入学式の日を、かなりの無理でオフにした三人は翌日、それぞれの仕事に向かった。誠司だけは自宅でできる仕事だが、駅前に事務所を構えているので、そこへ向かう。
 その事務所は当初、凛を家に来るテレビ局のスカウトから守るためだったが、今では自分たちのスキャンダルから凛を守るためでもあるようになっていた。
 三人で暮らす男達、そこに同居する男子高校生。恰好のネタだろう。その上、凛の出生まで詮索されては大事だ。
 朝からバタバタと二人が出て行き、凛と誠司は一緒に家を出た。
 電車の上下を間違えず、無事に登校した凛は、校門で綱木に再会した。
「おはよう」
 さっそく例の笑顔で挨拶してくれる。
「おはようございますっ」
 凛も元気に挨拶を返した。
「昨日はあれから大丈夫だった?」
「はいっ」
 良かったねと笑って、綱木は歩き始める。その横をぴょこぴょこついていく。
「出身中学はどこ?」
「楓中です」
「あ、隣なんだ」
 多分学区のことを言っているのだろう。それなら自宅もそれほど遠くはない。
「友達はできそう?」
「僕、誰とでもすぐに友達になれるから」
 凛の返事に、綱木はクスクス笑う。
「そんな感じだね」
 良かったねとまた笑っていると、生徒玄関に到着した。
「もう。わかるよね?」
「はい」
 一年と三年では、端と端に分かれてしまう。校舎も別になってしまうと、昨日貰った校内案内図に書かれていた。
「またね」
 綱木はあっさり手を上げて、自分のスペースのほうへ行ってしまう。それが寂しかった。
 かまわれたおして育った凛には、そんなあっさりした関係が、寂しくてしょうがないのだ。
 仕方なくとぼとぼと自分のロッカーに向かう。そこでは一年生たちが、まだどこか少し緊張した面持ちで、上靴に履き替えていた。
「生徒会長さんって、大変なんだろうなぁ」
 人に決められたことをして万事を難なく過ごしてきた凛には、会長という言葉だけでもすごいことだと思ってしまう。何しろ、自分で決めるということが、凛にはできないのだ。わがままは言えても……。
 新入生は、入学式後、各種の行事に引っ張り回されてしまう。それらの中の、生徒主体のイベントでは、まず挨拶と司会進行に立つのが、綱木だった。
 学校行事の案内、クラブ紹介、一年生の歓迎会など、高嶺高校は、生徒の主体性を重んじているらしく、教師が仕切ることといえば、学業面くらいのものだった。
 中学を出たばかりの凛たち一年生にとって、それらを運営していく上級生たちが、とても立派に見えた。
 そしてその先頭に立っているのが、綱木智晴である。
 凛は「あんな風になれたらいいのに」と、憧れの目で綱木を見ていたが、同級生の中にはやっかみ半分のものもいる。
 綱木智晴という人物は、高嶺高校代々の生徒会長の中で、歴代一の穏健派なのだそうだ。
 穏やかなものの喋り方、温和な笑顔。あの人はただのお飾りだと言う生徒までいる。
「なんかさあ、ぱっとしない人だよなー。ここの生徒会なら、もっとカリスマ性のある人の方が相応しくない?」
「そうだよなー、だって、クラブで対抗試合とかがあれば、あの人が挨拶するわけじゃん? ちょっと、見栄えが悪いよ」
 それは、凛だって思わないわけではないけれど、綱木が悪く言われることにはむっとした。
「知らないくせにさ」
 綱木にしかない優しさを、凛は知っている。どんな風にと訊かれれば、具体的に説明できないけれど、それは凛自身とてももどかしいけれど、凛は知っているのだ。
「あの人は、きっと、違うもん」
 誰と……。それは凛にもわからなかった。





「もうクラブは決めたの?」
 新学年が始まり、一段落したある朝、凛は校門のところで会った綱木に声をかけられた。
 最初の日に綱木に偶然会ってから、凛はまた綱木に会いたくて、同じ時間に登校していたが、実際にあったのは、今日が二度目である。
「まだなんです」
「そう。どこか希望がある?」
 それは全然考えていなかった凛は、小さく首を振る。
「中学では何をしていたの?」
「入ってませんでした」
 実は最初の頃は背を伸ばしたくてバスケット部に入ったのだが、やれ帰宅時間が遅いの、突指でもすれば大騒ぎするだので、結局辞めてしまったのだ。その途端、父親たちの機嫌が良くなった。自分たちは、不規則な時間の仕事のわりに、帰宅して凛がいないと不機嫌極まりない。
「せっかくだから、何か始めるのもいいよね」
 押しつけがましくもなく、綱木は凛に勧めてくれる。
「先輩は? 先輩は何部に所属しているんですか?」
 凛の質問に、綱木は目を細めて笑う。
「写真部に入っているんだけどね。あまり参加はできていないかなー。生徒会の方が忙しくて。文化部だから、退部しなくて済んでいるけれどね」
 よかったら見学に来るかいと誘われて、凛は目を輝かせる。
「いいんですか?」
「そりゃ大歓迎だよ。実はあんまり部員がいなくて、部長が困っている」
「先輩が部長じゃないんですか?」
 いくらなんでもそれは出来ないよと、綱木が明るい笑い声をたてたところで、また生徒玄関に着いてしまった。
 別れ難くて、凛はもじもじと立ち止まる。
「放課後、部室においで。今日なら僕もいるから。見学だけでも歓迎するよ」
 部室の場所を教えてもらって、凛は綱木に手を振る。無邪気に駆け出す凛を見送って、綱木はその顔に刷いていた笑みを消す。
 凛がなくなると言っていた目は、鋭く細められる。
 自分を全面的に頼ってくれる後輩が可愛くないわけがない。しかも、その子は、女子生徒を差し置いて、既に校内でも評判になるほどの愛らしさだ。
 入学式の朝、入学式進行のため最終の打ち合わせを行い、生徒会室を出ようとしたところで、窓の外を走ってくる小さな姿に気がついた。
 その人物は高嶺の制服を着ていた。彼は道を一本取り違えているため、綱木からは良く見える位置にいるが、グランドをかなり迂回せねばならず、もう間に合わないのではないだろうかと思えた。
 綱木は苦笑して、自分も校門に向かった。遠目にもわかる、その愛らしい容姿を一目見てみたくなった。
 校門で引き返そうとした凛を間近に見て、自分の目に狂いがなかったのを知る。その可愛さに一瞬心を奪われ、咄嗟に、彼が庇護されることを好むことを見て取り、綱木は今まで以上に自分を隠すための極上に甘い微笑みを造った。
 実際接してみてわかる。時枝凛は、純粋培養で育てられた真っ直ぐさだ。恐いくらいに、相手を正面から見据える。
 その屈託のなさは、綱木でさえ眩しく感じるほどだ。凛は綱木に全面的な信頼を寄せてくれているらしい。それが面映く、また嬉しかった。
 写真部へ誘ったのも、自分の目の届く範囲から出したくないと思ったからだ。
 今日、写真部を見学に来たら、どのように歓迎しようかと考えながら、綱木は自分の教室へ向かった。

 写真部は綱木や一年生の新入部員も含めて、八人の部員がいるだけだった。部長は高田という三年生で、小柄な男子生徒だった。
「今日は見学なんだってね。自由にしててくれていいよ。写真に興味はある?」
「はい、少しは……」
 家に一人、写真集を出すような写真家がいることは内緒だけれど。
「それは嬉しいな。一年間の主な活動は綱木に聞いてよ」
 ここは綱木に譲った方が効果があると思ったのか、高田は説明を綱木に任せて、自分はカメラを手に取った。ファインダー越しに凛を見ている。
「こらこら、人を撮る時は許可を取ってからにしろよ、部長」
 綱木が咎めると、部長はカメラから目を離さずに、片手でOKのマークを出している。
 苦笑を漏らして、綱木は凛に一枚のプリントを手渡す。そこには『年間活動予定表』と書かれていた。
「特にたいした活動はしていないんだけれどね」
 綱木の言葉に、それはお前だけだと、部長が野次を飛ばす。他の部員はクスクス笑っているだけで、どちらにもつかないらしい。部員同士の交流に暖かな雰囲気を感じ取って、凛は嬉しくなる。
「学期毎に日帰りの撮影会を何度かして、夏休みには二泊三日の合宿がある。その他に、学校行事には、写真部はカメラの携行を許可されている。校内で利益を取らずに販売をすることになっているんだ。学園祭には、これらの活動の中から、何点かをパネルにして出品する。こんな感じだけれど、なにか質問はある?」
 凛は首を傾げてプリントを見た。途端にフラッシュが光る。
「こら、高田」
「いいよね、時枝君」
 綱木が注意するのに、高田はニッコリ笑って凛に訊く。
「いいですけど、現像したら僕にもくださいね」
「オーケー、オーケー。お安いご用だよ。だったら、もう二・三枚、いいよね」
 凛が頷くと、綱木が心配そうにいいのかいと尋ねてきた。
「かまいません。写真なら、父親にいっぱい撮られてるし」
 ポロッと言ってしまって、あっと口を開ける。けれど、綱木はそれに気づかず、説明を続ける。
「基本的に、何をテーマに撮るのかは、本人に任せているんだよ。テーマが決まるまでは、いろいろなことにチャレンジするのもいい経験だしね」
 綱木は説明を終わると、目を細くして笑った。この笑顔を撮りたいなと、凛は思う。
「とりあえず、今日は気楽にお話でもしようかー」
 高田の提案に、「いつもそうしてると思われますよ」と、部員が茶々を入れる。
「いつもそんなもんだろうが」
 高田の開き直りにみんなはゲラゲラ笑う。つられて凛も笑った。結局、その日は何点かの写真を見せてもらって、他は楽しく話をして終わった。

 門扉を開けるなり、誠司が飛び出してきた。
「遅かったじゃないか、凛」
 誠司は手に携帯を握りしめている。
「携帯の電源も切ったままだろ?」
 凛は慌ててカバンの中から携帯を取り出した。今の今まで忘れていた。
 写真部が楽しくて、見学だけして、すぐに帰るつもりが、下校まで居残ってしまったのだ。
 携帯の電源を入れると、留守録音のマークがついた。
「ずっと連絡をいれていたんだよ」
 誠司がぼやくと同時に、誠司の携帯が鳴った。彼が一番最近に手懸けた曲の着メロだ。
「帰ってきたよ。たった今。え? もう着くの? わかった」
 電話を切ると、誠司は大きく溜め息をついた。
「勲だよ。すぐ帰るって。藤吾は撮影中だから、出られなくてうずうずしてる。もうすぐ電話がかかってくるから、ちゃんと出て謝るんだよ」
 放課後まで残っていたとはいえ、外はまだ明るい。そこまで大騒ぎすることだろうかと、凛は思う。
「そんなに遅くないでしょう? クラブに入ろうと思うんだ。これからはいつも、これくらいの時間になるよ」
 凛の言葉に、誠司は一瞬目を見開き、そして深呼吸を一つした。
「クラブのことはまた四人で話そう。それよりも、どうして連絡もせずにいた? みんなが心配しているとは思わなかったのかい?」
「でも、まだ明るいじゃない。そんなに遅くないよっ」
「凛、遅いとか、明るいとかじゃない。わかるだろ。帰ると思っている時間に帰ってこなければ、どれほど心配するか」
「でも……」
 理詰めで誠司に適わないのはわかっているが、今ここで謝ってしまうと、きっと誠司のペースに乗せられ、クラブ活動も反対されてしまう。凛はそのことが一番心配だった。
「とにかく、家の中に入ろう」
 誠司に促され凛が家に入ると同時に、勲の車が玄関に横付けされた。かなりスピードを出していたらしく、タイヤが悲鳴を上げている。
「こら、リン。心配させやがる!」
 大きな声で怒鳴り、大きな手で凛の頭をグリグリ掻き回す。
 あまり怒ってはいないようだ。
「誠司があんまり心配するもんだからよー、俺も慌てちまったぜ。凛も高校生だもんよ、少しくらいの付き合いはあるよな」
「うん!」
 頭に乗せられた手を両手で掴み、凛は媚びるように勲を見上げた。誰が一番凛に甘く、言い包めやすいか、計算してのことだ。
「でも、遅くなる時は電話しろよ。そのために携帯を持たせてるだろうが」
「うん、今度からちゃんとする」
 凛は勲の太い腕にぶら下がり、ニッコリ笑う。途端に勲の顔はだらしなく緩む。
「な、誠司、大丈夫だろ。リンだって子供じゃないって言ったのは、てめーなんだぜ」
 誠司は苦々しい顔で勲を睨む。
「自分だって、大慌てで帰ってきたくせに。理代子さんにも、くれぐれもと頼まれているんだよ。それなのに君たちは凛を危険な遊びにばかり連れて行って」
「わーっかった。わかった。それはもう耳にタコもイカもサザエも出来るくらい聞いた。リンもだよなー?」
 ここで勲に加勢したら、誠司のご機嫌は地を這う。それではこのあとの計画にも水を注すことになると思い、凛は着替えてくるねと逃げ出した。
「立ち回りのうまい奴だよなー」
 勲の感心を余所に、誠司はますます顔を顰めた。

「クラブ活動だってー?」
 撮影を何とか切り抜けて帰宅した藤吾が揃ったところで、凛はクラブに入ると言った。
 それは今までのように、「入ってもいい?」とお伺いをたてる言い方ではなく、「入るよ」という宣言だった。だが、その違いについては、どうやら伝わっていないようだ。
「また怪我をしたりしたらどうするのよー」
「やめとけ、やめとけ。どうせ背なんて伸びやしねーさ」
「それで今日も遅くなったんだね」
 三人のブーイングに、凛は頬を膨らませる。
「だから、もう入部したんだってば。それに、バスケット部じゃないよっ」
 三人に一斉に見つめられ、凛は首をうしろに引く。
「じゃあ、何部に入るつもりなの?」
 入るつもりじゃなくて、入ったんだってば。凛は尖らせた口の中でぶつぶつ呟く。
「写真部」
「写真部ー?」
 三人は同時に叫び、自然に勲に視線が集まる。
「お、俺は別に写真なんて勧めてないぜ」
 勲は慌てて藤吾と誠司を見比べている。そして凛に向き直る。
「写真に興味があるなら、何も部活になんて入らなくても、俺が教えてやるじゃねーか。どうせ高校のクラブなんて、ちゃちな機材だろ? カメラは最初からいいもの使わなけりゃ、一流になれないぜ」
 勲だけでも賛成してくれると見込んでいた凛だが、それはどうやら甘い考えだったらしい。
 かえって、自分の手元に置こうと、勲が最も強硬に反対しそうな雰囲気だ。
「教えてもらうのはいいけど、僕はクラブに入りたいのっ」
「どうして。たるいだけだろ。先輩、後輩の関係だってさ」
 その先輩に会いたくて入部するのだから、かったるいなどということはない。
「ちゃんと帰る時間は守るし、遅くなる時は連絡する。だから、許してよ」
 ね、と両手を合わせてお願いする。
「みんなと出かけることも、嫌だって言わない。どこにでもついていくから」
 勉強をきちんとすると言うより、こちらの方が効き目があるなんて、やっぱり変わった親だと思うが、それは口に出さない。
「ちゃんと約束を守れる?」
 誠司の確認に、凛は大きく頷く。
「おい、俺はまだ賛成してねーぞっ」
「俺だって、嫌だよぉ。俺が一番凛といる時間が少ないんだよ? 誠司さんはずっと家にいるからいいだろうけどさ」
「じゃあさ、出かける時は、藤吾君を優先する。それでも駄目?」
 凛が首を傾げて藤吾を見る。藤吾は言葉につまり、視線を宙に漂わせ始めた。
「カメラのことは、なんでも勲パパに聞くから。ね、ね?」
「そこまで言うんなら……」
 凛は内心喝采を上げる。はじめて三人を論破できた。
「ただし、約束は必ず守ること、いいね?」
 誠司の最終結論に凛は元気よく、とてもいい返事をした。
「はいっ!」
 とりあえず、凛のクラブ発言により、その日遅くなったお咎めは、有耶無耶のうちにお流れになってしまったことに、三人の父親たちは気づかなかった。



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