結弦にレポートを渡してから三日目の夜。梓弓が病院から戻るのを待っていたように電話が鳴り、慌てて出てみると、それは父親からのものだった。
『病院から呼び出されたそうだね』
 今更何を訊きたいというのだろうと思いながら、梓弓はそうだと答えた。
 変わらぬ淡白な息子の返答に、電話の向こうで父親が苦笑する。
『会ったのか?』
 母親にあったのかという意味だろう。
「いいえ」
 梓弓は短く答えた。
『そうか……』
 溜め息が聞こえる。それで梓弓から何かを聞き出すことは諦めたらしい。もっとも、父親が知りたいようなことは、何も持っていないのだが。
『最近は、どうだ?』
「変わりありません」
 そう答えると、もう何も話すことがなくなったのだろう、父親も黙り込む。
「何か困ったことがあったら言いなさい」
 沈黙のあと、父親はいつもの台詞を言った。
 梓弓を見ると、彼はその言葉しか言わなかった。梓弓がどれだけ幼くても、そして成長しても。
 その言葉に梓弓はいつも首を横に振った。梓弓の周りには、困るようなことすらなかった。本当に何もなかった。
 たった一度、梓弓が願い出たのは、『一人暮しをしたい』と言った時だけだ。
 そのたった一度の願いは、世間体が悪いと父親によって黙殺された。梓弓はまだ高校生になったばかりだったから。
 しかし、あの事件のあと、結局梓弓は家を出た。自分の力で。
 結局それが決定的な家庭の崩壊になった。
 もともと『家庭』など皆無に等しかったが、梓弓が家を出たことで、父親は精神を壊し始めていた母親を病院へ入れ、離婚した。
 梓弓はもちろん、父親と同じ戸籍に入ることを承諾したが、成人すると同時に離籍した。
 一人になった時、梓弓はほっとした。
 これで一人になれたと、自由をはじめて知った。
 だから、放っておいて欲しい。心からそう願う。
 母親はもちろん、この父親にも。
「わかりました」
 こちらから連絡を入れることなどないだろう。たとえ、自分に何かがあったとしても。
 梓弓が答えを聞くと、父親は電話を切った。
 途切れた回線に梓弓は安堵する。深い溜め息がこぼれ出る。
 あと何度この苦痛を味わえば、あの人たちから解放されるのだろうと考え、すぐに打ち消した。
 もう、終わりだと思おうと。
 ネクタイを緩め、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出したとき、再び電話が鳴った。
「はい」
 父親との会話の余韻を引いていたため、梓弓の声は低く、憮然としたものの言い方になった。
『常葉木梓弓さんはおいででしょうか。僕は水原と申します』
 結弦の声は遠慮がちで、けれど少し緊張した響きをしていた。
 梓弓はその声を聞いて、張り詰めていた神経がほぐれるのを感じた。
「私は一人暮しですので、気軽にお電話下さい」
 声の調子を変え、梓弓は相手を萎縮させないように話しかける。
 結弦も自宅にいるためか、先日喫茶店で会った時よりも、声の調子は寛いでいるように感じられた。
『いくつか、専門用語が入っていまして、そのことについて教えて頂きたいのです。単語だけを訳していますと、前後がどうもあやふやな感じがして不安なもので』
 控えめな依頼に、結弦の人柄が表れているようで、梓弓の心は和む。
 初対面の『優しい人』という印象が変わることはなかった。だから尚一層、彼が抱えているだろう精神の不安を、梓弓自身も、取り除いてやりたいと思うようになっていた。
 長瀬が長期不在になった今、結弦はストレスを抱えた時、どうするのだろうかという心配もあった。
 二、三の質問を答えるうちに、電話では細かいニュアンスが伝わりにくいことに気がついた。
「お時間の都合がつくようでしたら、お会いしたほうがいいかと思うのですが」
 梓弓が提案すると、結弦は電話の向こうで迷っているようだった。
「お忙しいのでしたら……」
『時間は……、大丈夫です』
 ああ、そうかと思った。彼は人と触れ合うような場所に出かけたくないのだろう。
「病院まで来ていただければ、実際に器具とかをお見せできますが、いかがでしょう」
 病院内なら、余計な人にあまり会わないのではないだろうかと考えて、執拗だと思われないように誘ってみる。
『病院は、ちょっと……』
 結弦はそれまでの打ち解けた雰囲気をかき消すように、強張った声で答えた。
 カウンセリングを受けるのなら、病院には通い慣れていると思っていたが、そうではないらしいとわかって、梓弓は今度は反対の提案をした。
「では、自宅も近いようですし、私がそちらの近くまで出かけましょう。お近くに落ち着いて話のできる店とかはありませんか?」
 梓弓の今度の提案は結弦には受け入れられる範囲のものだったらしい。何度も礼を言いながら、喫茶店の名前を告げられた。
「お礼などとんでもないです。こちらからお願いをしたことですから、お手間を取らせているのは私の方です」
 結弦はその言葉に、また礼を言う。本当ならきりのない、同じ事を繰り返す会話は、梓弓にとっては忍耐を要するものだったが、相手があの青年だと思うと、少しも苦にはならなかった。
「では、明日。楽しみにしております」
 社交辞令でもなんでもなく、梓弓は心からそう言った。
 本当に、明日の約束が楽しみだった。
 父親からの電話で暗く沈んでいた心は、いつのまにか晴れていた。





 急患が相次ぎ、梓弓が約束の店に行く事ができたのは、待ち合わせの時間から、一時間も遅れてのことだった。
 病院から結弦の家に電話をかけたが、応答はなく、指定の喫茶店の電話も、問い合わせてみたが、登録されていないのか、わからなかった。
 さすがに一時間も遅れたのでは、もういないだろうと思いながら、梓弓は約束の店を訪れた。
 店に到着して気がついたが、喫茶店の名前を『フレグランス』と思っていたが、その前にフランス語の冠詞である『ラ』がつくらしく、正式名称で問い合わせなかったため、電話番号がわからないと言われたのだとわかった。
 飛び込むようにして店内を見渡すと、前と同じように一番奥の窓際の席に、結弦は座っていた。
 何か本を読んでいるらしい。
 俯き加減で伏せられた目を縁取るまつげが頬に影を落としていた。
 一瞬その姿に梓弓は見蕩れた。なにものにも汚すことのできない、清らかな姿だと思った。
 前にも、清潔な印象を受けたが、今は尚更に美しい、純粋な人だと思った。
 視線を感じたのか、結弦が本から顔をあげた。
「あ……」
 梓弓に気づいて、結弦が微笑んだ。はじめて見た結弦の笑顔に、梓弓は心の中が暖かくなるのを感じた。
 ここに来るまでは相手の気持ちを包んでやるとか、長瀬の代わりになろうとか、そんなことを考えていたが、それがいかにおこがましい事であったのかを思い知る。
 梓弓の方が彼を必要としていると感じた。
「すみません、遅れてしまって」
「大丈夫です。わかっていましたから」
「え?」
 何気なく返された言葉に、梓弓はふと疑問を感じて、相手を見つめてしまった。
「あ……、いえ……。多分、急な患者さんが入ったのではないかと思っていたんです……」
 俯いて顔を隠すようにして、結弦は言い訳をした。そんな必要などないのに。
「あ、ああ、実はそうなんです」
 梓弓は笑顔を消した結弦を元気付けるように話しかけた。
 梓弓の笑顔に肩の力を抜いて、結弦は顔を上げる。
 そして、持ってきたファイルから、梓弓の依頼したレポートと、まだ途中らしい、書きかけの幾枚かの用紙を取り出した。
「これがどんな器具かわからないために、この先の文章がなんとなく変になるように思うのです」
 結弦が指差した文字に、梓弓にとっては身近な器具を思い浮かべる。
 その器具の説明を図や絵を書きながら、結弦に説明する。
 結弦は右手で下唇をつまみながら、梓弓の説明を聞いていた。時折、わかりにくい点を訊き、自分でもメモを取った。
 結弦の書く文字は、梓弓の鋭角的で縦長の字とは正反対で、丸みを帯びた優しい文字だった。
 時折雑談を交えながら、話し込んでいるうちに、思っていたよりも時間が過ぎてしまっていた。
「すみません、お疲れでしたでしょう?」
 結弦ははっとしたように時計を見て、申し訳なさそうに詫びた。
「いいえ、私がお願いしたことですから。それに私も勉強になりました」
 梓弓は英文でも独文でも、直訳しかしなくて、味気ない文章になってしまうと思っていた。
 全体を見渡す結弦の翻訳の仕方は、梓弓にとって良い経験には間違いなかった。
「またわからないことがあったら……」
「いつでも連絡下さい。当直でもない限り、夕方からは時間を取れますから」
 本当にまた会いたいと思った。
 結弦と会っていると、心が安らぐ。結弦の持っている雰囲気が、よほど自分と合っているのだろうと思った。
 これでは本当に、カウンセリングを受けているのは自分だなと、梓弓は申し訳なく感じた。
 そして、相手もそうであればいいと願った。
 人付き合いが苦手だという彼が、自分と会う事が苦痛でない様子に、その願いは外れていないようにも感じるが、それは梓弓の判断できることではなかった。
「よろしくお願い致します」
 喫茶店を出ると、結弦は自分のマンションはこのすぐ先だと言った。指差したのは、ワンルームよりかは幾分広いだろうかという、ハイツタイプのマンションだった。
「お一人ですか?」
 立ち入ったことと知りながら梓弓が尋ねると、結弦は儚げに微笑んで頷いた。
「寂しさと安心と、共有ですね」
 何故本心を漏らしたのだろうかと、梓弓は自分の言葉に少なからず驚いていた。
 相手を驚かせたのではないかと見やると、結弦はやはり、目を見開いて梓弓を見ていた。
「すみません、つまらないことを言いました」
 梓弓が詫びると、結弦は慌てて首を横に振った。
 少し眺めの柔らかい髪が、梓弓の目の前で揺れていた。
「また……、会いたいです」
 傍を走る車の騒音に紛れ消えてしまうような小さな声だったけれども、それは確かに梓弓の耳に届いた。
「ええ、私も」
 梓弓は握手を求めて手を出した。もちろん、手を握り返してもらえると思っていた。けれど……。
 結弦は今にも泣き出しそうな顔で、差し出された梓弓の手を眺めていた。
 固まったように結弦は動かない。
 梓弓は苦笑して、手を引っ込めた。
「あ……」
 結弦はいよいよ泣き出しそうな顔をした。
「いいんです。なれなれしすぎましたね。すみません」
 結弦は尚も首を振り、意を決したように梓弓に手を伸ばしてきた。
「無理しなくていいんですよ。また、お会いした時に」
 梓弓は微笑みかけ、軽く会釈した。
 結弦は寂しそうに、けれどそのうちの幾分かはほっとしたように、軽く頭を下げてきた。
「それでは、また」
 梓弓は駆け去る結弦の背中を、温かい目で見送っていた。







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