For You 15
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   強すぎた悦楽の余韻を重く引きずりつつ、京はうっすらと目を開けた。
 泣き過ぎた為だろう。酷い頭痛がする。
 外が暗い。時計を見ると夜中の2時を差していた。
 自分を胸に抱く拓也の瞼に唇をそっと触れると、抱きしめる腕に柔らかく力が篭った。
「・・・拓也・・・」
 そっと呼びかけてみたが返事はない。
 深い眠りへと就く愛しい人に、京はまた一つ口接けを落し、微かに離れようと身体を動かす。
 それをどう取ったのか、拓也は京の額へキスを一つ寄越し腕を緩めた。
 切ないほど優しい無意識の動き。
 何を投げ打ってでも自分を守ってくれようとするその場所を、京はこれから酷いやりかたで踏みにじろうとしている。
 往生際の悪さが、幾度も心に誓ったその決心を揺らがせ、このままで居たいと駄々を捏ねる。
 萎えそうになる気持ちを奮い立たせ、京はその暖かい場所から逃げるように離れた。
 激し過ぎた情交の名残に砕けそうになる腰を堪え、手早く服を身に付けてゆく。
 身支度を終えた後、あらかじめドアの鍵を外した。
 京はポケットの中から自分の携帯を取り出し、拓也の服の下へと隠す。
 これで、拓也が京個人に直接連絡をとる手段は無くなる筈だ。

―――ピアスを外して欲しい。

 どうしても言えなかった言葉。
 2人の間を繋ぐ何物にも代えられない絆。これを外せば全てが終わる。終わらせることが出来るのに。
 解っていても自分ではどうしても外す事が出来なかった。
 そして、それを恋人に頼む事も。
 躊躇う指先が既に慣れた硬さを感じた瞬間、涙がこぼれそうになる。
 もう泣かないと決めた。
 自分を抱きしめ眠りに就いた拓也の顔を見てそう誓った。
 泣くなどという、そんな甘えは自分には許されない。
 自分では外せないピアス。
 ならば、贖罪として一生負ってゆくのだ。
 彼を深く傷つけた、愚かな人間の証として。
 一生。

 京は、深く息を吸い込む。

「・・・・・・・・・拓也さん」

 静かに眠る、愛する人に京は声をかけた。
 京を抱き込もうと伸ばされてくる優しい腕から身を躱す。
 温もりを逃した拓也が、怪訝そうに瞳を凝らし上半を起した。

「・・・京?」

 最後だ。

「・・・さようなら」

 拓也がその言葉を理解する前に、京は身を翻した。
 走った廊下の先で都合良くエレベーターが扉を開け、仲の良さそうなカップルが出てくるのとすれ違いに、京はその中へと滑り込む。上でも下でも構わない。ここから離れることが出来るのならば。そしてやはり、ここでもあの偶然が味方をしているのか、京が触れた「1」のボタンに忠実にエレベーターは下がっていった。
 エントランスホールを抜け、外を見ると、車寄せにタクシーが1台、眠そうなドライバーを乗せて止まっていた。コンと窓を叩き、ドアを開けてもらう。素早く乗り込み、自宅ではなくダイバーズショップの住所を告げた。
 急いで欲しいと告げた希望は、ドライバーの運転技術と次々と都合よく青に変る信号で叶えられてゆく。
 自分は卑怯者だ。こんなやりかたしか出来ない。
 京は自嘲の笑みを零す。
 拓也と離れたら、まともに生きてゆける自信など無いのに。
 過去の傷と罪悪に捕らわれ続けていた京の全てを許してくれた拓也。そのかけがえのない大事な人を踏みにじった自分。そんな愚か者のこれからは、廻りの望む形で言われるがまま、人形のように存在するだけ。
 それで良い。自分はあの時死んだ人間なのだと、京は自分を納得する。何かを望んだ時点で全てが間違いなのだと。

『拓也の隣に並ぶのは、この俺だ!』

 そう、言われずとも自分は拓也の隣には立てない。

『僕が、信用できないのか?』

 違う・・・そうではない。 自分にはその自信価値が持てないだけだ。そしてその資格も。
 京は指先でピアスにそっと触れ、重いため息を吐いて目を閉じた。

 ダイバーズショップの裏にある店主の自宅の扉を叩くと、熊のような男が顔を出した。
 見かけよりもずっと優しい海の男は、こんな時間にもかかわらず、何も聞かずに京を家の中へと入れてくれた。

**********
 
   
「・・・さようなら」

 拓也がその言葉を理解する前に、京は身を翻した。

 ホテルの部屋に一人取り残された形になった拓也は、ベッドを飛び降りた。閉じたドアに縋る。だが、何も着ていない自分の姿に気づき、慌てて、外に出られるだけの身支度を整える。服の間から落ちたものに気がつかず、拓也はドアを飛び出した。
 京にはあれほど味方したタイミングは、拓也にはことごとく、その邪魔をした。
 イライラしながらエレベーターが上がってくるのを待つ。
「京……」
 どうして……。答える人は、もちろんいない。
 開かないドアを拳で叩き、早く上がって来いと念じる。
 どうして……。変だと思ったのに。
 拓也は苦い後悔をかみしめる。あんなに……、京は変だったのに。
 何度も拓也を求め、けれど、どこかで拓也を拒絶していた。
 ピアスを……。
 ピアスのことを口にしていた。あれはきっと……。
 自分の考えを拓也は首を振って否定する。
「そんなはずない」
 その時、軽やかな音をたてて、エレベーターのドアが開いた。ようやく辿り着いたその箱に乗り込み、拓也は『1』のボタンを押した。
 抵抗もみせず、箱は滑り落ちていく。
 ……さよなら。京はそう言った。そのまま飛び出していった。
「どういう意味だよ、京」
 行くな! 行かないでくれ! 行かせない!
 どんな言葉も聞いてはくれなかった。
 軽い振動とともに、エレベーターは1階に着く。ドアが開くと同時に飛び出した。走り出たロビーはがらんとしているだけで、人の気配すらない。そのままエントランスまで走り出る。
 車寄せから左右を見渡すが、…………京の姿はどこにもなかった。
 こんな夜に、どこへ……。どうやって……。
 拓也は首を振って、ロビーへと引き返した。
 フロントに佇む若いホテルマンが気づいて、居住まいを正す。
「すみません、さっき、若い男の子が出てきませんでしたか?」
「はい、出ていらっしゃいました」
「……どっちへ行ったか、わかりますか?」
 答えていいものかとうか迷っている素振りで、彼は「お客様は?」と聞いてきた。
「2118号に宿泊している三池です。出ていったのは、弟です」
 ホテルマンはデスク脇にあるコンピューターに、部屋番号を入力して、その名前を確認したようだった。
「出てこられた方は、玄関からタクシーに乗って行かれました」
「……そうですか」
 タクシーに乗ったのなら、この寒い夜空の下を歩いていることはないのだとわかり、ほっとする。
「タクシー会社の名前はわかりますか?」
 彼は少し迷い、けれど客の悲しそうな顔を見て、ある名前を教えてくれた。
「ですが、行き先までは教えてもらえないと思いますよ」
「……いえ、それでも、いいんです。ありがとうございました」
 拓也はフロントを離れ、エレベーターまで引き返した。自分が乗ってきたエレベーターがそのままそこにある。溜め息を残し、拓也はエレベーターに乗る。
 ……どこへ行ったのか。
 ……何故。
 …………何故。
 ………………どうして。
 しゃがみ込みそうになる気持ちを奮い立たせ、自分の部屋に戻る。
 コートのポケットから携帯電話を取り出し、短縮番号を押す。せめて、声だけでも聞きたかった。
 理由は……、いつでも聞けるから。なのに……。
 自分の携帯に合わせて、室内から、聞き覚えのあるメロディーが流れた。
「?……」
 拓也は電話を手にしたまま、その音源へと進む。
 ベッドの下、拓也のセーターの間にそれはあった。
 京の携帯を取ると、それにあわせたようにメロディーは止まった。
 「着信あり」のメッセージが表示される。自分の携帯からは、留守電に切り替わる女性の声が聞こえてくる。
「どういうつもりだよ!」
 拓也は怒鳴った。
「なんだよ。戻って来いよ!」
 その小さな機体を握り締め、拓也は窓辺に走り寄る。重いカーテンを左右に開くと、眼下に宝石を散りばめたような夜景が広がっていた。
 その中にきっと、京を乗せたタクシーが走っている。
 追いかけようか。
 今すぐ追いかければ、京の家に着く頃には追いつけるかも知れない。
 拓也は二つの携帯をポケットに押し込み、車のキーを握り締め、もう一度、部屋を飛び出した。

 ***********
 
   まだ夜が深く、凍てつくような闇の中、拓也は京の自宅前に到着した。
 ゆっくり門の前を通りながら、二階を見上げる。
 京の部屋の灯りはついていなかった。
 もう帰りついたのだろうか。
 かなりのスピードを出したことは事実だか、タクシーを追い越したとは思えない。けれど、そんなに遅れたとも思えない。……帰りついた京が部屋の灯りを消して眠りにつくほどには。
 第一、あの時間にホテルを出て、家に帰るだろうかと思った。月乃家のセキュリティーを考え、拓也は絶望的な気分になる。夜中、門を施錠すれば、暗証番号を押しても、防犯装置は解除されない。
 ……京は帰っていないのだ。
 ならば、どこへ……。
 その行き先を考えて、拓也は唇をかみしめる。
 …………勝也しか思いつかないのだ。
 そして、それだけはないと断言できた。
 こんなにも京のことを知らない。
 それで恋人と言えるのだろうか。
 京がいなくなったその行き場所を、探す事すら出来ない。
 …………何もかもうまくいくと思っていたのに。
 その考えの甘さに嫌気がさす。
 拓也はアクセルを踏み込み、京の自宅をあとにした。
 流れる夜の闇。ネオンが尾を引いて背後の黒へと溶けていく。
「どうして?」
 つい声に出してしまう。
「何故なんだ?」
 それは自分に対する問。
 何故、自分は京の心の変化に気づかなかった?
 嫌われたとは思えない。
 縋りついてくる腕の愛しさと、その想いが嘘だったとは思えない。
 ならば何が。
 哀しそうに見つめる瞳に、どうして思いやる事が出来なかったのか。
 ただ……、自分の愚かしさを呪うだけ……。

 朝早く、勝也が家を出る前に、拓也は自宅に戻った。
 闇雲に走り、疲れ果てて、神経は張り詰めていた。
「京の行きそうなところ、知らないか?」
「え?」
「だから、京が泊まりに行くような友達とか、知り合いとかだよ」
 勝也はちらりと拓也を見たあと、首を横に振った。
「……ここしかないよ」
「おい」
「本当に心当たりない」
「……悪かったな」
 拓也は自分の部屋へ入り、ベッドの上に身を投げ出した。
 ……疲れている。ホテルへ戻り、明け方まであてもなく走り、ホテルでチェックアウトを済ませ、そのまま戻ってきた。
 身体は眠ることを要求していたが、神経が高ぶり、とても眠れるような心境ではなかった。

 電話のコール音をドキドキしながら聞く。
「はい、月乃でございます」
 何度も聞いた京の母親の声に、ほっとするような、だが気持ちは張り裂けそうなほど緊張している。
「三池ですが」
「あら?」
 ……まだ帰ってない。母親の声の調子で、京がまだ自分といると思っているのだと気がついた。
「すみません、京君を自宅まで送る事が出来なかったんです」
「ええ、そうですね……」
 母親のあっさり納得した様子に、拓也は疑問を感じる。……なんとなく、彼女はわかっていたのだろうかと……。
「それで、忘れ物を預かっているので、戻られたら電話をいただけますか?」
「……わかりました」
 固い調子で言われ、拓也はダメだろうと思った。
 きっと……、もうダメなのだ。
 そう思ってしまった。
 だが、それで諦められるのか?と聞かれれば、答えは『NO』だ。
 絶対それだけは出来ない。
 なんとか連絡できる方法を……。
 そう考えているところへ、母親が呼びに来た。
「拓也、電話よ。……京君のお父様から」
 拓也は溢れ出そうになる感情を飲み込み、目を閉じた。
 手を握り締め、ぶつけたくなる怒りとも悲しみとも言えぬ想いをもう一度自分の胸に取り押さえる。
「ありがと」
 母親は何も言わずに、拓也に電話を渡すと、階段を降りて行った。
 保留ボタンを解除して、息を大きく吸い込む。
 いくらしても足りない覚悟をして、拓也は「お待たせしました」と、……言った。

 
 


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