「僕には視えるんです!」
 結弦は叫んだ。喉を切るような悲痛な声で。
「今朝、視えたんです。貴方がバスの中、この白衣を真っ赤に染めて立っているのを! 僕には視えるんです。それが外れることは、ないんです。お願いです。行かないで下さい。貴方がいなくなるなんて、僕には……。お願いです。危険なんです!」
 結弦は白衣を掴んでぎゅっぎゅっと振った。
 この白衣が真っ赤に染まる……。
 それは想像するだけでもぞっとする光景だっだろう。
「僕には、未来が視えるんです。嘘じゃありません。貴方の白衣が……、貴方が……」
 結弦はとうとう涙を零し、やめてくれと訴えた。
 胸がわしづかみにされたように痛んだ。
 それでも、やめようとは思わなかった。
 結弦の振るえる手を掴み、梓弓はこの場には相応しくない笑みを浮かべた。
 結弦は呆然とそれを見上げる。
「大丈夫です。俺は立っていたのでしょう?」
 私という他人行儀な言葉を捨て、梓弓は素のままの自分で話しかけた。
「立っているということは、俺は大丈夫ということです。戻ってきます。必ず、戻ってきます。君に、聞いて欲しいことがあるから」
 梓弓は結弦の肩に手を置き、ゆっくりとその肩を西中の方に押した。
 結弦の手が白衣から、梓弓から離れていく。
「頼む」
 西中が頷くのを見て、梓弓は踵を返した。
「常葉木さん……」
 結弦の声を聞きながら、梓弓は血の匂いのするバスのドアをノックした。





 ボールペンのマイクは壊された。
 運転手の手当てはしたが、絶望の色は濃かった。
 怪我人は運転手だけではなかった。
 人質のうち、成人男性はどこかしら身体の一部を切られていた。
 持ち込んだ薬はほとんど底をついていた。
 切られた人の誰かの抵抗が激しかったのか、それとも運転手が捨て身の反撃に出たのか、犯人の一人も重症だった。
 梓弓は犯人の一人を取り押さえていた。
 もう一人は怪我が重く、向かってくる様子はない。
「逃げなさい」
 そうすれば警察が踏み込んでくる。
 梓弓はそう判断したが、人質たちは恐怖が深く、足を踏み出せない。
 いくら犯人が動けないといっても、長い刀が恐怖となっている。今にも犯人が刀を持って飛び掛ってくるようで、身体が動いてくれないのだ。
 怪我をした犯人のほうはじりじりと、床に放り出された刀ににじり寄っている。
 梓弓が取り押さえている男もそれを見て、再び拘束から逃れようともがきだす。
 朝から大変な一日だった。
 そう言えば、昼食も夕食も食べていない。
 梓弓の身体も限界が近かった。
 手を緩めれば、終わりだとわかっていた。
 必ず戻ると約束したのに……。
 梓弓は苦痛に顔を歪めながらも笑った。
『結弦……』
 心の中で名前を呼んだ。
『約束、守れなかった……』
 悪いことをしたなと謝った。直接言えないのが残念だなと、それが気がかりだった。
『結弦……』
 そう呼びたかった。
 そうすれば、自分にも人間としての血が通うかもしれないのに。
 そんなことを考えると、可笑しかった。
 必要とされたいと、誰かに必要とされたいとこんなにも渇望していたのだと知る。
 自分の心の浅ましさが可笑しくもあり、愛しくもあった。
『結弦……』
 ごめんなと心の中で呟いたとき、ガラスの割れる音を聞いた。





 バスを降りると、真昼のようなシャッターの嵐に遭った。
 顔を背けながら、バンに歩み寄っていく。今撮られた写真は、いつものように西中が回収してくれるので心配ない。
 バンから出てくる細い影を目を眇めながら見た。
 結弦だった。
 確かに今、梓弓は彼の言ったように、白衣を真っ赤に染めていた。犯人と人質の血を浴びて。
 これはいくらなんでも酷いかと苦笑しながら白衣を脱ごうとした。
 その胸に、血のついたままの梓弓の胸に、結弦は飛び込んできた。
「よかった…………」
 周囲の喧騒に消されそうな小さな声。だがそれはちゃんと梓弓の元へ届いた。
 梓弓が結弦の背中に手を回そうとすると、結弦はずるずると崩れていった。
「結弦!」
 何度もバスの中で呼んだ名前を、梓弓は迷わずに口にしていた。
 結弦が地面に倒れこむ前に、梓弓はその身体を抱きとめた。
「梓弓、大丈夫なのか?」
 結弦を抱き上げると、西中が声をかけてきた。
「俺は大丈夫。悪いが送ってくれるか?」
「あ、ああ。もちろん」
 西中は小池を呼び寄せ、梓弓を送るように命令した。
 乗ってきた覆面パトカーに乗り込み、梓弓は結弦を抱いたまま、マンションへと送ってもらった。
 車窓から、朝陽が射し込んできていた。






<<前頁   次頁>>