For You 13
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   拓也が帰ってから後、京は急激に体調を崩し再び点滴の世話になっていた。
 的場は回診時、京の下がり過ぎた血圧に驚き、様子を見ようと処置をしたのだ。
 何が原因かなど京自身には解り過ぎるほど解っている。己の精神の脆弱さへの嫌悪感と情けなさに涙が滲んだ。
 そう自分を責めるのがいけないのだと、察しの良い伊能に湾曲に諭されたが、どうしてもあの見知らぬ男の事が頭から離れない。
 拓也を信じていない訳ではない。それどころか、その『信じる』という事だけが自分を支える全てだといっても過言ではないのだ。
 だが、それを根底から揺るがすような男の言葉に、京は恐怖にも似た感情を認めざるをえなかった。
『俺こそあいつにふさわしい。拓也の隣に並ぶのは、この俺だ!』
 悲鳴のような叫びを放った男は、全てを投げ捨ててでも『拓也』欲しいと願う、恋に狂った人間の目をしていた。
 あれは拓也を失ったときの自分の姿だ。京はそう直感する。
 拓也が自分の傍から居なくなる。
 想像しただけで足元の全てが崩れ落ちてゆきそうだった。
 これが現実に起ったら、自分は一体どうなってしまうのか、京には想像すら付かない。
 あの男と拓也の関係は一体なんなのだろうか。
『拓也は俺のものだ』
 京の耳から離れないその声が頭の中に響いている。
「・・・・・っ・・・ぁ」
 込み上げる胸の痛みと絶え間無い嘔吐感に呼吸を浅く繰り返し、必死でその波を逃す。
「・・・拓也さん」
 縋るように求める人の名を、京は幾度も繰り替えし呼びかけた。だが、誰も居ない病室には、それに応えてくれる者は居なかった。

 深夜に近い時間、京の病室に父親が顔を見せた。
 面会時間をとうに過ぎた時間だったが、京は昼間、母親から話を聞いていたのでさほど驚く事でもなく、ただ、なんの話をされるのか想像に容易いだけに、ある意味非常に心構えだけは必要だった。
「仕事の都合が付かなくてこんな時間だ。すまんな。」
「・・・仕事、忙しい?」
「いや・・・いつもとそう変わらない」
 一つの企業の経営者として忙しい身である京の父親は、忙しく日々、仕事に追われている事は避け難い現実だ。
 だが、それを理由にせずともこの時間を選ばなければ、京と二人きりになることも叶わないのも事実で、そして逆に都合の良いこととも言えた。
「・・・退院決まったって?」
 どう見ても調子の悪そうな息子の顔を見て、父親は本当なのだろうかと問いたげな顔をする。
「うん来週、様子見てって」
「・・・そうか」
 妻から聞いた通りの返事を返す息子に、父親は僅かに安堵の色を浮かべた。
「少し、いいか?」
「・・・」
 控えめな父親の許しに、京は黙って肯く。
「京、私が言いたい事は解っているな?」
「・・・はい」
「だが・・・今は・・・"彼"の事はいい」
 父親の意外な言葉に京は少し驚く。
当然その事で話があると思い構えていただけに、出鼻を挫かれたような気分になる。
「一つ、お前に選択肢を増やす提案をしたい」
「・・・?」
「私としては、それを選んでくれることを望んでいる」
「・・・とうさん?」
「日本を離れるんだ」
「え・・・?」
「渡米を考えなさい」
「・・・ぁ・・・」
「言ってる意味は解るな?」
「・・・」
「お前の身体の事があるから今すぐにとは言わない。急な話だが、もともとあちらの方がお前も過ごしやすいだろう?折角ハイスクールディプロマもあるんだ。大学へ行くのも良いし、そうでなくとも必要とされる受け皿はある。なるべく早く準備を・・・」
「まって・・・」
「京。本当ならば・・・猶予は与えたくない」
「でも・・・・・・」
「三池君には私から言う」
「・・・!俺!まだ・・・行くって言ってないっ!」
「京!」
「とうさ・・ん・・・もう少し・・・時間・・・を・・・お願い」
「時間をかけても迷いを増やすだけだ」
「・・・!」
「お前も・・・彼もまだ若い。距離を置けば熱も冷める。分かるだろう?」
「・・・とうさん・・・俺から・・・話す・・・から・・・・・」
「彼とお前を会わせたくない」
「お願い」
「駄目だ」
 京は、あまりの展開に言葉を無くす。
 ここでなぜ『行きたくない』と何故すぐ返せないのか。だが、この周到な父を相手に『嫌だ』と単純に言った所でこの話が無くなるのかといえば答えは否だ。
 父親の懸念は解る。どうして欲しいかも。そして自分がどうするべきかも。
 ここで拓也と別れろと口に出さないのは、彼の最大限の譲歩なのだ。
「・・・少し・・・考えさせて・・・」
「退院までに・・・決めなさい」
「・・・・・・・・・・わ・・か・・った」
 そう答えるのが、今の京には精一杯だった。

**********
 
   
 指定された時間、拓也は大学近くの駅前にある、喫茶店にいた。
 気持ちは自分でも信じられないほど冷めていた。
 こんなに冴え冴えとした気分は久し振りだと感じ……、そしてその原因に思い至って、口の端に苦笑いを浮かべる。
 もともとが、自分は冷たい人間なのだ。
 ……多分、兄弟の中でも一番と言えるほどに。
 正也は誰にも近寄らせない雰囲気を纏っているが、そうしながらも人一倍信じていた。『ただ一人の人』に出会える奇跡を。
 そして自分は信じていなかった。そんな人はいないのだと。
 信じるふりをしながら、正也自身をも否定していた時期がある。
 とことん、心の中が凍りついていると、自分でも思っていた。
 …………それが。
 ただ一人の人の出現であっけなく、その氷は溶けた。
 冷たいどころか、自分の心の中が暖かくなるのを感じた。
 埋め合わせるべき、半分を手に入れたのだ。
 …………だから。
 何があってもなくしたくない。彼を手に入れるためなら、何もかもを投げ出せる。
 兄の執着を、正也の固執を、醜いと思っていた自分を恥じた。
 自分こそが、彼らよりも強い執着と固執を持っていることを知った。
 だが、それでいいと思う。それこそ、自分の中に潜んでいた、真実の姿なのだと思う。
 彼を幸せにするためなら、どんなことでもできる。
 そう……、たとえ、今からここに来る人物を踏みにじり、傷つけることなど、何とも思わないくらいに。

「待たせたな」
 痩せて頬の落ちた男は、それでも拓也を見ると嬉しそうに微笑んだ。
 だが、拓也はその顔を見ると、鳥肌が立つくらいおぞましく感じる。
「考えてくれたか、あのこと」
「あのこと?」
 自分でも驚くくらい冷たい声が出た。こんな声をしていたのだと、自分を再認識する。
「新しい会社のことだよ」
 ふっと鼻で笑ってしまった。
「拓也」
「気安く呼ぶな」
「……」
「その名前は僕にとっては、ただの選別記号に過ぎない。けれど、お前に呼ばれるのは、虫唾が走るほど嫌だ」
 宮脇の顔から完全に笑みが消え、蒼白になっていく。
「あの坊やがお前に泣きついたのか?」
 一瞬心に針が突き刺さるような痛みが走る。やはり、昨日の京の変化は、この男によるものなのだ。『拓也さん……』と名前を呼び、縋りついてきた京……。
「お前は、最低だな。あの子とは、天と地とほども違う。今日を限りに消えろ。二度と僕の前に現われるな」
 拓也がオーダーシートに手を伸ばすと、その手首を宮脇は力一杯に掴んだ。
「そんなこと言っていいのか? あの坊やがどうなっても?」
「するならしてみろよ。そのかわり、自分がどうなってもいいのならな」
 冷たい氷のような視線に晒され、宮脇は唇を震わせる。
「俺は……、お前が手に入らないなら、どうなってもいい……」
 必死なまでの告白を聞いても、拓也の心にはより冷たい針が刺さるだけだった。
「勝手にすればいい。あの子をどうにかしても、僕はお前を見ることは、この先、一生ない」
 拓也の視線の先に自分の姿がないことを知り、宮脇は握り締めていた手を離す。
「どうして俺だと駄目なんだ」
 血を吐くような告白に拓也は一言返したのだった。
「くだらない」
 拓也はその後聞こえてきた搾り出すような嗚咽も耳に入らないような、しっかりした足取りで料金を払い、喫茶店を出る。
 喫茶店の外で待っていた男に拓也は手短に話をする。
「あの男です。この子に会おうとしない限り見張っててくれるだけでいいですから」
 京の写真と、病院や家の住所、学校の名前など、京の立ち寄りそうな場所を書いたメモを渡す。
 男が軽く頷くのを見て、拓也は自分の車に乗り込んだ。後は任せておけば、宮脇が京に近づくことはできなくなるだろう。
 拓也はボリュームを上げたMDを聞きながら、病院へと車を走らせた。


**********

 病室の前で立ち止まり、深呼吸を繰り返す。一度きつく目を閉じ、今までの自分を心の奥にしまいこむ。そして、ドアをノックした。中から小さな応えがある。
 ドアを開けると、いつものように京はベッドに座り、拓也を出迎えた。だが、一昨日までのような、微笑みは、昨日から……見えない。
「気分はどう?」
 自分でも驚くくらい優しい声が自然と出る。
 どんな痛みも、この子にだけは与えたくない。どんな不安も消してやりたい。
 この子を取り巻く、すべてのことから、守り通してやりたい。
 昨日から情緒不安定だった京は、ベッドの上で上体を起こしてはいるが、更に憔悴しているように見えた。
 このままでは、退院も危ぶまれるのではないかと思うほどに。
「かわり……」
 ない、と続くはずの言葉は、涙で途切れた。
「京! ……どうしたの?」
 拓也は慌ててそんな京を抱きしめる。
「京、泣かないで。苦しい事は、全部吐き出して」
「何も……、ない」
 拓也はただ京に話をして欲しかっただけだった。京自身が体験した事を話すのが苦手だということはわかっていた。けれど、二人に関することを隠されるのは、拓也にしてみれば不安の種になる。
 これから先、拓也の事で辛い事を体験したとき、京が話してくれなければ、自分はそれらを取り除いたり、京を守ったりする事ができなくなるのではと、先回りして考えてしまった。
 まして、宮脇のように、自分勝手に拓也と親しいふりをしたり思い込んだりする奴の言うことを信じて欲しくなかった。自分には京だけなのだから。
「何もない事、ないだろ? 京、ちゃんと話して。僕が守るから」
「…………」
 京は黙り、拓也の胸から逃れた。
「京……」
「もう、大丈夫」
「何が? 何が大丈夫なんだ?」
 頑なな京の姿に、拓也は悲しくなる。頼って欲しい。甘えて欲しい。それだけを願っているのに。
 はっとして自分を見る京に、拓也は静かな怒りをぶつけてしまった。
「僕が、信用できないのか?」
 宮脇と対決し、押し込めた冷たい拓也がちらりと覗く。
 京はそんな拓也を見て、唇を震わせた。
「拓也…さ……」
 拓也ははっとして、慌てて視線を逸らした。
「ごめん。ちょっと、今は僕も気持ちが高ぶってる。ごめんね、京」
「拓也さん?」
 京は恐る恐る問い返した。
「もう、大丈夫だから。ちゃんと、してきたから……」
 それだけで通じるだろうかと思ったが、京は震えるまぶたを閉じて頷いた。拓也は再びそっと、京を抱きしめた。
「拓也さん……」
 ほっとするような呼び声は、反対に拓也を抱きしめているようで、拓也は抱きしめた腕に力をこめる。
「京に呼ばれると、それが僕の名前だなぁって、感じる……」
「どういう……こと?」
「京以外の人に呼ばれると、それは正也と区別されるためだけの記号みたいなものだって事。だから、京がいないと、僕の名前がなくなってしまう」
 優しく髪を撫で、拓也は囁く。京にだけ聞こえるように。
 ……それが、より京を苦しめる結果になるのだとは……、気付かずに。


**********

 一人きりになった病室で京は流れる涙を拭えずにいた。
 はじめて自分に対して怒りを滲ませた拓也……。
 守りたいと言われるのは嬉しい。けれど、それは同時に京にとっては、引け目を感じさせるもので。
 拓也の負担になりたくはない……。
 選択は……、一つしかないように、京は思ってしまった。


 真冬にしては驚くほど暖かく、降り注ぐ陽射しの中、京は退院した。
 玄関まで的場や伊能や看護婦達が見送りにきてくれた。
「まだ通院はしなくちゃならないがな。まあ、いい運転手がいるから、せいぜいこき使ってやれ」
 運転手というのは拓也のことを言っているのだろう。京は曖昧な笑顔で誤魔化した。
「私にも会いにきてね。カウンセリング以外でも。夏にはどこか一緒に潜りにいきましょうね」
 伊能はにこやかに握手を求めてきた。それにも京は曖昧な笑顔で答える。
「ありがとうございました」
 小さな声で礼を言い、京はタクシーに乗り込んだ。拓也は迎えに来ると言ってくれたが、それは断った。母も一緒だからと。
 母親が医者や看護婦に礼を言い、続いて乗り込んでくる。タクシーはドアを閉めて静かに走り始める。

「大丈夫でしょうか?」
 伊能は心配そうに呟く。
「何が?」
 的場にもその不安はわかっていたが、あえてそれを打ち消そうとした。日常の生活に埋もれてしまえば、うまくいくのではないかと思いたかったのかもしれない。
「なんだか、今にも焼き切れそうで……。彼は、繊細過ぎます。そして、相手の方は、強すぎます」
「…………」
 的場はそれにはコメントせず、病院の中へと踵を返した。
 何事もなければ、あの二人は理想のパートナーとなれるだろう。だが……。
 的場は胸に湧き起こる小さな不安の種を首を振って打ち消した。
 
**********
 
 
  「本当にいいの・・・?」
 滑るように進むタクシーの中、母親が言った。
「・・・・・・・・いいって?」
 京は流れる外の景色から視線を外さず答える。その声に感情はない。
「・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・決めたから」
「でも・・・一生逢えなくなるかもしれないのよ?」
「・・・・・・何が言いたいの・・・?」
「・・・何・・・って」
 さすがに直接言葉に載せるのは躊躇われたのだろう。母親は口を噤んだ。
「拓也さんとは・・・・・・・」
母親が問いたかったことを京は自ら口にする。
「京?」
「きちんと・・・してくるから」
「京?何を言っているの?」
「・・・1日・・・半日でもいい。俺に時間を下さい」

京は一瞬母親の顔を見たが、詫びるように目を伏せ、そのまま口を閉ざした。
 
     
 


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