朝からばたばたとせわしない日だった。
 回診の途中で救急車の入ってくる音を聞いた。急患担当の医者から手に負えないとヘルプが入り、駆けつけたまではよかったが、今にも止まろうとする心臓との追いかけっこのような手術に突入した。
 辛うじて命を繋ぎ止め、手術室を出た時は昼を過ぎ、夕方に近かった。
 ほっとする間もなく、午後診察に入る。何故だか特に重症の、しかも初診の患者が目立つ。
「厄日だな……」
 診察の合間に独り言が漏れてしまう。
「お疲れですね。あと少しです」
 外来担当の看護婦が、疲労の濃い梓弓に気遣うように声をかけてくる。
 それには頷くだけで返事をせず、梓弓は目頭を指できつく挟んだ。梓弓の愛想がないのはいつものことなので、看護婦も取りたてて怒った様子はない。
 鉄の心。氷の心臓。
 好きなように呼んでくれればいい。仕事に打ち込ませてくれるのなら。
 感情などないようにみんなに思われているが、梓弓自身、自分に感情などないと思っていた。
 情操や、感情という言葉から一番遠い場所にいるのが自分だと思っていた。
 それでいいと思っていた。
 けれど、結弦と出会って、心の中に流れる情に気づいた。
 友人の西中に対するものや、他の誰へとも違う想いに気づいた。
 それは梓弓にとって恐怖であり、喜びでもあった。
 どうすればいいのかわからない……。
 それが正直な気持ち。
 最初は結弦を守りたいと思い、今は彼に癒されたいと願っている。
 ずっと、医者として、人を救うことしか知らなかった自分に、芽生えた感情に戸惑いながら、相手のことをいつも考えている自分を、悪くはないと思っていた。
 最後の患者を診終わると、午後七時に近かった。
「常葉木先生、お客様がお見えですが」
 診察室を出ようとしたところを、事務員に呼びとめられた。
「客ですか? 私に?」
 患者ではなく客が来るなど、心当たりはまったくなかった。
「カンファレンスでお待ち頂いておりますから」
 2番ですと、カンファレンスルームの番号を教えられて、梓弓は客の待つ部屋へと向かう。
 トントンとドアをノックすると、ハイと小さな応えがあった。
「失礼します」
 梓弓を尋ねてきていたのは、結弦だった。
「水原さん……」
 梓弓は驚いて結弦を見た。病院は苦手だといっていた彼が、わざわざ病院に来るわけがわからなかった。
「言って下されば、出かけたのに」
 心配のあまり、そんな台詞が口を着いて出た。
「何かわからない言葉がありましたか?」
 梓弓はなるべく疲れを見せないように結弦に話しかけた。椅子に座るように勧めるが、何かを迷うように、彼は立ったままだった。
「何かあったのですか?」
 青白い顔で立ち尽くす結弦に梓弓は不審感を覚える。
 何かあったのだろうかと心配になり、梓弓はじっと結弦を見た。
 結弦は結弦で、梓弓の白衣を痛々しそうな表情で見詰めている。
「水原さん?」
 梓弓が一歩、歩を進めると、結弦ははっとして梓弓の顔を見た。
 何かを言いたそうに、けれど何も言えずに、視線を泳がせる。
「何かあったのですか? 長瀬先生に連絡を入れましょうか?」
 何かが起こり、頼る医者のいない結弦が梓弓を尋ねてきたのだろうかと考えた。
「いいえ……、そうではないんです」
 結弦はけれど、首を振り、梓弓の申し出を断った。
 口調がしっかりしていることで、とりあえず梓弓はほっとする。
「何かお困りですか?」
 重ねて訊いてみるが、結弦はやはり口を閉ざしたままで、尋ねてきた理由を話そうとしない。
「私はもう勤務を終えましたから、このまま帰るつもりです。水原さんがお急ぎでなければ、着替えてきますので、このまま待っていて頂けますか?」
 とにかく病院から出よう。そう考えた梓弓は、結弦に待っていてくれと頼んだ。
 迷いながらも梓弓を見ていた結弦は、弱々しく頷いた。
 それでは……、と梓弓が言い掛けた時、館内放送が流れた。
『外科の常葉木先生、外科の常葉木先生、院長室までお越し下さい』
 はっと梓弓は緊張する。
 普段、館内放送までして院長が梓弓を呼び出すことはない。それがあるということは……。
「申し訳ありません、水原さん。どうしても外せない用件が入ったようです。今日のところは……」
 梓弓は内心焦りながら、結弦に帰宅を促した。結弦の性格から、彼はすぐにも帰ると思ったのだが、結弦は今までの不安な様子とは打って変わって、強く首を振った。
「待っています」
「いや、それがいつ終わるともわからない仕事が入っていると思うのです。ですので、終わり次第、こちらから連絡を入れさせて頂きます」
「駄目です」
 結弦は今まで見せたこともないほど強く、梓弓の言葉を遮った。
 意外な結弦の態度に驚きながら、梓弓は目の前の青年を見つめた。
 か弱そうに見える容貌と身体つき。今まで抱いてきた印象も、それと変わりはなかった。
 そこに加えるなら、恐しいほど純粋なことだろうか。全てが混じって、水原結弦という、ピュアな青年を形作っている。
 どうしようかと迷っていると、再び館内放送が流れた。迷っているような時間はない。たとえオペ中であろうと、駆けつけなくてはならない事態なのだ。
「どこかへ行くのですよね。僕も一緒に行きます」
 必死で結弦は訴えかけてきた。
「いや、院長室に行かなくてはならないのです」
 梓弓はごまかそうとした。結弦には梓弓がこれから何をするのか、わかっているはずがないのだから。
 けれど梓弓の言い訳を聞いて、結弦は俯いて首を振る。
「駄目です。それだけではないはずです。でも、そこには行って欲しくありません」
「どうして……」
 梓弓は戸惑いながらも、これ以上議論を長引かせることはできないと判断した。
 待っている。友人が。多分、多くの人が。一刻を争う事態なのは、よくわかっている。
「わかりました。ついてきてください」
 梓弓は急いで部屋を出て、院長室へ向かった。うしろを結弦がついてくる。
 彼にこれほどの気概があることは本当に意外だった。今までの梓弓なら、それを疎ましく思っただろうが、相手が結弦だと、そうは思えないのが、梓弓自身不思議だった。
 できればついてきて欲しくないと思っている。
 それは彼が邪魔だからではなかった。
 危険な場所に結弦を連れて行きたくはないという、そんな過保護的な気持ちからだ。
 結弦をドアの外で待たせ、梓弓は院長室に入った。予想していた通りそこでは、院長と共に西中の部下である小池が梓弓を待っていた。
 警視庁捜査一課の警部である西中が、部下の小池を梓弓の迎えに寄越す訳はただ一つ。
 人質を楯に閉じこもるような事件が起こり、何かのトラブルで犯人側、もしくは警察の判断で医者が要求されているということだった。
 その現場には少なからず危険がつきまとう。梓弓は自分が納得して行くのだからかまわないが、他人を、まして結弦を危険な目に遭わせたくはなかった。
 簡単な説明を聞き、いつものように小池が案内するというので、一緒に出かけることにする。
 院長室を出ると、結弦は同じ場所で佇んでいた。
「小池さん、準備をしてきますので、この人と一緒に玄関で待っていてください」
 梓弓が頼むと、小池はとても驚いたようだった。今まで梓弓が誰かを連れて行くということがなかったので、びっくりしているのだろう。
 一番驚いているのは、梓弓自身だが。
「お願いします」
 念を押すと、小池はわかりましたと返事をして、結弦にこちらですと案内した。
 結弦が振り返り、振り返りしながら小池について行くのを見届けてから、梓弓は外科の医務局に向かった。
 そこで応急処置できるだけの器具や薬をカバンに詰め込む。
 何がどんな風に必要になるのか、わからないので、どうしても荷物は大きくなってしまう。
 重くなったカバンを抱え、梓弓は玄関に向かった。医者であることを証明するために、白衣は脱がない。
 玄関では既に、小池も結弦も車に乗って、梓弓を待っていた。
 梓弓が乗り込むのを待って、覆面パトカーは発進した。
 バックミラーをちらちらと見ながら、小池は何かを言いたそうにしている。
 本当なら、この車中で事件のあらましを聞くのが慣わしになっているからだ。
 梓弓は黙ったままの結弦に気を遣いながらも、『どんな事件ですか』と尋ねた。
「バスジャックです」
 小池の言葉に結弦が肩を揺らせた。それに気づかなかった振りで、梓弓はそれで? と、先を促す。
「犯人は二人組みで、銃と刀を持っているようです。本日午後二時ごろ市バスが乗っ取られ、市内を迷走していたのですが、午後六時、J公園駐車場で停車しました。運転手が怪我をした模様です。怪我人を解放するように説得したのですが、聞き入れられず、医者の要求がありました」
 黙って梓弓が状況を聞いていると、横で結弦は細い指先で唇をつまんで何かを考え込んでいた。
「人質の数ははっきりとはわかりませんが、約十二名と思われています。男女比や年齢などもわかっていません。犯人はスキー帽で顔を隠しているため、まだ特定できていません。身体的特徴から、前科者、不審者の割り出しを急いでところです」
 説明を聞いているうちに、赤色灯が忙しそうに回転するのが遠目にも見えてきた。
 検問を小池は警察手帳を見せて通過する。
 駐車場内は一部が明るく照らし出されていた。その中に、緑色のバスが見えた。
 窓という窓のカーテンは固く閉ざされていて、中の様子を伺うことはできなかった。
 警察のバンの横で小池は車を止めた。バンの中から西中が降りてくるのが見えた。
「悪いないつも……」
 言いかけて西中は、梓弓に続いて降りてきた結弦に目をやった。
 彼は誰かと目が問うている。
「すまない、ここで保護していてくれないか。ちょっと訳ありなんだ」
 西中は眉間に皺を寄せ、梓弓と結弦を見比べた。
 だが、西中も議論を交わす時間はないと判断し、梓弓にボールペン型のマイクを渡した。
「怪我をしているのは運転手だと思うんだが、どの程度かはわからない。くれぐれも無理はしないでくれよ」
「わかった」
 梓弓はバスへ向かおうとした。
 怪我人を犯罪現場の中で治療するために。そして、可能な限り犯人を説得、または警察に突入のチャンスを教えるために。
 それが警察の梓弓に対する要望の全てだった。
 今までにも数件、梓弓はこのような仕事をこなしてきていた。
 さすがに緊張はするが、不安はなかった。
 そんな場所に身を置くことで、医者としての自分を自覚できることのほうが、梓弓にとっては重要だった。
「駄目です。行っては、駄目です」
 梓弓の白衣を掴んで、結弦は引き止めた。
 梓弓は驚いて結弦を見た。
「水原さん、これも私の仕事なんです」
「駄目……、危険です」
 指先が白くなるほど、結弦は白衣を握り締めていた。
「ここで待っていて下さい。彼があなたを守ってくれますから」
 梓弓は西中を指差した。けれど結弦は白衣を離そうとしない。
「お願いです。やめてください」
 梓弓は困ったように西中を見た。早くしなければとわかっている。
 西中も二人の様子に苛ついているのがわかる。周りの警官たちだってそうだろう。
 やはりつれてくるべきではなかったと悔やんだ。
「水原さん、私はどうしても行かなくてはならないのです」
 梓弓は仕方なく白衣を握り締める結弦の手首を掴んだ。
「離してください」
 きつい調子で言うが、結弦はそれでも首を振った。
「駄目です。怪我をします」
「それも覚悟の上です」
「僕には視えるんです!」
 結弦は叫んだ。喉を切るような悲痛な声で。






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