にも僕が行ければいいのに。 行って君の悲しみを全部持って帰れたらいいのに。 少しでも君の慰めになれればいいのに。 愛しているよ、京。 ずっと、ずっと。 ―――贖罪にまで縋った ―――これは ―――酬いだ また、二人であの海へ行こう。 ―――・・・拓也さん |
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