For You 11
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   心のうちに抱えたものをほんの僅かでも吐き出した京は、それからは順調に回復を始めた。
 食の細さは相変わらずだったが、それでも食べ物を受け付けられるようになっただけで回復の度合いは違っていく。栄養のための点滴が外れたため、京への負担も軽くなっていく。
 夜眠れないのもまだ続いてはいたが、それでも浅い眠りを繰り返す事で、体力も戻りつつあった。
 拓也は毎日、大学の帰りに病室に寄り、消灯の時間までを二人で過ごした。
 何も話さず、ただ手を繋いでいるだけの事もあるし、拓也の話を京が微笑みながら聞いているということもあった。
 このまま何もかもが、平和になっていく。
 今まで辛かった分、それが許される。
 単純にも、拓也はそれを喜んでいた……。


**********

「何をそんなに急いでいるんだ?」
 教室から出ようとしたところを、宮脇に声をかけられた。
 もうすぐ後期テストが始まろうというときで、誰もがノートの点検や貸し借りに余念のないときでもあった。
「ちょっと用事があるんだよ」
「また病院か?」
 軽くいなして逃げようとした拓也に、宮脇はしつこく食い下がる。
「関係ない」
 いつもなら助けに入ってくれるはずの正也はいない。どうしても撮影を抜けられなかったのだ。
「話があるんだ」
「また今度にしてくれないか」
「前もそう言ったよな」
 軽い押し問答に、拓也は小さな溜め息をつく。
「ノートの事なら他をあたってくれ。僕のは正也に見せなくちゃならない」
「ノートなんか借りないさ。ちょっと来てくれよ」
 あきらめようとしない宮脇に、拓也は内心の苛立ちを隠す事も出来ずに、向き直った。じっと睨むように見つめると、宮脇は視線を泳がせる。
 小心な奴だと思う。言いたいことも言えず、自分のステータスを自慢する事で会話を保とうとする。友人も少なく、何かがあると、必ず拓也に依存しようとする。
「本当に今日は急ぐんだ。話なら明日にしてくれないか。授業の始まる前なら……」
「なあ、拓也、お前、つきあってる彼女とか、いるのか?」
「はあ?!」
 拓也がどうしても帰ろうとすると、宮脇は唐突に話題を切り替えてきた。拓也は思わず大きな声を出してしまう。
「大学にはいないよな」
「関係ない」
「関係なくはないんだ」
 苛立つ拓也をものともせず、宮脇は拓也の肩を掴んでくる。
「離せよ」
 振り解くのは簡単だった。だが、一度はとことん話を詰めないと、何度も繰り返されるのではないだろうかと思ってしまった。
「どうなんだよ」
「恋人ならいるよ。君には関係ないけれど」
「入院でもしているのか? どこか具合でも悪い人なのか?」
 拓也は冴え冴えとした目で宮脇を見た。普通の人間ならこれで、もう何も言えなくなるというくらいの冷たい目。
「関係ない」
 肩を掴まれた手首をとり、ゆっくり下ろす振りをしながら、捩じ上げた。宮脇の顔が痛みに歪む。
「拓也……」
「二度と、僕にかまうな」
 あとは振り返りもせず、拓也は教室を出た。


**********

 イライラする。
 拓也は病室の前で大きく深呼吸をする。
 両頬を、パチパチと叩く。
 こんな顔、京には見せらないと。
「遅かったな、拓也」
「先生」
 ドアに手をかけた所で的場に声をかけられた。
「入らないのか?」
 拓也は苦笑しながら、ドアをノックした。
 中から小さな声が返ってくる。
 的場と二人揃って病室に入る。
 京はベッドの上に座り、カーディガンを羽織っていた。入ってきた二人を見て、小首を傾げ、微笑んだ。
 拓也の気持ちの中に沈んでいた、澱のような苛立ちの種が消えていく……。
 思わず拓也も微笑んでいた。
「気分は?」
 自然と言葉が口に出てくる。
「ん……、大丈夫」
 何があっても大丈夫と答える京だが、その言葉のニュアンスだけで、体調がわかるくらいにはなっていた。
「みたいだね」
「俺はお邪魔かな?」
 にやりと笑う的場に、拓也は苦笑し、京は真っ赤に頬を染めて俯いた。
「先生」
 批難をこめて拓也が的場を睨むと、的場は声をたてて笑い、二人に謝った。
「お詫びにいい報せを持ってきた。……退院だよ。来週あたり、もう退院しても大丈夫だろう。そのかわり、通院とカウンセリングはこれからも通う事。いいかな?」
 こくりと頷く京を見て、拓也も微笑んだ。
 
   
 的場がヒラヒラと手を振りながら病室を出ていく姿を二人で見送った後、京は拓也の顔を見つめた。
「・・・?なに?」
 視線に答える優しい疑問に、京は一瞬何を言いたいのか解らなくなる。
 思わず慌てるように、報告したかったことの一つを口にした。
「ん・・・あぁ・・・あのね、今日・・・抜糸したんだ」
「本当」
 拓也の顔が嬉しそうに微笑む。
 京も、ここまで長かったと苦笑しながら、自分の回復への嬉しそうな空気を隠せない。
 何度も開いてしまった傷は、最悪目立つような跡が残るかもしれないと言われたが、それを京は今、拓也に伝える気は無い。こればかりは今後の治療と本人の体質によるものが大きいから、あまり気にするなともいわれている。
 だから前向きに受け止めたい。
 意識的にでもそうしないと、何かのきっかけでまた癒えきれぬ過去の傷に引きずり込まれてゆきそうな恐怖が、まだ京には残っていたからだ。
 だが、訳も分からず解らず怯えていた今までとは違い、正面から見据える事の出来るようになった時点で、心への負担も変ってくる。

「来週、退院だって」
 フフ・・・と、無理に見えないよう上手く繕われた微笑みを京が浮かべる。
「ずいぶん学校休んじゃった」
「はやく行きたい?」
「んー。まぁ...ね」
「気の無い返事」
 拓也は少しからかう様に京の頬を撫でた。
「そう?いや、それよりもこんなに長い間コンピューターに触ってないのって初めてかもって。そっちのほうが気になる」
「あぁ。そういえばそうだね」
「拓也さん。『D』のプログラム。ありがとう」
「どういたしまして。でも、もうほとんど完成してただろう?」
「・・・ん。だけど」
「僕は最終デバックして届けただけ。エラーもでなかったから楽だったよ。さすが京だね」
「誉め過ぎ。拓也さん」
 少し困ったような拗ねたような顔で京が俯く。
 それを照れているのだと解り、微笑むことを許される穏やかなひととき。
 手に入れたこの時間を大事にしたい。
 だから京は尚の事・・・疑いたくはなかった。
 この時間が無理に作られているものではではないという事を。
 時折見せる拓也の苛ついた空気が、自分を責めている物ではないのかと。病室のドアの前で、しばらく入室を躊躇うのは何故なのかと。・・・疑うことすら恐ろしくて。
 拓也の僅かな隙から覗く、そのまるで払いきれない静電気のような苛つき。それを感じる度、京は自分の存在が彼の負担になっている事への不安が濃くなってゆく。
 問うてみたい気持ちが無い訳ではない。だが、拓也の行動の節々に感じる言い様の無い苛つきを見る度、つい悪い方へと向かう考えに、自信の無さを自覚する。
 京は拓也の言葉と自分の気持ちを『信じる事』で、それを振り切りたくて必死で足掻いていた。

 信じたい。
 拓也の傍に自分が居ることが、彼の幸せなのだと言ってもらえたことを。

 今の京は、その唯一且つ全てであるその想いだけで、己の何もかもを支えていた。

**********

「私は何ができたのかなぁ」
「・・・?」
「フフ。なんでもないわ」
 伊能が少し拗ねたように、でも可愛らしく笑った。
 それを見て京もつられて微笑む。
 その表情を見て、伊能はおどけてヤレヤレと、だが嬉しそうに肩を竦めた。
「好きなもの。手に入れた?」
「・・・佳子さん」
「あら。うれしい。初めてね。私の名前呼んでくれたの」
 素早い返答に真っ赤になって俯く京。
「君はね、これからもっと元気になってゆくのよ」
「・・・」
「どんな事があっても、自分の欲しいものを手放したら駄目。これだけは忘れないで」
 伊能の言葉をそのまま受け取り、京が素直に肯いた。
「京くんはそのくらいでようやく『欲しがり方』が人並みだからね」
 笑いながら伊能が言う。
「だからその人と一緒に乗り越えて。何があっても」
 『その人』という言葉に、京は驚き伊能を見つめる。
 だが、伊能はそれには答えずニッコリ微笑んだ。

**********
 
 
  「待てよ、今日は俺と約束しただろ。話を聞くって」
 拓也は深い溜め息をついて、宮脇を見た。身が竦むほどの冷たい視線にも、宮脇は動じない。
「少しでいいんだ。俺にももう時間がないんだから」
「何かな? とにかく、急いで欲しいんだけど」
 昨日からの撮影が続き、今日も正也はいない。苛立つ心をかろうじて押さえ込む。
「俺さ、学校、やめようと思う。一緒に会社を起こしてくれって頼まれた話があるんだ」
 拓也は笑い出したくなるのを必死で堪え、そう、おめでとうと言った。それで終わりとばかりに、背を向けようとする。
「待てって、拓也。話はこれで終わりじゃないって」
「僕には関係ないだろ?」
 こんなにもはっきり関係ないと繰り返しているのに、どうしてここまで付きまとわれなくてはならないのだろう。拓也は怒鳴りたくなるのをぐっと飲み込む。
「だからだな、その会社に一緒に来ないか?」
「はあ?」
 思わず呆れた声を出してしまった。
「コンピューターのネット関連企業なんだ。拓也もそっちの方なら強いだろ。それで会員制でドメインを渡して、紹介制の……」
「断る」
 すべてを聞かずに、拓也は話を打ち切らせた。
「先見のある企業になるんだぞ?」
 拓也は鼻で笑うと、背中を向けた。
「どうでもいいけど、がんばれば?」
 立ち去ろうとする拓也に、宮脇は肩を掴もうとしてきた。その手を寸でのところで振り払った。
「それ以上触るな。次は蹴るからな」
 シュッと、足を上げ、宮脇のこめかみのところで寸止めする。
 宮脇はひっと悲鳴を上げ、しゃがみ込んだ。その時にはもう、拓也は足を下ろしていた。
「待てよ、拓也!」
「しつこいな。やめるなら勝手にやめれば?」
「一緒に行こう。な?」
「僕には関係ない」
「好きなんだ!」
 宮脇の叫び声に、拓也は驚いて動きを止めた。
「拓也、お前が好きなんだ。な? 一緒に会社興そう。お前につまらない思いはさせないさ。大学卒業したからって、今は就職難だぜ? 俺がちゃんと養ってやるさ」
「馬鹿か? いいか、勝手に学校やめろ。二度とその顔、見せるな」
「拓也!」
 しゃがみこむ宮脇を振り返りもせず、拓也は学校をあとにした。
 一刻も早く今の声を忘れ、あの可愛い笑顔を見たかった。
 迂闊にも、跡をつけられていることに気づかずに、拓也は真っ直ぐ病院を目指したのだった。


**********

「拓也さん、忙しい? 大学だともうすぐテストなのかな?」
 京が不安そうに尋ねてくるのを、拓也は微笑んで否定する。
「忙しくはないよ。テストはもうすぐだけれど、ちゃんと勉強もしてる。京こそ、休んでいたところ、大丈夫? 勝也の奴、ちゃんとノート届けてるかな?」
 優しい気遣いに、京は恥ずかしそうに微笑んで頷く。
「ん……、大丈夫。でも……」
「でも? 何か心配?」
 心配なのは、拓也の身の回りにある違和感を含んだような空気で。
 京が首を左右に振るのに、拓也は微笑んで、その拍子に乱れた髪を直してやる。
 艶やかな髪に口接け、見上げてくる瞳を閉じさせるようにまぶたに、そして唇にキスを落とす。
「……拓也さん」
「早く退院して? 我慢できないかも」
 耳元に吹き込むように囁く。クスリと笑いで誤魔化し、耳朶に光るピアスをこりっと噛む。
「……拓也さん」
 そっと首に回される手に、もう何も心配はないのだと、二人は信じていた。
 …………信じようとしていた……。
 
 
 
 


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