「凛の様子、おかしいと思わない?」
 藤吾の指摘に、勲と誠司は顔を見合わせた。三人がこうして揃うのは珍しいことなのだが、そんな時の話題は、必ず凛のことだったりする。
「どんな風に?」
「気づいてないの? この頃、ぼんやりしているじゃない」
 そんなのはいつものことだと言いかけて、誠司は口を開けたまま、逡巡する。
「そう言えば、食事の量が減ったかな」
「そういうことはもっと早く言えよ。もしかしたら病気かも知れねーだろ」
「いや、病気なら見逃すはずないし」
 勲と誠司の会話にしたり顔で頷いて、藤吾はおもむろに口を開いた。
「僕はね、学校で何かあったんだと思うわけ」
「はあ?」
 一番家にいる時間の少ない奴が何を言うんだとばかりに、勲は藤吾を睨んだ。
「だって、おかしいじゃないか。どうしても写真部に入るって言ってたわりに、勲には何も教えてもらおうとはしていないんでしょう? カメラだって、自分の小遣いで買ったりして。家にいくらでも立派なカメラがあるのに」
 まるで自分がちゃんと教えていないのが悪いと言われているように感じて、勲は気色ばんだ。
「高校生のクラブに使うには、立派過ぎるって言ったのは、リンなんだぜ。それに俺が教えてやろうとすると、家でまで写真のことはしたくないって言ったのも、あいつだ」
「だから、それがおかしいって。ねえ、誠司さん」
 話を振られて、誠司は腕組をして考えこんだ。
「確かに、ちょっと妙だな。本当にカメラに興味があるのなら、勲に訊かないわけがない。腕だけは一流なんだから」
「腕だけとはどういうこった」
「でしょう。これが僕なら絶対自慢すると思うんだ。僕の家には、プロのカメラマンがいますって。なのにカメラを自分で買うことからして、凛はひたすら隠そうとしているみたいだろ」
「何か、クラブであったのかなあ」
 勲の憤りを無視して、誠司と藤吾が話を進める。
「もしかして、好きな子が出来たんじゃない?」
「まさか……」
 うーんと、二人は黙り込む。
「本人に訊きゃあいいだろうが」
 勲がこともなく言うと、二人は同時に叫んだ。
「それは駄目だ!」
 一瞬たじろいで、勲はバリバリと頭を掻いた。
「どうして」
「だから勲はデリカシーに欠けるって言うんだ。これは微妙な問題なんだよ」
「下手に凛が隠したりしたら、話が拗れてしまうじゃないか」
 二人に責められて、勲はだったらどうすればいいんだよと、開き直った。
「話し易い雰囲気を作るしかないんじゃない?」
「そうだな。凛が進んで話してくれなければ、こちらは動きようがないな」
 どうすれば話し易くなるんだと勲は言おうとしたが、またデリカシーがないと言われそうな気がして、口を噤んだ。
 口は災いの元だ。三人で暮らすようになったのも、もとはと言えば、勲が余計な口を滑らせてしまったからだ。
 三人で暮らすことに後悔はしていないが、窮屈に感じないこともない。それを自分が我慢できているのは、凛がいるからだ。
「リンのためなら、どんな我慢もしてやるさ」
 その言葉に嘘はなかったが、我慢にも、できることとできないことがあると知るのは、そう遠くない未来であると、勲は幸か不幸か気づかなかった。
 そんな三人の思惑も知らず、凛が帰宅した。

「あれ? みんないる」
 ただいまを言ったあと、凛はカバンをソファに投げ出した。
「せっかくだから、どこかに食べに行くか?」
 誠司の提案に、凛はうーんと唸って、首を横に振った。
「やめようよ。家で食べる方がいい」
「どっか、悪いのか、お前」
 勲の言葉に、凛に気づかれぬように、藤吾がうしろから勲のふくらはぎを蹴った。
 何をしやがると言いかけて、勲は失言に気づいたのか、口に出かけた抗議を引っ込めた。
「じゃあ何が食べたい?」
「なんでもいいよ。あんまり食べたくないし」
 勲がかけ寄ろうとするのを、藤吾は勲の前に出て、それを阻止した。そして自分が凛の顔を覗きこむ。
「食欲がないの?」
 ブラウン管で度々見かける顔が、目の前にアップで現われる。
「そういうわけじゃないけど、外にまで出たくない感じ」
「じゃあ、何か用意しないとな」
 勲がキッチンへ向かうのに、うまく逃げられたと、誠司と藤吾は呆然と見送る。
「駄目だよ、ちゃんと食べないと」
「食べるよ。お腹は空いてるもん」
 とりあえずほっとして、藤吾は凛をソファに座らせる。
「最近、学校はどう?」
 訊かれて、凛はきょとんとする。
「藤吾君、どうしたの?」
「え? どうしたの? って」
「藤吾君が、学校のこと訊くなんて、変だ」
 上目使いに見られて、藤吾はしどろもどろになる。
「学校のこと訊くのは、いつも誠司父さんだったのに。藤吾君は、友達のことしか聞かないのにさ」
 誠司が苦々しい顔をして、藤吾はあっと口を開けた。
「あははは、友達できた?」
 誠司は溜め息をついて天井を睨み、勲は包丁をまな板に叩きつける。
「変だ、藤吾君。誠司父さんも、勲パパも」
 凛はきょろきょろと三人を見回す。
「いや、つまりだな、凛。最近元気ないだろ。何かあったのかなと思って、心配しているんだよ」
 誠司が穏やかな声で言う。
「な、何もないよ。元気だって、あるでしょ? もう、心配性なんだから、三人とも」
 凛は笑って言うと、カバンを持って自分の部屋へ引き上げていく。宿題、宿題と言いながら。
「やっぱり、怪しいよね?」
「でもさ、普通好きな子が出来たからって、隠すか?」
「気をつけて見てみるよ。僕が一番家にいるんだし」
 誠司が言うのに、二人は頼むなと言って、左右から肩を叩いた。

「妙なところで鋭いんだから」
 凛は部屋に戻って、ベッドに突っ伏した。宿題なんて、やる気が起きない。
 別に普段通りに生活しているつもりだったが、綱木とのことで悩んでいるのが、知らず知らずのうちに、外に出ていたらしい。
「だいたい、子供が僕一人で、父親が三人っていうのが、そもそも大変なんだよ。一人だけなら誤魔化しようもあるのにな。個性がバラバラで、通り一遍の方法なんて、通じやしない。理代子さんも、どうしてあの三人を好きになったのか、不思議」
 凛は呟きながら、うとうとしはじめた。この頃、考え過ぎで、夜もぐっすり眠れていなかった。
「先輩、僕のこと、少しは特別ですか?」
 あとはすーすーと、静かな寝息が聞こえる。凛は夢の中で、綱木のモデルになっていた。





 高嶺高校のボランティア活動が終わると、あとは夏休みまで特に仕事はないらしく、綱木はまた写真部に顔を出すようになっていた。そして凛を相手に、いろんな場所で写真を撮っている。
「凛を撮っていると、自分の腕があがったような気になるなぁ」
 綱木がふと、そんな感想をもらした。二人でいることが多くなり、綱木は凛を名前で呼ぶようになっていた。
「上手じゃないですか、先輩。僕、先輩の写真大好きです。人間が大好きっていう気持ちが伝わってきて」
 綱木は穏やかに微笑んでいる。
「ありがとう。でも本当に撮りたいのは、実は建物なんだけれどね」
「そうなんですか?」
 驚いて訊く凛に、綱木は将来、設計士になりたいのだと言った。
「先輩の建てる家かぁ、素敵なんだろうなぁ」
「凛、僕が建てるんじゃなくて、設計するだけなんだけれどね」
 指摘されて凛は赤くなる。
「そうですよね。でも、先輩の設計した家、僕、住んでみたいな」
「じゃあ、凛の家は、きっと僕が設計するよ。二人で色々話し合って決めるんだ。間取りとか、採光とか、壁の色とか」
 綱木の提案に、凛は瞳を輝かせる。途端にフラッシュが光る。その強い光にも凛は動じなかった。
「撮られ慣れてるだろう?」
 綱木の問いに、凛は首を傾げ、問いの意味がわかると、しゅんとして俯いた。
「ごめんなさい。父親がカメラが好きで。しょっ中撮られているから。モデルとしては、使いにくいですか?」
「違うよ、そうじゃなくて。だから、僕の腕が上がったような気分になるんだろうなと思って。凛は本当にカメラを意識しないでいてくれるから、自然な写真が撮れて助かるんだよ」
 綱木の説明にほっとして、凛は微笑んだ。そしてまたフラッシュが光る。
「いつも僕ばかり撮って悪いね。凛も好きな被写体を見つけたら、遠慮なくカメラマンに変わってくれよ」
「いいですよぉ。僕なんてまだまだだし」
「そうかな。僕は凛の撮る写真、好きだよ。特に風景写真は、視線の鋭さを感じる」
 誉められて、凛は顔が熱くなるのがわかった。風景の見方は、勲の撮影について回っているうちに、自然と身についていたものらしい。つまり、自分の感性だとは言いがたかった。
「そんな、下手だし」
「上手下手は関係ないよ。光るものがあれば、写真を撮る意味があるんじゃないかなぁ」
 綱木の言葉に、凛は勲の台詞を思い出した。
『写真なんて、上手に撮ろうと思って、撮れるもんじゃねーよっ。小細工しないで、自分の好きなもの撮ってりゃ、そのうちプロにならーな。俺はリンの写真好きだぜ。気持ちが伝わってくる。それがなけりゃ、いくら技術ばかり磨いても、ただのポスターだわ』
 言葉使いは違うけれども、言わんとしていることは同じだった。
「少しは、見られるものになりました?」
 凛の質問に、綱木は明るく笑う。
「やればできるって、わかっただろ?」
 凛は目を見張って、そして頷いた。
 綱木は、いつでも凛を見守ってくれている。そしてわかってくれる。凛を甘やかすでもなく、ただ、見守ってくれる。そして認めてくれる。
 それがとても嬉しかった。
 そして、自分の気持ちを隠せなくなる。
 綱木が好き。
 受け入れてもらえない気持ちだとわかっているけれど。片思いだとわかっているけれど。凛はこの気持ちだけは大切にしようと思う。
 もはや、綱木がいなければ、凛は寂しくてならなかった。学校のない日は会えなくて、イライラしてしまう。
「先輩って、やっぱりすごいや」
「すごいのは、凛だと思うよ」
「僕のどこが?」
 凛は本当に驚いて尋ねた。自分に、綱木にすごいと思われるようなところがあっただろうかと考えて。
「周りを自分のペースに巻き込むところ」
 言われた意味が一瞬わからず、わかった途端、凛は頬を膨らませた。
「先輩! それ誉めてません!」
 凛が右手を上げて打つ真似をすると、綱木は笑って逃げ出す。
 こんな時がずっと続けばいいのに。凛はそう思う。
「凛はそのままでいいんだよ」
 綱木の優しい笑顔に、凛は怒っていたことを忘れてしまう。
「遅くなっちゃったね、送っていくよ」
 綱木に言われ、凛は慌てて時計を見た。今から帰れば、いつもより一時間ほど遅い帰宅になってしまう。
「いいです。僕、一人で帰れますから」
「どうせ一駅しかかわらないし。時枝の家の近くからバスに乗るよ」
 凛は送ってもらうという誘惑に勝てず、近くまでなら父親達と顔を合わせることもないだろうと思い、綱木の申し出を受けることにした。
 そのために家に遅れる電話を入れることが出来なくなった。今なら誠司一人に怒られるだけで済むかなと、凛はたかを括った。
 だが……。自宅の前の路上に三つの影を見つけて、凛はギョッとする。
「あの、先輩、ここでいいです」
 凛は慌てて振り返り、綱木に挨拶をする。
「え? でも、ここからだとバス停は向こう……」
「凛!」
 綱木の声に、勲の怒鳴り声が被さる。
 凛は首を竦める。どうしてこうも三人が揃っているのだろうと恨めしく思いながら。
「どうしてこんなに遅くなったの?」
 藤吾も駆け寄ってくる。誠司は後ろでじっと立ち竦む高校生二人を見ている。
「すみませんでした」
 突然綱木が三人に向かって頭を下げた。それを凛をはじめ、三人までもが呆然と見ている。
「僕が無理に凛君にモデルを頼んで、つい撮影が長引いてしまったんです。熱が入って連絡を入れるのを忘れてしまいました。申し訳ありませんでした」
 潔く謝られて、父親たちは呆気にとられている。
「先輩は悪くないよ。気がついたら遅くなってて。その時連絡入れなかったのは僕が悪いんだ。わざわざ送ってくれたんだし。ね? おじさんたち、怒らないよね? ママがまた電話した? おじさんたちに僕を探してくれって」
 凛におじさんと呼ばれ、三人は息を飲む。これまで、父親が三人いることを嫌がるようなことは言っても、実際に《他人》の振りをすることはなかった子だ。
「以後充分気をつけます」
 綱木に再度頭を下げられるが、三人は既に怒る気勢を削がれていた。
「もういいから、帰りなさい。送ってくれてくれてありがとう」
「誠司さん!」
 あっさり綱木を帰す誠司を藤吾が非難するが、誠司の心の中はそれどころではなくなっている。
「先輩、ありがとうございました」
 綱木はもう一度三人に挨拶をして、道を戻り始めた。
「待てよ」
 その綱木を勲が止めた。
「勲パ……、おじさん」
 凛が驚いて勲を止めようとするが、勲はじっと綱木を睨んでいた。
「凛をモデルにしているとか言ったな」
「はい」
 綱木は静かに勲の視線を受けとめた。
「出来たら見せてみろ。半端な写真じゃ承知しねーからな」
 暫しの無言が支配する。
「わかりました。次にお会いする時には必ず」
 綱木は凛を見て微笑むと、今度こそ帰っていく。
 その姿が見えなくなって、凛は三人に謝った。
「お父さんって言えなくて、ごめんなさい」
 三人は溜め息でそれを処理した。



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