家が近づくにつれ、凛の足は重くなる。綱木が一緒だということもあるが、気持ちが落ち着くにしたがって、三人がどうしているかと思うと、その方が憂鬱になってきた。 やあお帰り、と迎えてくれないだろうかと、世界の終わりが訪れても起こり得ないことを、つい期待してしまう。 「大丈夫だよ。きっと心配されているよ。だから、まず謝ってしまえばいいんだよ」 そう、心配しているからこそ、きっとパニックになっている。こんなことなら、飛び出さなければ良かったと思っても、あとの祭だ。 道がいつまでも続けばいいのにと思っても、すぐに自宅に辿りついてしまう。 凛は深呼吸してから、インターホンを押した。 ピンポーン……、と鳴り終わらぬうちにドアが、勢いよく開いた。爆発でもあったのかと思うくらいに激しく。 勲に続いて、他の二人も飛び出してくる。 「バカ野郎!」 言葉とは裏腹に、突然抱きしめられる。 「どこをうろついてたんだ、このバカッ」 「心配したんだよ。りーん」 勲の横から、藤吾が凛の頭を撫でる。 「誠司父さん」 一人、一歩出遅れた誠司に、凛はびくびくしながら声をかける。 誠司はつかつかと歩み寄ると、手を差し伸べてくる。凛は首を竦ませる。が、誠司は凛を抱きしめた。 「一人でいいなんて言うから、ついかっとなったんだ。悪かった」 ぶたれたわけをはじめて知って、凛は素直に謝った。 「ごめんなさい」 「ほらほら、疲れちゃっただろ、凛。今日はもう早く寝ようよ。久しぶりに四人で寝よう、ね? 明日は学校を休んで、転校のこと、話し合おう。今度はみんな冷静にね?」 藤吾がいそいそと凛を誠司から引き剥がすが、凛ははっとして、その手から逃れた。 「転校はしないって、言ったじゃないか」 「ならおめー、どうして悩んでる理由、いわねーんだよ。リンがはっきり言ってれば、俺たちだって転校なんて言うもんか」 「そうだよ。凛が元気ないと、僕まで落ちこんじゃうよ」 左右から最悪の口調と、頼りなげな話し方で迫られ、凛は情けなくなる。 このあと、いつもの法則にしたがって、誠司がまとめにかかるのだ。結局は三人の都合がよいように。この場合、転校するという結論に持っていくのだろう。 「凛、こうなったのも自分の責任だとわかるね?」 思わず頷きかけて、凛は首を振る。頷いてしまえば、転校させられてしまう。 「僕だけが悪いんじゃないよ。誠司父さんも、勲パパも、藤吾君も悪いよ。そうでしょ?」 「なんだと、この野郎」 「どうして僕がー?」 左右の声はこの際無視することにする。真に決定権を持つのは、誠司なのだ。 「凛、話をすりかえちゃ駄目だ。誰が悪いんじゃない。何が原因かだろ。凛のことを心配して言っているんだ。転校するのが、一番だと思わないか?」 「思わないよっ。僕の気持ちはどうなるの?」 凛は誠司の服を掴んだ。 「無理しなくていいんだ。転校するのは、決して恥ずかしいことじゃないんだから」 「無理してないよっ。転校なんてしたくないって、何度言えばわかってくれるの?」 凛は目に涙を浮かべる。 「凛、僕たちは心配なだけなんだよ? 凛の気持ちはわかるから」 「うるせー。つべこべ言わず、転校させちまえばいいんだ。そうすりゃ、リンだって落ちつくって」 「待ってください」 凛が反論しようとした時、低いけれど、よく通る声が四人の間に割って入った。 「凛君の話を、皆さんも落ちついて聞いてあげてください」 父親たちが飛び出してきた時点で、凛はすっかり、綱木の存在を忘れてしまっていた。父親達に至っては、最初から目に入っていなかったので、再びここに写真部の先輩が出て来たことに驚いている。 「また、お前か」 「凛、どうしてこの人のとこへ行ったのぉ?」 それは凛がはじめて見るような、綱木の恐い顔だった。笑っていないときの彼の目は、実はつり目なのだとわかる。鋭い光りさえ感じられた。 「どうか、凛君に話をさせてあげてください」 勲が飛び出しかねないのを察知して、凛と藤吾が腕を引っ張って止める。その勲の前に、誠司が歩み出た。 「私たちが、凛の話を聞いてやっていないとでも言うつもりか?」 「先程から拝見している限りでは」 誠司の睨みにも、綱木は怯まなかった。むしろ、その低い声は、誠司より落ちついて感じられる。 「凛はまだまだ子供だ。親の言うことを聞いていれば、間違いなどない。私たちは凛のことを考えているからこそ、転校させようと思っているんだ。君こそ、先輩ぶるのならもっと学校内のことに目を配るべきじゃないのかね。凛はずっと塞ぎこんでいたんだ」 誠司がはっきり「親」だと言い、綱木は自分がついて行こうと言う申し出を、凛が断ろうとしたわけを知った。 「確かに僕たちはまだ子供かもしれませんが、僕たちになりに考えて行動しています。それを意見も聞かずに決めてしまうというのは、凛君の可能性を摘むことではないでしょうか」 「リンは一人じゃ何も出来ねーんだよ!」 飛び出そうとする勲を、凛と藤吾が押さえこむ。だが、必死になっているのは凛だけだ。どうにかすると、藤吾の方が飛び出しかねない。 「そうでしょうか。だから、何も見ていらっしゃらないのだと言いました。凛君は一人でプリントも出来るようになっています。ご存知でしたか?」 綱木に言われて、勲はぐっと息を飲んだ。知らなかった。そう言われて、家にネガを持ち帰っていないことに気がついたくらいだ。 綱木は殴られてもいい覚悟だった。ここへ来るまでは、一緒に謝ればいいと思っていたが、この三人の様子を見て、そんな考えは吹き飛んだ。 凛が何を心配していたのか、凛が何故何もできないと悩んでいたのか、それがわかってしまった。 今は穏便に済ませても、この調子では、本当に転校させるだろうという危惧もあって、綱木は黙っていられなくなったのだ。 「凛君は、一人の人間です。一人でできるようにもなっています。一人で歩こうとしています。それを認めようとしないのは、皆さんではありませんか?」 「この野郎!」 凛は勲に引きずられる。藤吾が手を離したのだ。その藤吾も綱木に掴みかかろうとしている。誠司は綱木の胸元を掴んだ。 「やめてよー! 先輩殴ったら、許さないからー!」 凛の叫びに一瞬、三人の動きが止まる。その間に逃げてくれればいいのに、綱木は一歩も動こうとしない。胸を掴んだ誠司を静かに見返している。 「やめてってばっ!」 「おやめなさいよ、みっともない」 突然女性の声が割り込み、誰もがその声の主を見た。 淡いラベンダー色のワンピースを着て、長い髪には緩やかにウエーブがかかっている。赤い唇は綺麗な弧を描き、言葉とは反対に楽しそうに微笑んでいる。 「理代子さん」 凛が呆然と呟く。 「理代子さん、どうしたの。帰ってたの?」 理代子はそんな凛に向かってニッコリ笑う。 「凛、ただいま。あなたの先輩を紹介して頂戴」 さすがの綱木も、理代子の登場には驚いているようだ。 「リヨちゃん、こんな奴追い返すよ!」 勲の台詞を、理代子は一瞥で黙らせる。 「あなたたちより、こちらの方のほうがよほど大人ね。凛を大切に見てくれていることが、よくわかったわ」 「理代子!」 誠司が驚いて、理代子を咎めるように呼んだ。 「どうして、そこまで凛を子供扱いするの?」 「凛はまだ子供だよ」 「そうかしら。凛はもうすぐ十六よ。私が凛を産んだ年だわ」 理代子の言葉に三人は言葉に詰まった。それぞれに身に憶えがあるからだ。 「とにかく、中に入ったら?」 言われてはじめて、みんなは往来にいたことを思い出す。周りを見回すが、塀の高い家ばかりで、道行く人も少なく、今の争いは注目を集めるものではなかったと知って、一様にほっとする。 「ほら、そこの先輩もどうぞ」 理代子に促されて、綱木も玄関に入る。三人が恨めしそうに理代子を見た。 「今日、凛が帰ってきた時、三人がいたのは、理代子さんが帰ってくるからだったんだ。僕が玄関にいたのは、空港まで迎えに行くつもりだったからだよ」 「帰ってくるなんて、聞いてない」 凛が頬を膨らませると、理代子はくすくすと笑った。 「この人達、凛の元気がないから、一度帰ってきてくれって、それはそれは煩かったのよ。私もそろそろ凛に会いたかったしね」 凛に良く似た笑顔は、いたずらが楽しくて仕方ないように輝く。とても十五の子供がいるようには見えない。 「隠しておいて、びっくりさせようと思ったんだ」 藤吾が言い訳をする。 「五人揃えば、きっと凛も元気になってくれると思った。今までがそうだったように」 疲れたような誠司の様子に、凛は後悔する。 きっと誠司が一番心を痛めていたに違いない。 「もう凛もいろんな事、知ってもいい年よね」 理代子の言葉に、三人の父親は溜め息をついた。 食べていくのもままならない時代に、三人は理代子に出会った。彼女は決していい加減な気持ちではなく、三人の中にきらめく原石を見出し、同時に付き合うような真似をした。 やがて彼女は妊娠し、凛を産む。 彼女は当時売り出したばかりで、仕事が軌道に乗り始めていた。結果、凛を三人に託し、女優として活躍しはじめ、海外にその名を広めていった。 彼らは一人では凛を育てる事ができず、時間をやりくりしながら、一緒に凛を育てた。 それらの事がはじめて、それぞれの口から凛に語られた。 「僕たちは無名で、食べていくのもやっとで。仕事もなくて、あっても下っ端の辛いことばかりで。でも、家に帰れば必ず、凛がいてくれた」 藤吾はごく普通の口調でしんみりと言う。 「どんなに疲れて帰っても、嫌な仕事をして不貞腐れて帰っても、凛はにこにこ笑って、俺たちを迎えてくれた。よたよたと歩きながら、それでも両手をいっぱいに伸ばしてくれて。はじめてお帰りって言ってくれたとき、俺は師匠と仰いでいた人と喧嘩別れして帰った日だった。もうカメラなんか捨ててやるって、決めた日だった。それなのに、凛を見た途端、なんとしてでも頑張ろうって思い直すことができた」 勲は淡々と語った。 「僕たちは何もなく一流と呼ばれるようになったわけではない。底辺を舐め、挫折を味わい、それでも這い上がれたのは、いつも凛が家にいてくれたからだ。男泣きに泣く僕たちの頭を小さな手で撫でてくれたから、僕たちは立ち上がることができた」 誠司は疲れきったように話した。 「結局、僕たちは、その頃のままの凛を求めていたんだろうな」 「僕は何も変わらないのに」 凛が言うと、三人は寂しそうに笑う。 「でも、成長はしているんだと、気がついたんでしょう。いつまでも、赤ん坊のままではないことに」 理代子に言われて、力なく頷く。 「これからは、凛が一人前になるよう、あなたたちが見守ってあげて。凛はこれから、大人になるために、羽ばたかなければならないんだもの。羽を休める場所になってあげてね」 理代子の頼みに、誠司は大きく息を吐く。 「理代子さんの頼みなら断れないな。凛、何かあれば必ず話してくれるな?」 誠司はいつもの穏やかな顔に戻り、凛に微笑みかけた。 「どうしようもなくなったら、必ずもどって来いよ。ケツ叩いてまた送り出してやるから」 勲はにかっと笑う。 「僕たちは、いつだって凛の味方だからね」 藤吾の口調も戻っている。 「クラブ、続けてもいい?」 恐る恐る切り出すと、三人は唸る。 「学校で何かあったとしても、必ず僕が守ります。お任せください」 それでも頷かない父親達に、綱木は一枚の写真をテーブルの上に置いた。 そこには太陽の陽射しを浴びて、にこやかに笑っている凛がいた。斜め前方を見て、本当ににこやかに笑っている。 視線の先に、何があるのか、思わず尋ねたくなるほどの、綺麗な笑顔だった。 そこには子供っぽさは微塵もなく、凛の成長さえ伺えた。ちょうど思春期にさしかかり、大人への変貌を遂げようとしている雰囲気までが映し出されている。 「これ……、お前が」 勲が呟く。 「とりあえず、今までの中では一番の出来の一枚です。まだ満足はしていませんが」 「へぇー、勲より凛を撮るの、上手かも」 横から藤吾が余計な口を出す。だが勲はそれを怒りもせず、写真を食い入るように見つめていた。 「僕が守ります。必ず。どうか、凛君の望みを聞いてあげてください」 「…………わかった」 凛は嬉しそうに笑って、綱木を振り返る。綱木は目を線にして笑いながら頷いた。 三人は深い溜め息をつく。自分たちのお株を奪われていくような気がして。 「僕、三人とも大好きだよ。誠司父さんも、勲パパも、藤吾君も。父さんたちに育ててもらってよかったって思ってる。本当だよ」 凛の言葉に、三人は目にうっすらと涙をためて、寂しそうに笑った。凛の口から出た言葉に、本当に、自分たちの手から離れていく予感を抱いたのだった。 「先輩、びっくりした?」 駅までの道を送りながら、凛は心配そうに尋ねる。 「そりゃびっくりしたよ。三人ともが父親だったなんて。それに、あのRIYOKOだろ。前から似ているとは思ってたけど、親子だったのかーと思った」 綱木はそういってクスクス笑う。 「変な家だと思うでしょう?」 「どうして? やっぱり大切に育てられたんだとは思ったけど」 凛の家庭の事情を知って、変だと言わなかったのは、今までに綱木だけだった。 「先輩、大好き」 凛が綱木の腕に両手を絡ませる。綱木は目の前で揺れる柔らかい髪に唇を落とし、僕もだよ、と囁いた。 「お父さん達に約束したからね。何があっても、守ってあげる」 凛は綱木の腕に頬を寄せて目を閉じた。 「素敵な写真を撮ってくれてありがとう」 「言っただろう。僕には秘策があるって」 秘策の意味がわからず、凛は頼もしい、恋人になったばかりの人を見上げる。 「凛を好きだから、誰よりも綺麗にとる自信があるんだ」 あの元木勲よりもね、と言って、綱木は見上げてくる凛の愛らしい唇をそっと盗んだ。 その頃、時枝家のリビングでは……。 「理代子さん、もう一人凛を産んでよ」 藤吾が情けなさそうに懇願する。凛を産めと言うあたりに、並々ならぬ執着が見えて、理代子はげんなりする。 「冗談でしょ」 だから理代子はそっけなく断った。 「あーあ、なんか気が抜けるよなー」 「勲だって、これからは長期の撮影に出ればいいじゃない」 凛に会えなくて我慢できないのは、勲の方だと知りながらの言葉である。 「強力な味方を連れて来たよな」 誠司の呟きに、二人は白けた顔をしていたが、続く理代子の台詞に肝を冷やすことになる。 「あれは単なる先輩じゃないわね。まあ、私は、凛が結婚しないなら、おばあちゃんにならなくていいけどー?」 がばっと、三人が立ちあがる。 「あら。ただの先輩だと思ってた?」 三人は壊れた人形のように、こくこくと何度も頷いた。 「どう見ても、いい雰囲気だったじゃない。それにこんなに素敵な写真、凛をよほど好きじゃなきゃ撮れないわよ。勲だって、負けを認めたんでしょう?」 「ま、まっ、負けてねーぞっ。まだ勝負はこれからだ、それに写真は認めても、恋人だなんていうのは絶対に認めんぞ、俺はーっ!」 勲の叫びが、閑静な住宅街に響き渡った。 |