あの三人が本当にただのおじさんなのか、綱木は一切を凛に尋ねることはしなかった。凛から切り出せるはずもなく、そのことはあやふやなまま、凛はモデルを続けていた。
「そんなに心配しなくても、きっといい写真にしてみせるよ」
 凛の表情があまりにも以前とは違うので、綱木はそう言って凛を安心させようとしてくれる。
「でも……」
「確かに、元木勲を納得させるのは難関だけれどね」
「勲おじさんのこと、知っているんですか?」
 凛は驚いて尋ねる。写真集を出していたとしても、本人が出ることはあまりないのが写真家だ。
「そりゃね、僕も一応、カメラを手にしている人間だから」
 あっさり言ってくれるが、勲の目は本当に厳しい。プロのカメラマンでさえ、勲にかかれば、無茶苦茶に言われている。
「大丈夫だよ。元木さんに負けない隠し技が、僕にはあるから」
「なんですか、それ」
 凛が勢い込んで尋ねると、綱木は曖昧に笑って誤魔化した。
 ちょうどその時、グラウンドの方から綱木を呼ぶ声がした。
 申し訳なさそうな顔の、バレー部のユニフォームを来た三年生が、駆けて来るのが見えた。
「綱木、明日のことでちょっと」
 綱木はちょっとと断って、バレー部員に近づいていく。
「ちょっと生徒会に用事が出来たから。部室で待っててくれるかい?」
 二人で何かを話し込んだ後、綱木は凛に断って、校舎の中に消えた。
 帰りは一緒に帰れると思っていた凛だったが、途中で遅くなるから先に帰るようにと、部室にカバンを取りに来て、綱木はそのまま帰ってこなかった。
 凛は久しぶりに一人で帰りながら、綱木のいない寂しさを嫌というほど味わっていた。バレー部に恨みを抱くほどに。
 そんな気分のまま帰宅すると、誠司と玄関で鉢合わせした。
「どこかへ出掛けるの?」
「何かあったのか?」
 凛と誠司の声が重なった。
「酷い顔をしてるぞ。泣いてたのか?」
 誠司は凛の問いなど無視して、愛息子の顔を明るい方向へ、無理矢理向ける。
「泣いたりしないよ!」
 凛は抗うが、誠司はかまわず、凛の顔をあちこちに向けている。
「痛いってばっ!」
「どこがっ、どこが痛い?」
 誠司が掴んでいるところが痛いのだが、誠司はそうは思わなかったらしい。
「おい、勲! 藤吾!」
 誠司が叫ぶと、リビングから二人が顔を出した。
「また今日も三人揃ってるの?」
 うんざり気味に凛が言うが、誠司はそれを遮るように、凛の服を脱がせにかかる。
「なっ、何するんだよ、誠司父さん!」
「今、痛いって、言ったじゃないか。どこか、殴られたりしたんじゃないのか? 酷い顔色で帰ってきたんだ」
 あとの台詞は家の中の二人に向けたものだ。それで勲と藤吾が慌てて飛びだしてくる。
「何もないよ。誤解だよ、誤解」
 必死で制服を脱がされまいと抵抗するが、とうとう上半身を裸にされてしまう。
 白く細い胸が剥き出しになる。まだ筋肉もつかず、子供っぽい身体には、痣の一つもなかった。
「じゃあ、何か言われたのか? 昨日の奴に、何か言われたんだろ?」
「だから、別に何もないって」
「隠すことないだろ」
「隠してないよっ」
 埒のあかぬ会話に、お互い苛立ちが募って行く。
「凛、苛められているのなら、ちゃんと言わなければ駄目だよ。僕たちが、絶対何とかしてあげるから」
 藤吾もどうやら、誠司の言うことを鵜呑みしているらしかった。
「ほんとに何もないって」
「だけど、この頃、塞ぎこみがちだっじゃない」
 どうしても凛に何かあったと思いたいらしい。
「なんでも聞いてあげるから、言ってごらんよ。なんでもしてあげる」
 藤吾の言葉にカチンとする。なんでもしてもらわなくても、ようやく自分でできるようになったねと、誉められたばかりなのに。
「いいよ。僕は一人で大丈夫なんだから」
 脱がされた制服をまた身につける。このまま私服に着替えた方が早かったかなと思いながら。
「じゃあ、この頃元気がなかったのはどうしてだ?」
 誠司がストレートに質問してくる。
「本当に、なんでもないんだって」
 まさか、男の先輩を好きになって、悩んでいましたとは言えない。
「僕たちに隠しごとするのー?」
 藤吾が裏返った声と涙目で、凛にプレッシャーをかける。
「隠しごとなんて、誤解だよ」
 凛はなんでもないと繰り返すが、みんなはなかなか信じてくれなかった。
「もういいじゃねーか。リンが言えないって言うんなら」
 勲がぞんざいに言うと、二人は睨み、凛はうんうんと頷いた。だが、勲の次の台詞で、立場は逆転する。
「やっぱりクラブなんて辞めちまえ」
 凛は呆れて二の句が継げずにいた。そのうちに、二人はそれがいいよと言い出した。
「そうだよ。凛をモデルにするなんて、あつかましいよ」
「やめろ、やめろ」
「ちょっ、ちょっと待ってよ!」
 凛は必死で叫ぶが、それはあっさり無視された。
「でも、辞めちゃったりしたら、また、苛められない?」
「だったら、転校させればいいさ」
「そうだな。僕は最初から私立にすれば良いのにって言ってたじゃないか」
 日頃冷静なはずの誠司までが、転校の話に乗り出して、凛は焦った。このままでは本当に転校させられかねない。
「リン、明日っから、学校に行かなくていーぜっ。久しぶりに、一緒に撮影に出るか?」
 三人が凛を見てニッコリ笑う。まるで、もう決定してしまったかのように。
「………………」
 凛の呟きが三人には聞こえなかったらしい。
「何? なんだって?」
 ありがとうとでも言ってもらえると思ったのか、三人は凛に一歩ずつ歩み寄る。
「勝手だよ、三人とも!」
 だが、凛の叫びは、全然別のものだった。
「僕は、僕は、今の学校が大好きなんだ。どうして、転校なんて言うんだよっ。僕の気持ちを訊きもしないで!」
 目に涙をためて、凛は精一杯の抗議をする。
「だったら、どうしてこの頃沈んでいるのか、言ってくれてもいいじゃないか。僕たちは、凛のためなら、なんだってするのに」
「じゃあ、放っておいてよっ、僕にかまわないでよっ、僕は一人でいいんだよ!」
 ぱしっと、頬が鳴った。凛はぶたれた頬に手を当て、呆然とぶった人を見つめている。
 誠司が再び振り上げた手を、勲が慌てて押さえた。藤吾が凛を庇おうと抱きしめにきた手は、空を掴んだ。
「凛っ!」
 藤吾の悲鳴が、凛の背中に向かって放たれた。だが、凛は駆け出した。頬の痛みより、誠司にぶたれたショックの方が大きかった。
 藤吾が門に走り出た時、家の前の道路に、凛の影はなかった。


 ショックのあまり家を飛び出した凛は、ぴりぴりと傷む頬を押さえ、歯を噛み締めて、ずんずんとひたすら歩いていた。
 このままでは転校させられてしまう。
 勝手だよ、と思う。だが、物心ついてから、ぶたれたのははじめてだった。
 勲などは乱暴に凛を扱ったが、決して叩いたりはしなかった。藤吾も怒るが、顔に似合わず、びしっと怒って、あとを引くことはなかった。
 誠司となると、凛を怒ったことがあっただろうかと思うほど、叱られた経験がなかった。それがいきなり……。
 一発では厭き足らず、まだ手を振り上げていた。
 怒りたいのはこっちだと思う。凛は足の進むまま、黙々と歩いた。
 足は自然と、会いたい人のいる住所を目指していた。
 いきなり訪ねていっても良いものかどうか、冷静に考えている余裕はなかった。とにかく、会いたかった。
 写真部の連絡網で覚えた住所地の近くまで来たが、番地が入り組んでいるのか、綱木の家がわからない。
 ウロウロしていると、見覚えのある人影が、道路の向こう側を歩いていた。
「先輩!」
 凛は縋る思いで叫んでいた。
 綱木は立ち止まり、辺りを見回している。そして、通りの反対側に立つ凛に気がついた。
「凛?」
 綱木の細い目が見開かれる。
「先輩!」
 凛は道路の左右を見渡して、急いで通りを渡った。
「どうしたんだ? こんなところで」
 驚いていた顔が、一瞬で笑顔に変わるが、凛を間近に見て、すぐに表情を曇らせる。
「何かあったのか? 誰に殴られた?」
 凛の赤くなった頬に手を当ててくれる。ひんやりした手が気持ちいい。
「父さんに……」
 凛はそれだけを言うと、綱木に会えた安心感から、ポロリと、一粒涙を零した。
「おいで」
 綱木は凛の肩に手を置き、ゆっくり歩き始めた。
 ほどなく綱木の家に着いた。凛の家と比べると、見劣りはするが、暖かな温もりの感じられる家だった。
 在宅していた母親が、突然の来訪者にも、愛想良く出迎えてくれる。
 二階の綱木の部屋は、彼の人柄が伺えるような、落ちついた空気に満ちていた。
「お父さんと喧嘩したの?」
 凛を机の椅子に座らせると、綱木はベッドに腰掛けて、穏やかに尋ねた。
「だって、写真部を辞めろとか、転校させるとか言うから……」
「転校? お父さんが転勤するの?」
 普通の感覚から言えば、綱木のような結論が出てくるのだと思った。凛は頭をプルプルと振る。
「写真部辞めろって。辞めたりしたら、苛められるかもしれないからって」
「苛め? それはまた、すごい誤解だね。何か誤解されるようなこと言ったかな? 僕の責任なら……」
 凛は首を振り、ぽつりと告げる。
「元気がないからって」
「元気がない、かなー」
 綱木といる時は、それは嬉しくて、元気がないどころか、有り余っているように映っていただろう。
「どうしよう、このままじゃ退部させられちゃう。転校させられちゃう」
「大丈夫だよ。誤解が解ければいいんだろ? 話せばわかってもらえるよ」
「駄目だよ。話しが通じる人達じゃないんだ。きっともう、学校にだって電話してるよ。いつだって、僕の言うことなんか、聞いてくれたことないもん!」
 人達という言葉に引っ掛かりを感じながらも、綱木はそれを両親という言葉に置き換えて、凛を落ち着かせようとした。
「一緒に話してあげるから。時枝はみんなの人気者で、苛めなんか遭っていませんよって」
 綱木の説得にも、凛は首を左右に振る。会わせるわけにはいかない。今度こそ、叔父などではないとばれてしまう。
「話なんか聞いてくれない。だって、ぶったんだよ。あんなの、生まれてはじめてだもん。すっごく怒っているんだ。もう、転校させられちゃう」
 大切に育てられていると思っていたが、想像以上の話に、綱木は弱り果てた。
「大丈夫だよ。学校だって、そんなに簡単に転校届を受け入れたりしないから」
 その場しのぎの慰めには違いなかったが、実際、転校届がそう簡単に受け入れられるとも思わない。煩雑な手続きがあるはずだ。
「でも、父さんたちは、そんなの、簡単にしちゃうんだよ。退部なんてしたくない。先輩と離れたくない!」
 感情が高ぶっているのか、凛はポロポロと涙を零しはじめる。
 綱木は慌ててポケットのハンカチを差し出した。震える肩に手を置くと、凛は更に涙を流す。
「僕だって、凛が転校するなんて考えたくないな」
 綱木のその言葉に、凛は顔を上げる。
「本当?」
「本当だよ」
 綱木は優しく微笑んでいる。
「僕が先輩としてじゃなく、先輩のことを好きでも?」
 ここまでみっともない姿を見せれば、凛はもうなりふりかまってはいられなかった。曖昧なまま転校させられるくらいなら、告白して振られた方が、決心もできるというものだ。
 もし、万が一、綱木が受け入れてくれるのなら、このまま家出をしてでも、学校を変わったりしないと誓って。
「好きだよ」
 綱木の言葉に、凛は聞き間違いかと思ってしまった。とても信じられない言葉だったから。
「僕は凛のこと、ただの後輩だなんて思っていない。いつからと訊かれたら困るけれど、君のことを、好きだと思うようになった。でもこれは、隠し通さなければならない気持ちだと思っていた」
 凛が座っている前に、綱木は膝立ちになり、視線を合わせてくれる。
「どうしてですか?」
「凛が悩んだのと同じように、僕も悩んだんだよ」
 自分がどんな風に悩んでいたかを思い出す。男同士で、受け入れてもらえるわけがないと思っていた。
「凛に気持ち悪い先輩だと思われるくらいなら、優しい先輩でいるつもりだった」
 少しでも、特別な後輩だと思ってくれないかと期待していた。それが、こんなふうに思っていてもらえたなんて。凛は嬉しくて、また泣きだしてしまった。
 どうやら誠司にぶたれて、感情のネジが外れてしまったらしい。
「飛び出してきたんだろ。心配されているんじゃないかな」
「嫌だ。帰りたくない。転校なんてしたくないっ。先輩と離れたくない」
「一緒に頼んであげるよ。時枝が苛められているなんて、誤解だって」
 それでも凛は首を振る。
 しゃくりあげたとき、暖かいものに包まれた。
「泣くなよ。僕まで辛くなるから」
 凛は驚いていた。驚きすぎて、声も出せなかった。自分が綱木の胸に抱きとめられていると知って……。
「今度は僕が殴られてやるから。転校なんて、させないから」
 綱木らしい優しい言葉に、凛は喜びに胸を震わせ、彼の背中に腕を回した。
「先輩が好きだったの。はじめて会った時から。ずっと一緒にいたくて、写真部に入ったんだ。先輩の傍にいたくて」
 凛が告白すると、苦しいほど抱きしめられた。
「僕も、好きだよ。もっと早くに気づいてあげられなくてごめんね」
 綱木の腕の中で凛が首を振る。頬を掠める柔らかい髪に、綱木は酔いそうになる。
「本当?」
 凛が小さな声で訊く。
「本当に、僕のこと、好き?」
 あまりに都合のよい夢のような気がして、凛は信じられないのだ。
「好きだよ。いつも凛の笑顔を見たくて、無理してでも写真部に行ってたくらいに。君の笑顔を独り占めしたくて、モデルにしたくらいにね」
「だって、僕はいつも先輩に迷惑ばかりかけてたのに」
 凛の言葉に、綱木は微笑む。そんなことを気にしていたのかと思って。
「迷惑だなんて、思ったことはないよ。凛の喜ぶ顔が見たかっただけだから」
「でも、僕は一人じゃ何もできないし」
 凛の心の中に根強く潜む劣等感を知って、綱木は抱きしめる力を強めた。
「凛は一人で頑張ったじゃないか。それはもう知ってるだろ?」
「でも……」
「大丈夫。これからも僕が見守ってあげる。自信を持たせてあげる。信じて」
「先輩」
 濡れた目で見上げてくる凛が可愛くて、綱木は顔を近づける。
 指で涙をすくい、そっと唇を重ねた。
 ピクリと震える肩を撫でて宥め、角度を変えて、またキスをする。
 涙の味のするはじめてのキスに、凛は新たに涙を零す。
「好きだよ」
 耳元で囁かれ、凛は綱木にしがみついた。

 優しく抱きしめられて、凛の涙が乾いた頃、綱木は送っていくと言った。
「嫌だ。転校させられちゃう」
「でも、このままでも駄目だよ。それに凛は自分の気持ちをもっとはっきり言えるようにならなきゃね。お父さんに」
 僕も一緒に頼んであげるからと言われ、凛は頷いた。
 決して自分を甘やかさず、けれどいざというときに助けてくれる綱木がいれば、今度こそ、過保護から抜け出せるように思った。
 けれど、送ってくれるという綱木の申し出は、嬉しい反面、とても困ってしまうことにも気がつく。
「僕、一人でも大丈夫だから」
「そんなにいきなり頑張らなくてもいいんだよ?」
 綱木は苦笑して、外出の準備を始めてしまう。机の引出しから、一枚の紙を出して、それを上着のポケットに入れている。
「でも、でもねっ」
「それに僕が、時枝を一人で帰らせるのが心配なんだ」
 そうまで言われて、それを押しのけて帰れば、気まずいことになりかねないと思って、凛は考えこんでしまう。
「殴られるのなら、僕が殴られてあげる」
 それはきっと大丈夫だと思う。思うのだけれど。
「それとも、僕に一緒に来られるのは迷惑?」
 綱木の曇った顔に、凛は慌てて首を振る。どうやら覚悟を決めるしかないようだった。
 今隠しても、本気で綱木とつきあうのなら、隠し通せるものでもない。
「何があっても驚かない?」
 驚かないよと、綱木は更に笑みを深くする。
「口が悪くても?」
「殴られる覚悟だからね」
「泣いても? 騒いでも? オネエ言葉でも? 黙りこみ決められても?」
 凛は思いつく限りの事態を頭に描いてみた。でも、それくらいで済むなら、まだましな方……。
「凛、まるでおじさんたち全員がお父さんみたいな言い方だね……」
 綱木はあまりに心配性な凛が可笑しくて、冗談のように受けとめてしまったらしい。
 凛は引きつり笑いをして、その指摘を否定はしなかった。



前のページ  次のページ