凛は写真部員として、楽しいスタートを切った。ちょうど生徒会が暇な時期だったらしく、綱木も他の部員と変わりなく出席しているのも嬉しかった。 保護欲をそそる凛は、写真部でも可愛がられた。そして凛も、それを甘んじて受け入れる傾向にあった。凛はそんな中で育っていたので、特に甘やかされているという感覚がなかったのだ。 「駄目だよ、時枝。自分でやらなければ、いつまでたっても上手くなれない」 現像を代わりにやってやろうとする高田を制止し、綱木は凛を諌めた。 「でも……、僕がやると、真っ黒になるから」 凛は上目使いに綱木を見た。 「誰だって、最初は液の配合を間違えたり、時間の調整に戸惑ったりするんだ。最初から上手な人なんていない。何度も練習して、コツを掴むんだ。頑張ってみようよ」 最後は言い含めるように言って、綱木は下を向いた凛の頭をくしゃっと撫でた。 「つきあうよ」 綱木の付き合うというのは、まさに傍にいるだけで、決して手を貸してくれないことを、凛は既に知っていた。 「頑張ります」 凛は情けなさに自己嫌悪に陥り、顔を上げられなかった。 「綱木、そこまで厳しくしなくて……」 言いかけた高田が急に口を噤む。不審に思って凛が顔を上げると、高田は不自然な笑みをつくって、綱木から凛に視線を移した。 「手伝って貰えよ」 愛想笑いを残して、高田は暗室を出ていく。 二人きりで暗室にとりのこされると、凛は途端にドキドキしはじめる。 幸いなことに、綱木が室内の照明を消してくれたので、赤くなった顔を見られずに済んだ。 綱木の説明は丁寧で、とてもわかりやすかった。最初に高田に教えてもらった時は、高田の作業を見ながらだったこともあって、いざ自分がする時になると、ちんぷんかんぷんになってしまっていた。 だが、今回は凛が器具を使い。迷うと、綱木がアドバイスをしてくれた。適切なアドバイスだが、綱木は自分が手を貸すことは一切しなかった。 凛は手際が悪く、何度か失敗もしたが、綱木は怒ったり急がせたりすることはなく、根気よく何度でも同じことを説明してくれた。 人の倍の時間をかけて、凛はようやく、昨日映した校舎の写真をプリントした。 「やれば出来るだろ? 慣れるまでは大変だけれど、すぐに簡単に出来るようになるよ」 暗室の電気をつけた綱木が、凛に満面の笑みで言う。 目がなくなるほどの笑顔に、凛も笑いながら、内心の動揺を押さえるのに苦労した。 見慣れた笑顔のはずだ。歴代一の穏健派と言われる生徒会長の笑顔は、凛でなくても、みんなが知っている。 けれど、その綱木の笑顔に、ドキドキする。 実は昨日、家で勲に現像を教えてもらったが、勲は凛の愚図さにきれて、全部家に持って帰れと言って、結局教えてはくれなかった。 凛を甘やかす勲でさえ途中で嫌になったのに、綱木は投げ出さなかった。そればかりか、一緒になってこんなに喜んでくれる。 ドキドキと高鳴る心臓に、静まれよと命令するが、全然効き目はなかった。 「今度は僕のも頼むね。人の分をすると、より慎重になって、上手になれるから」 「でも、先輩の写真を駄目にしちゃったら」 凛は慌てて首を振る。自分の写真を、いくら駄目にしたのか考えると、とても人のネガを預かるなんてできない。 「いいよ。僕は部に貢献できるほど活動に参加できないから、後輩のためになるなら、何度でも撮りなおすよ」 簡単に言ってくれるが、凛は綱木がどれだけ素晴らしい写真を撮るのか、もう知っている。 綱木は友達が、学校が好きなのだろう。校内の人物をよく撮っていた。綱木自身もよく笑う人だが、彼が撮る写真の人達も、ステキな笑顔をしていた。 キラキラと光る笑顔を撮るのが好きらしい。生徒会長などをしているのも、結局は、そんな表情を見たいためなのだろう。 いつか自分も撮って欲しい。 そう思って凛は、不安になる。自分は、綱木に撮ってもらえるほど、いい笑顔をしているだろうか。 いつも父親たちのご機嫌をとったり、クラスメイトの輪の中にいて、お愛想で笑っているような気までしてくる自分の笑顔に、自信がなくなる。 「どうしたの?」 「なんでもないです。もっと上手くなってからにします。先輩のを現像させてもらうのは」 凛の言葉に、綱木は約束だよと言って、また目を線にして笑った。 綱木をどんどん好きになる。 その気持ちを抑えられなくなっている。凛はそんな自分を持て余している。 綱木を好きだという気持ちは、最初の頃は単純に、優しい先輩に対するものだった。 それがいつの間に恋愛に近いものに変わってしまったのか、凛にもわからない。恋愛という感情自体、まだよくわかっていないが、かつて異性に抱いていたほのかな感情に近いのだ。 それでも最初の頃は、先輩に対する憧れだと思おうとした。面倒見の優しい先輩に、会いたい気持ちが募るのだと思っていた。 その気持ちはだんだん父親たちに対するものに近くなり、それで親愛の情を感じたけれど、今日、父親たちへの感情とは全然別だと、思いしらされた。 父親たちのように、凛を甘やかすだけではない。きちんと凛が一人で為すべきことをするのを、見届けてくれる人だとわかった。 そして一緒に喜んでくれる人だとも。 あの笑顔は、今までとは違った。綱木自身は変わっていないのだろうが、それを見ている凛の気持ちの中に、明らかな変化が現われた。 いつもの笑顔なのに、胸が痛くなった。そしてドキドキとして、何も考えられなくなった。 もっと綱木と一緒にいたいと、心から願うほどに。 綱木も同じ気持ちでいてくれたらいいのにと思い、そして現実に気づいた。 綱木は自分のことをどう思っているのだろう。きっと手のかかる後輩でしかないだろう。出会いからして、そうだったのだから。 なにより、綱木も自分も男だ。男同士で、綱木にとってはただの後輩で、凛は自分の気持ちの行き場がないことに気づいて、ショックを受ける。 けれど、この気持ちは誰にも、綱木自身にも受け入れてはもらえない。 凛はその事実を認めたくなくて、大きな溜め息をついた。 「時枝、一緒に帰ろう」 学校からの帰り、凛は綱木に呼び止められた。凛に異存のあるはずはなく、二人並んで歩く。 綱木の隣にいるだけで、凛は心が弾んで、自然と笑みが零れる。綱木もいつものように、目を細くして笑っている。それが凛には嬉しくて仕方がない。 「今度、時枝を撮らせてくれないかな」 綱木の申し出に、凛はとても驚いた。 「僕ですか?」 「そう、君を撮りたいなって、思って」 凛は一瞬、答えるのを躊躇った。つい先程、自分の笑顔は、綱木に撮ってもらえるのに相応しいのかと考えていたところだからだ。 「嫌だったら断っていいんだよ」 凛の躊躇いを、拒否だと思ったのか、綱木はさりげなく気遣ってくれる。 「嫌じゃないんです。僕なんかで、いいんですか?」 凛の問いに、綱木は微笑む。 「時枝を、撮りたいんだよ」 「先輩ならわざわざ断らなくても、いつでも撮ってくれてかまわないです」 凛は顔が熱くなるのを感じて俯いた。赤くなった顔を見られたくなくて。 「いつでも撮れる写真じゃなくてね、じっくり一人を撮ってみたくなったんだ。時枝に創作意欲をかきたてられたみたいだ」 それにね、と綱木は続けながら、言葉を途切れさせる。言葉の消えたことに不安を覚えて、凛は顔を上げる。そこには綱木のいつにない優しく甘い笑顔があった。 綱木の笑顔を、凛はぼんやりと見惚れる。クスクスと笑う声に、凛は我に返る。 「きっと、いい写真が撮れると思うよ」 綱木の根拠のない謎の言葉に、凛は首を傾げる。 「まかせて」 綱木は笑顔を消してまっすぐに凛を見た。はじめての綱木の真剣な表情に、凛は圧倒されながらも、頷いた。 「よろしくお願いします」 「それは撮らせてもらう僕の方が言う言葉だよ。よろしくお願いします」 綱木は律儀に頭を下げてくれる。 凛もそれに倣って頭を下げた。そして同時に吹き出した。 高嶺高校の春の主な行事の一つ、ボランティア体験週間が近づき、生徒会が忙しくなってきたのか、綱木はほとんど写真部に顔を出さなくなった。 自然、モデルの件も延び延びになっている。 凛はそれが寂しくて仕方なくて、活動にも身が入らず、部長に心配されることも度々だった。 「綱木がいなくて寂しい?」 すばり言い当てられて、凛は慌てる。 「そ、そんなんじゃ」 「あいつも優しいんだか厳しいんだかわからない奴だけど、頼りにはなるから、何かあったら相談するといいよ」 「綱木先輩は……、優しいです。厳しくなんかありません」 凛の抗議に、高田はふとその笑みを消す。 「君もあいつがお飾りの生徒会長だと思う? 他の生徒が言っているみたいに」 「高田先輩?」 高田の言わんとしている意味がわからず、凛は首を傾げる。 「いや、いい。変なこと聞いたかな」 「いいえ。でも、僕は生徒会長としての綱木先輩も尊敬していますけど」 凛の答えに高田はニッコリ笑って、ふわふわと揺れる凛の頭を撫でた。 「いい子だな、時枝は。これ、綱木には内緒な」 高田の下手なウインクに、凛はわけがわからないながらも、笑って頷いた。 綱木は部活動に参加しなくても、下校の時間になると、生徒玄関で凛を待っていてくれた。一度一緒に帰ってから、なんとなくずっとそうなっていた。 それは嬉しいが、期待してはいけないのだと言い聞かせなくてはならず、辛くもあった。 「今日はどんなところを撮ってきたの?」 綱木が訊いて、凛はその日の活動を逐一報告する。困ったことや、わからないことも、凛は放課後まで待って綱木に訊いているくらいだった。 綱木は面倒がらずに、丁寧に教えてくれる。それでつい期待してしまいそうになる。 恋人とまでは思われなくても、自分が一番、可愛がられているのではないかと。 だが、それも確証は持てない。綱木の評判は相変わらずだったが、それ故に、誰にでも親切なところはあるようだったから。 「僕のこと、少しは特別に思ってくれますか?」 いっそのこと、思いきって訊いてしまいそうになる。 「生徒会の方、まだまだ急がしいんですか?」 だが、実際口に出るのは、そんな台詞だったりする。 「うーん、毎年のことだから、例年通りのことを、例年通りにするだけなんだけれどね。それが考えているほどには簡単にいかなくて、どうしてなんだろうと、僕も思う」 「でも、先輩なら、ちゃんとできますよね」 凛なりの励ましに、綱木は声をたてて笑う。 「時枝がやってもうまくいくよ?」 「僕じゃ駄目です。みんな人にやってもらわなくちゃ、きっと開催すらできないです」 自分で言った言葉に自分で傷つき、凛は足元を見つめる。 「一人じゃ、誰でも上手くできないんだよ」 「え?」 綱木の言った意味がわからず、凛は首をかしげて優しい先輩を見た。 「生徒会は、全員で六人いる。ボランティア実行委員も今は加わって、二十人からの大部隊だよ。みんなが動いてくれるから、実際は僕も見ているだけ」 綱木の説明は、凛も知っていることなので、うんと頷く。 「これが僕一人なら、何もできないんだよ。さあ、ボランティアを始めましょう。何をすればいいと思いますかと、全校生徒に訊いて回るわけにもいかない。それじゃあと僕が勝手に決めても、誰もついてこない。みんなの中からまとめ役の実行委員が出て、生徒会のメンバーが、委員の要請に従って、全校生徒の意向を受けて動く。生徒会は全校生徒の使い走りみたいなもので、僕はその中で最もこき使われる生徒なんだよ」 綱木の言わんとしていることはわかるし、実際、綱木はそう思って行動しているのだろう。 けれど凛はそれでも、自分にはできないことだと思う。 「時間がかかることは、悪いことじゃないんだ」 綱木の声は暖かく、凛の心に響いてくる。 「時枝は、多少人より時間がかかるし、上手くできないこともあるかもしれないけれど、本当は誰だってそこを通りすぎているんだよ。だから、一人で出来ないなんて、気に病むことはないんだ」 どうして、綱木は凛の気持ちをこんなにもわかってくれるのだろうかと、不思議に思う。 特に悩みを打ち明けたわけでもないのに。 「先輩には僕の気持ちがわかってしまうみたいだ」 凛の呟きに、綱木はそうかなと、返事をする。 「時枝の気持ちまではわからないけれど、何に悩んでいるのかは、漠然とわかる……、かな? いつも時枝は一人でしようとして、でもできなくて。そんな時、悔しそうにしているから、その姿を見ていると、つい手を貸したくなる」 「でも、先輩は手伝ってくれませんよね」 綱木は明るく笑った。凛が驚くくらいに。 「手伝ったりしたら、時枝の悩みを引き延ばすだけだから。口だけは出すけど、時枝は自分でできるんだから、見ているだけでいいんだって」 とても自然にそれを言える綱木は、やはりすごいと凛は思った。 あの父親たちだって、凛をそんなふうには見てくれない。いつまでも彼を赤ん坊扱いにする。 綱木は見ているだけでいいと言ってくれたが、父親たちは、凛に見ているだけでいいと言った。 「先輩は、すごいな」 「時枝だって、すごいんだよ。自分でそれを認めてあげなきゃ」 ますます、綱木を好きになる。だがそれは、悩まないではいられない事実だった。 電車を下りる凛に綱木は軽く手を上げて見送った。電車が動き始めると、小さな背中はすぐに見えなくなる。 穏やかな笑顔はすぐに消え、鋭い視線が凛の背中を見つめる。 凛の悩みは、綱木にとってはそれほど大変なことのように思えなかった。 凛はなんでも自分でやりたがる。だが、すぐに諦めてしまう。その諦めが理解できなかった。 それほどの気持ちがあるなら、どんな努力でもできるのだと思っていたから。 けれど、そんな凛を見守っていると、凛の言葉の端々に、誰かの影響が垣間見えた。 多分それは父親だと思えるのだが、かなり甘やかされ、自主性を重んじられることなく育ったのだろうとわかる。 そして最近、自分にもその傾向が出ていることを悟って、苦笑せずにはいられない。 とにかく、かまいたくなる。手を貸して、ありがとうと笑って欲しくなる。 それを自制するのはかなりの苦労を要した。だが、そのおかげで、凛の満足そうな笑顔を手に入れることができている。 このまま、ずっと見守っていければいいのにと、願いにも似た気持ちで思う。 凛にとっては、ただの親切な先輩でしかないだろう。他の生徒が思うように、笑って見てくれている人でしかないのだろう。 つくづく、損な役回りだと思うが、それしか綱木にはできない。 けれど、いつかは。そう思う。あの笑顔を自分のものにしてみせる。 自分には造った笑顔しか出来ない。 まだ中学生だった頃、ありのままの自分を曝け出し、言葉と態度で相手を傷つけたことがある。容赦なく誰かを責め、苛立っていた。 そんな自分を恥じ、反省し、綱木は取り繕うことを覚えた。 何もかもを見せてはいけないのだと。 わけを知るものは、自分を爪を隠した鷹だと言い、知らぬものは生徒会の飾り人形だと言う。 凛だけが、先入観なしに自分の笑顔を受けとめてくれた。優しい先輩として。 だから、手に入れたい。本当に自分を笑わせてくれる、あの愛しい存在を。 |