For You 16
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   何を言われるのかは、わかっているような気がした。
 これはその確認でしかない。
 拓也はそれをわかっていてもなお、一縷の望みを抱こうとする。
 そんな自分の甘さに、吐き気さえした。
「お待たせしました」
 みっともなくも、声が微かに震えた。
『急な電話失礼するよ。手短に話をさせてもらう。今、少しだけいいだろうか』
 平坦な声は、事務的で、拓也を絶望的な気分にさせる。拓也の言葉を聞いてはもらえないような気がして。
「…………はい」
 一言を言うのがやっとだった。
『息子を君から離す事に決めた。本人もそれを承知している。今後は、互いの目が触れない所で、それぞれの道を選んでもらいたい。時間を取らせてすまなかった。では』
「待って下さい!」
 僅かな沈黙のあと、だが電話は唐突に切れた。
「もしもし! もしもし! 月乃さん!」
 拓也は電話口に向かって必死で叫ぶが、ツー、ツーという、単調な音が無常に響いてくるだけだった。
 取り付く島もない電話の内容に、拓也は茫然と自分の部屋で立ち竦む。

 …………零れていく。
 …………足元が崩れていく。
 …………何もかもが終わる……。

 …………本人もそれを承知している。
 その言葉が総てだった。

 もう戻らないのだ。彼は。
 何がいけなかったのだろう。

 思いもかけず飛び込んできた幸せにただ酔っていた。
 幸せに浮かれていた。
 感情を表に出さない子だと思っていた。
 それも拓也にとっては好ましいものだったから、特に気にもしなかった。
 自分に向けてくれる彼の、少し照れたような、少し戸惑ったような微笑みが、嬉しくて、可愛かった。
 それがあるだけで幸せだった。それ以上のものを望みはしなかった。
 彼がもっと、自分に甘えてくれればいいと思ったくらい。ただそれだけを望んだ。
 それがいけなかったのだろうか。

 彼がいなくなって、クリスマスの夜の街を駆けた。
 あのとき、取り戻した彼を抱きしめながら、二度と離さないと決めたのに。
 どうして自分はこんなにも、弱かったのだろう。
 ただ一人の人を守り切れなかった。

 それでも取り戻して、壊れていく彼の心をなんとか護ろうとして。
 やっと、やっと、以前よりはか細い笑みではあるけれど、微笑んでくれるようになったのに。
 これから……、
 今度こそ……、
 手放さない。守りきると決めたのに。

 …………零れていく。
 …………足元が崩れていく。
 …………もう、何も残っていない。

 一人の部屋は広くて、ただ、時間が過ぎていくのを見ていた。

 ノックの音に我に返る。ドアを開けると、勝也が立っていた。
「ここくらいしか思い当たらないよ。それと、学校はまだ休んでた」
 勝也のメモには『AQURI』という、店の名前らしいアルファベットと電話番号が書かれていた。
 部屋に持ち込んだままの電話から、その番号へかけてみる。
『お電話ありがとうございます。あいにく、本日は定休日となっております。明日のお越しをお待ちしております』
 軽快な音楽と、快活な録音メッセージが、今の自分とは違いすぎる。
 その店の名前に引っかかりを覚え、拓也は出かけることにした。
「母さん、出かけてくるから」
「大丈夫なの?」
 昼も部屋に閉じこもり、食事もまともにとっていないことを思い出した。
「大丈夫。すぐに戻ってくるから」
 車に乗り込むと、どうしても京のことを思い浮かべてしまう。
 昨日だったのに。助手席に彼を乗せて。
 二人きりになりたいといったあの言葉の意味を考える。
 けれど、いくら考えても、意味などわかるはずもなかった。
 京の気持ちを少しも思いやる事が出来なかった。その報いを今受けたのだと思う。これは……、罰なのだ。


***********
 
 
  「本当にこの方法が良いか・・・私には疑問・・・です」
 妻は夫の上着を受け取りながら、ぽつりと漏らした。夫はその問いには答えない。
 だが、妻は『母』でもあり、そして夫は『父』だ。それを前面に押し出し『母』は追い縋る。
「どうしても、あの子をここから離すの?」
「それが一番良い」
「でも・・・」
「ならばどうしろと?あのまま京はあの男と?・・・考えたくもない」
「あなた」
「これが最善の方法だ」
 歩み寄りとは程遠い平行線を2人は辿る。『妻』がこれ以上口に出せないのは、常識という枷だ。だが『母』の心は己の子の幸せを求め、その枠組みさえ躊躇わないと叫ぶ。それは本能とも言える直感。重圧にも似た選択に、女は妻か母か。決断を迫られていた。
だが、選ぶにはあまりにも自分には無力過ぎる。夫と父、そして保身と常識が同じ側にあるだけ、もう一方の望みは絶望的なほど分が悪かった。
「悩むな。あちらは京にとって良い場所だ。それはお前も解っているだろう?」
「・・・」
「あの傷から立ち直った所だ。きっと全てが良い方へと向かう」
「・・・本当に・・・?それが良いことなの?」
「そうだ」
「見ているところが違うのね・・・。なら、あの子は・・・何故あんなに苦しまなければならなかったの?私たちでは・・・あの子の心をここまで連れ戻しは出来なかった。少なくとも私には無理だった。あのまま・・・もう・・・遠くに・・・」
 辛うじて繋ぎ止められたか弱い糸を、幾度も突き落とされては必死で手繰り寄せて戻ってきてくれた息子。その支えとなってきたのは紛れも無く三池拓也という存在だ。これだけは間違えることなど出来ない。
「病室での京が小さい時の姿にダブるの。気を使うのよ・・・家族なのに。それが8つの時と重なるんだって気付いた・・・。今思えば、あのバス事故の後、京は何かを隠したまま私たちと接していたのね。それを抱えたまま記憶を封じた。でもそれはとても脆くて」
「・・・時間が解決する」
「そんな単純な話じゃなかったわ。そうじゃない?」
「甘えだ」
「きっと、京もそう思ったんだと思う。でも・・・何故甘えてはいけないの?癒えきれない傷を抱えて一人で生きてゆくのは難しいわ?」
「それを認めた所で、甘える相手があの男である理由は無い」
「違うの・・・彼が・・・という訳ではないの」
「いいかげんにしないか」
「怖いのよ・・・また・・・あの子があんなふうになってしまう事を考えると・・・」
「そんな事にはならない」
「何を根拠に?」
「ならば、お前の根拠はなんだ」
「・・・初めて・・・だから」
「何がだ」
「京が、自分から・・・求めたのは・・・彼だけなの」
 自分から何も求めた事のなかった我子が、初めて欲しがったものを、親として与えてやりたい。母の想いはただそれだけだった。それが、愛し愛された人ならば尚の事受け止めてあげたい。そう願う事は果たして罪だろうか。
 意識の無い息子が呼び、縋り付いたのは父でも母でもなかった。それを淋しいと思わぬ訳はない。だが、こうやって子供は親から与えられる愛情以外の物を、自ら掴み取ってゆくのだと、あの時沙耶は漠然とながら理解した。
「私は...どこか欠けてしまったように生きているあの子が...ちゃんと『人』を好きになれるかとても不安だった。私たちの愛情と、彼があの子に与えてくれる愛情は別の物だわ。私たちのはむしろ『情』に近い。でも彼がくれるのは純粋な『愛情』。私たちは最初から無償の情を『与える』事の出来る『家族』という位置にいる。でも、彼は違う。互いに欲して望んだ状況を得て、そしてゼロから一つづつ作り上げてゆかなくてはいけない『他人』という関係なのよ。でもそうでなければ京に新しい『愛情』を与えてくれる人にはなれない。これは、他人にしか出来ないことじゃないの?だから...、どんな結果が待っていようと、私は彼と京を離すことには・・・反対です」
「おまえ!」
「今・・・それをしたら・・・今度こそあの子は・・・何処にもいなくなってしまう」

 思いつめた『母』の顔をする妻を見て、『夫』は溜め息を吐いた。
 言いたいことが解らない訳ではない。自分とて『彼』が女性であればここまでは反対はしなかったと思う。
 だが『父』として何をするべきか。それを考えれば、この状況を諸手を挙げて歓迎する状態ではないことは確かで、間違った道をゆこうとしている者を、正しい道へと導くのは大人としての役目だ。ましてや、どんなに条件が揃った所で息子は未成年。社会の仕組みから言っても親の庇護の必要な年齢であることには変わりない。

「・・・選んだのは京だ」
「いいえ。選ばせてしまったのよ・・・」

妻の言葉には、強い後悔が含まれていた。

**********
 
   
『AQURI』は、やはりダイバーズショップだった。電話のメッセージ通り、店は固くシャッターが閉じられていた。
 冬の凍てついた街にも、シャッターには南国の海の風景が、華やかに描かれている。
 しばらくそこでも時間を潰してみたが、閉店している店にはなんの動きもあるわけはなく、陽が沈み始めた。
 拓也は諦め切れない気持ちで、京の自宅へ携帯でかけてみた。
 3度のコールのあと、京の母親が電話に出た。
「三池ですが、京君は」
『…………』
 不自然な沈黙の中、拓也が「もしもし?」と尋ねると、密やかな溜め息の後、『京は今おりません』と答えが返ってきた。
「そうですか、失礼しました」
 以前なら京がいないならいないで、伝えておきますとか、いつ頃帰るとか教えて貰えたが、それはやはり無かった。
 きっともう、取り次いでもらえないのだろうと思う。

 仕方なく、拓也は自宅へと引き返す。
「おかえりなさい」
 母親の心配そうな迎えの声に、苦笑で返す。まだ、それくらいの笑みを浮かべる事はできるのだと思うと、無性に自分が惨めだった。
「……母さん、正也は?」
「崇志さんの所だと思うけど」
「…………だね」
 拓也はご飯はいらないからと言い置いて、部屋に戻った。疲れが一気に押し寄せる。もう立っているのも苦痛だった。
 ベッドにうつ伏せてみるが、神経は高ぶっていて眠れそうにない。のろのろと携帯を取り出し、短縮番号を押す。
 数回のコールをイライラしながら聞く。出ろよと怒鳴りそうになったとき、相手が出た。
『はい』
「帰って来れないか?」
『………………わかった』
 短い会話の後、二人とも電話を切る。
 溜め息をつく。
 長く、深い溜め息。
 今は、考えちゃダメだ。それだけを念じる。
 ヘッドボードに置いた薄明るいオブジェを見る。
 それは……、それは……。
 唐突に涙が零れた。

 イヤだ。
 諦めるなんて出来ない。
 なくしたくない。
 何があっても……。

 とれる唯一の方法を思い出し、拓也はパソコンを立ち上げる。
 それが、彼と繋がっているなら。
 拓也は自分のパソコンに残されていた『あの日』の緊急メールを開いた。
 そのアドレスだけは、きっと変わらない。
 これがきっと、二人を繋いでくれる。
 そう信じて拓也は短いメールを書いた。

 送信を終えた時、部屋のドアがノックもなく開いた。
「何かあった?」
 自分と同じ顔が、優しく囁く。
「…………眠れないんだ」
 つい漏らした本音は、自分にだからこそ言えたこと。
 正也は肩を竦め、ベッドに寝転んだ。
 その脇に拓也も寝転び、目を閉じた。
「離れられないよ、拓也も、あの子も。…………信じろよ」

 拓也は目をきつく閉じて、涙を堪えた。

 
 


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