結弦の脈や呼吸を計り、彼がただ眠っているだけなのを確かめて、梓弓はシャワーを浴びた。
 血のついた白衣は未練もなく捨てた。結弦にも自分にも傷はないかみて、簡単に血のついたと思われる部分を消毒した。
 よほど疲れているのか、結弦はそれくらいでは起きなかった。
 自分はソファーででも寝ようかと思っていたところへ、西中が尋ねてきた。
「彼がいるのか?」
 玄関の靴を見て、西中が訊いた。
「ああ、今、まだ寝ている」
「誰なんだ?」
 西中にとってはまったく心当たりがなく、疑問に思うのは当然だった。
「まだ、何とも言えない。俺にも……」
 梓弓が曖昧な返事をすること、それ自体が珍しいことなので、西中も困惑を隠せないでいるようだった。
「そう言えば……、うまく踏み込んでくれたな。助かったよ。あれ以上少しでも遅れていたら、駄目だったかもしれない」
 梓弓は苦笑しながら、西中にコーヒーを入れた。
「それがな……」
 西中は言い難そうに、迷いながらも、その時の状況を説明し始めた。それを聞いて梓弓は驚愕する。
「マイクが駄目になった時、いつ突入するかで、こっちでも判断が分かれたんだ。より多くの安全を優先する。それは変えようもないけれど、全く中の状況がわからなくて、正直、どうすればいいのかと、俺も困っていた。俺は早めの突入を主張していたんだが、中には慎重派もいてな、突入にいい顔をしなかったんだ」
 そんなことになっているだろうとは、梓弓もわかっていたので、敢えて反論はしなかった。
 ボールペン型のマイクを犯人に発見され、壊されたことが大きな痛手となったことは否めない。
「膠着状態になっていた時、彼が叫んだんだ。今すぐ突入してくれと」
「え?」
 梓弓が驚くと、西中はびっくりするだろ? と笑った。どこか面白がっているような表情で。
「お前が呼んでいる。今すぐ突入してくれ、でないと間に合わなくなると。あれは、そう、悲鳴だった」
 狂気に支配されたかのように迫る結弦に、西中は何故か従った。
「どうして彼の言うことを聞く気になったのか、俺にもわからない。ただ、本当に、見えているような気がしたんだ」
「見えている……」
「ああ、彼が言ってただろ? 僕には見えるんだと。お前が、血まみれで立つのが見えたって。それにシンクロしたのかもな」
 西中は笑って、報道は押さえたこと。明日改めて事情を聞きたいと言って、帰っていった。
『今すぐ突入してください! 彼が、彼が呼んでいるんです。早くして! 間に合わない。急いで!』
 結弦の叫びが聞こえてくるようだった。
 眠るタイミングを逃し、梓弓はソファに蹲った。
『僕には視えるんです! 貴方がバスの中、この白衣を真っ赤に染めて立っているのを! 僕には視えるんです!』
 結弦のあのときの言葉。それは本当だろうか。
 西中と同じように、梓弓にもそれは真実のように思えた。
 彼には、何か見えたのかもしれない。彼の言うように、梓弓は白衣を血に染めて立っていた。
 偶然とは思えない。
 梓弓はあの時、間違いなく、結弦を呼んでいたのだから。そして警察が突入してきてくれた。
 あんなタイミングが、偶然で起きるとは思えなかった。
 部屋の明かりをつけるのも忘れて考え込んでいると、背後でカタンと音が鳴った。
 はっとして振りかえると、結弦がドアのところで立っていた。
「目が覚めた? 気分は?」
 梓弓は立ちあがって壁に向かって歩いていく。部屋の電気をつけるために。
「つけないで下さい」
 だが結弦は、梓弓が電気をつけるのを拒んだ。
「このまま、……帰ります。ご迷惑をおかけしました」
 窓から差し込む夕日で、結弦の姿はシルエットになっている。結弦からも自分の姿は見えないだろうと梓弓は思った。
 結弦が頭を下げ、部屋を出て行こうとする。
「待って」
 ぴくりと震える結弦の影。
「教えてくれませんか? 貴方のことを」
 梓弓は涌き出る感情を押さえるように、穏やかに話しかける。けれど結弦はふるふると首を横に振った。
「俺が……、信じられませんか?」
「違う……」
 立ち竦む結弦に、梓弓はゆっくりと近づいた。
「話してください。貴方の苦しみも。俺は、それを受け止めたい」
「ど…う…して………」
 結弦の声は震えていた。身体も震えているようだった。彼に近づくと、その震えは、梓弓にもよく見えた。
「戻ったら話したいことがあると言ったでしょう?」
 結弦は薄闇の中、梓弓の姿を捉えた。思いのほか、近くにいる梓弓に、怯えたように後退る。
「俺は……、貴方が必要です。これからも、傍にいて欲しい」
 梓弓は思いを告げて、結弦の前に跪いた。
 結弦は驚愕に目を見開き、梓弓を見下ろしていた。
「……俺の声を聞いてくれた。あの時、本当に俺は、貴方を呼んでいたんです。結弦、と……」
 梓弓は結弦の手を取ろうとした。結弦の指の先に、梓弓の手が触れた時、結弦はびくっとして、手を引っ込めた。
「俺の気持ちは迷惑ですか?」
 梓弓が悲しそうに微笑むと、結弦は違うと何度も言って、首を激しく振る。その目からは涙が零れていた。
「結弦……。貴方の苦しみの、力には俺はなれないかな?」
 梓弓が問うと、結弦はそっと指先を伸ばしてきた。
 その手を梓弓は迷わずに取る。
「こうして……、貴方に触れると、貴方の未来が視えてしまうような、俺でも……、気持ち悪くない?」
 気持ち悪くないかという結弦の訊き方に、彼の苦しみの一端が見えた。
「今まで苦しかっただろう?」
 梓弓が微笑みかけると、結弦は泣き崩れた。
 梓弓はその身体をしっかりと抱きとめる。
「貴方が……、僕の…………」
 嗚咽を堪えながら、結弦は梓弓にしがみついた。
「俺が、……何?」
「いつか、……逢えると、…………それだけが支えだった」
「結弦?」
 結弦はそれだけをようやく言うと、あとはもう言葉にならなかった。
 梓弓の胸の中で、結弦は泣いた。
 苦しそうな、声を殺す泣き方に、梓弓は胸を締めつけられる。
 今までこんな風にしか泣けなかったのだろう。そう思うと、可哀想でならない。
 一人でこうして泣いて、耐えるしかなかったのだろう。
「もっと……、泣くといい。今までの分まで」
 梓弓はそっと、自分の胸の中にある、柔らかな髪に指を滑らせた。その柔らかくて艶やかな髪を撫でる。
 結弦はびくっと震え、ゆっくり顔を上げた。
 涙に濡れた目が、梓弓を見上げる。
「貴方だ。やっぱり、貴方なんだ」
「何?」
 髪を梳く手を止め、梓弓は結弦を見詰めた。痛々しい姿に、この人を守りたいと強く感じた。
「ずっと、幼い頃から、……僕の頭を撫でてくれる人がいる夢を見ていた。もう生きているのが嫌になった時、誰からも疎まれた時、いつも夢を見た。いつか会えると思いたかった。僕が視ることは、必ず起こるから」
 涙が流れるのもかまわず、結弦は堰が切れたように打ち明け始めた。多分、今までは誰にも言えなかったことを。
「でも、期待しないでいようと、夢で逢えるだけでいいと、何度も言い聞かせてきたんだ。もしもそれを期待して、夢を見れなくなったら、…………生きていけないっ」
 梓弓は思わず結弦をかき擁いた。
「貴方の優しい手があったから、僕は、一人でも頑張れた。逢えるなんて、思わなかった……」
「結弦……」
「昨日の朝、バスの中で、血に染まって立っている貴方の夢を視て、おかしくなりそうだった。迷ったけれど、どうしても貴方を止めたくて……」
「病院まで来てくれた」
 梓弓に抱きしめられ、結弦は今まで胸に溜めていた大きな苦しみを打ち明けた。
「病院は人の死が視えてしまうから、苦手だったけれど、貴方が家に戻るのは、待てなかった。なのに、……止められなかった」
「すまない。けれど結弦は、俺の声を聴いてくれた。俺が、結弦を呼ぶのを……」
 結弦は小さく頷いた。
「あんな力が出るなんて思わなかった。これ以上、変な力を持つのは怖い。でも、それで貴方を救えるのなら、僕はそのためにだけ生きていける」
「俺にも聴こえた。結弦が俺を呼んだ声」
「僕が……?」
 結弦は不思議そうな顔をした。そんな表情さえ愛らしいと梓弓は思った。
「はじめて会った時、喫茶店で。貴方だという声を聴いたよ」
「あ……」
 結弦は息を呑み、びっくりしたように梓弓を見詰めた。その目からあらたな涙があふれ出る。
「逢えて……良かった……」
 梓弓が結弦をしっかりと抱きしめた。







 泣かないで……、

 もう、泣かないで……、

 俺は君を抱きしめる。

 そのために、必ず君の元に戻るから。


 泣かないで……、

 もう、泣かないで……、

 俺は君のために、

 ここに戻るから……。


 泣かないで……、

 出会えたのは奇跡なんかじゃない。

 運命なんだから。






                       …………おわり…………



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