『貴方だ!』 身体の中を電流が駆け抜けたように感じた。声が直接、心に響いた。ぴりぴりとこめかみが痛む。 梓弓は、その声を発しただろう目の前の人物を驚きと共に見つめた。 悪意は感じない。 むしろ、必死な想いが伝わってくる。 梓弓の驚愕を感じたのか、結弦は申し訳なさそうに、俯いた。 「どうぞ、おかけください」 梓弓は内心の驚きを押し隠し、努めて穏やかに話しかけた。 はっと結弦が顔を上げる。 「水原さんが話せるようになるまで待ちますから。どこにも行きませんから、どうぞ」 まだ顔色の悪い結弦に座るように促すと、彼はおろおろとしながらも、腰を下ろした。 それを見届けて、梓弓は結弦の向かいに座った。 二人の様子にどうしようか迷っていたウエイトレスが、座るのを見届けたように水の入ったグラスを置きにきた。それにコーヒーをオーダーして、梓弓は改めて結弦を見た。 結弦は縋るように梓弓を見ていた。 「もう、大丈夫ですか? よろしければ、車を呼びますが」 梓弓は優しく微笑み、話しかけた。 梓弓が話しかけると結弦は驚いたように目を開き、顔を俯ける。 「すみません……でした」 声は相変わらず細い。けれど、顔色は良くなってきている。倒れる心配はなくなったようだ。 「長瀬先生からお聞きになったとは思いますが、翻訳をお願いしてもよろしいでしょうか? スペイン語のレポートで、A4サイズで十枚なのです」 梓弓は言いながら封筒をテーブルの上に置いた。 「もし、体調が優れないようでしたら……」 封筒は差し出さずに、その上に梓弓は両手を置いた。押し付けることはできずに、相手の様子を見た。 「大丈夫です。朝、ちょっと……夢を見たもので。もう、大丈夫です。引き受けさせて頂きます」 結弦は再び顔を上げてしっかりと梓弓を見た。 今までのように頼りない表情ではなく、梓弓をしっかりと見つめてくる。 「では、よろしくお願いいたします。こちらが私の連絡先です」 梓弓はM総合病院の名刺に、自宅と携帯の電話番号を書き添えて、封筒と一緒に差し出した。 それを取ろうとする結弦の手は、戻ってきた顔色とは裏腹に、まだ震えていた。 梓弓は心配そうにその手元を見つめる。 こんな時、長瀬ならばうまい言葉も見つかるだろうにと思うと、結弦に対して申し訳無さが先に立つ。 「水原さんの連絡先も伺ってもよろしいでしょうか? こちらから急かすようなことはしませんので」 梓弓が尋ねると、結弦は慌てたように、脇に置いたカバンから、ボールペンを取り出した。 「すみません、僕、あの……、名刺を持っていませんので」 言いながら、ポケットから小さなメモ用紙を出した。 幾枚かをめくって、白紙のページを開く。ちらりと見えたのは、どれも単語のようだった。 「自宅の番号です。……携帯は持っていません」 結弦が書いた番号は、梓弓と同じ市内の局番だった。 「単語を書き留めておられるのですか?」 会話の糸口を掴もうと梓弓はメモ用紙を受け取りながら訊いた。 「ええ……、店の名前とか、興味の引かれた単語、はじめて見る言葉などは必ずメモをするようにしていて……」 俯きがちに、結弦は話し辛そうに話す。 警戒されているのだろうかと考え、梓弓は翻訳の依頼についてに話題を変えた。 「いつ頃までにお願いできますでしょうか。他の仕事もおありでしょうし」 「あ……。はい。一週間ほどお時間頂けますか? 出来上がり次第、連絡を入れさせていただきます」 「よろしくお願いいたします」 梓弓は微笑みかけ、運ばれてきたコーヒーに口をつけた。 ちらちらと結弦は梓弓を見ていた。何か話してくれるだろうかと思いながら、梓弓はゆっくりコーヒーを飲んだ。 貴方だと響いてきた声。あれは結弦の声を聞くほど、彼本人が発したものだと思う。 非科学的な事を信じない梓弓なのに、錯覚や幻聴などではないと、確信を持ってしまう。 それほどの必死な想いの正体が何なのか、知りたいと願う。 それは、自分が医者として感じることなのか、一人の人間として感じることなのか、梓弓にもわからなかった。 今わかることは、それほどまでに『呼ばれた』事が、不快ではないということだった。 話しかける言葉がなくて、沈黙がテーブルの上に落ちる。沈黙は重苦しいものではなかったが……。 流れるだけの時間に耐えられなかったのは、結局、結弦の方だった。 何も話せずに、結弦は席を立った。 「専門的な言葉など……、もしわからない言葉が出てきた時は、連絡させて頂いても……」 「もちろん、その時は遠慮なく連絡下さい。携帯が繋がらない時は、病院内におりますので」 梓弓も立ち上がり、レシートを取った。 「僕の分……」 結弦がポケットから財布を取り出そうとするのを手で制し、梓弓はレジに向かう。 「よろしくお願いします」 店の外で別れた。 立ち去りたい気持ちで、梓弓は結弦を見た。 結弦も同じ気持ちなのか、視線がぶつかった。 外で見ると、結弦の瞳は白目の部分が青みを帯びていて、瞳は黒く、綺麗に澄んでいた。 「それでは……」 肩に通行人がぶつかり、梓弓はそれに押されるように、歩き出した。 結弦がその背中が見えなくなるまで、見送っていることも知らずに……。 翌日、梓弓は弁護士と待ち合わせ、約束の場所へと赴いた。 病院というものは同じようなどこも同じような造りになってはいるが、ここはいつも一種独特だと梓弓は思う。 もちろん、治療が主体の梓弓が勤めている病院とは、その目的からして違うのだから、それも当然とは言えるのだが。 通された応接室は、五年前と何も変わることがなかった。 室内の装飾も、壁にかけられた絵も、窓から見える景色さえ。 そして、梓弓と弁護士の前に座った医者も。 ある患者の経過報告をしてくれるが、それは聞きたいことでもなかったし、良くなっているようにも、悪くなっているようも感じられなかった。 「いかがでしょう。会っていかれては?」 やがて、必ず訊かれるだろうと思っていた問いがかけられた。 それに対して梓弓は、しっかりと、ゆっくりと首を横に振った。 「会うつもりはありません。今も、これからも」 目の前の医者は気の毒そうな顔をした。梓弓を責めないでやろうという、そんな傲慢が垣間見える。 梓弓はどんなに酷く罵られてもよかった。そうしてくれた方がいっそ気が休まるとさえ思えた。 けれど相手はあくまでも、穏やかな医者であることを演じている。 「あなたも医師ならおわかりだと思いますが」 優しく子供を諭すような口調に胸の皮膚を引っかかれるような厭な感じがする。こういうのを虫唾が走ると表現するのだろうかと、梓弓は冷えた気持ちで考えていた。 「私は医者である前に、一人の人間です。ここにはそのつもりで来ました。まして、あの人の前では、医者であるつもりは欠片もありません」 自分の母親を『あの人』呼ばわりすると、医者は苦い物を噛んだような顔をした。 「しかしですね、常葉木さん」 「すべての話し合いは済んでいます。それを変えようとも思いませんし、今後も変わりません」 何度、こう言えばいいのだろう。 うんざりしながら、梓弓はそのうんざりさを悟られないよう、淡々と話すことに努めた。 きっと相手には、そして隣にいる弁護士にさえ、冷たい人間だと思われているだろう。 顔色さえ変えずに、母親を突き放す台詞を平然と言える男だと思われているだろう。 それで何も不都合はない。 そう思ってくれる方がありがたい。 彼らにはわからない。 どれほどの時間を、自分を押し殺して梓弓が生きてきたのかは。 どんな思いで医者を目指したか、目の前の医者にはわからないだろう。 学校でしか勉強できない環境があるなどと、隣の弁護士も思わないだろう。 家にいても、心の休まる時など一瞬もなかった。 自分の身の置き所がないなど、味わったことがあるのかと訊いてやりたい。 親にも自分の存在を赦して貰えない子供がいるのを知っているのかと問うてやりたい。 けれど、梓弓はそういう全ての感情を誰かに見せることができない。 いつもひっそりと佇む事しか教えられなかったから。 そうしなければ、居場所を与えてもらえなかったから。 憎むことにも疲れた。 愛情を欲しがることは、そのずっと前に諦めていた。 ただ、『彼』を救いたいという想いだけを心に生きてきた。 それすらも、自分を認めなかった母親を見返すためだったかもしれないと、自覚した時、どれほど苦しんだか……。 それを救ってくれたのが自分のただ一人の友人である西中や、医学部に通い始めた梓弓の様子が痛々しいといち早く気づいてくれた長瀬だった。 彼ら以外に梓弓は人との接触を頑なに拒んだし、誰一人として信用できなかった。 そのまま生きていき、目の前を通り過ぎる患者を一人でも多く救えればいいんだと、それだけで生きていた。 そんな生き方を、今更母親というだけで、自分を生んだというだけで、邪魔はされたくない。 父親のように、婚姻を解消するだけで他人になれるなら、いくら金を要求されても払うのにとまで思っていた。 実際、彼女がこの病院で一生を過ごすだけのお金は、父親が慰謝料として支払っている。 それでもなお梓弓が呼ばれるのは、治療という名目としてだけだ。 「どうしても、会ってやっては頂けませんか? それだけで患者の今後に光明が見えるとしても?」 こちらにも人格はある。 私はあなたの薬としてしか存在できないのか。 そんな台詞が心の中に浮かんだが、努力して飲み込んだ。 もう……、憎しみを抱きたくない。 それは自分の心の中に存在しない。 そう思いたいのだ。 一人で生きていくことを邪魔しないでくれ。 ぎりぎりと痛む気持ちを辛うじて収め、梓弓は再度首を振った。 「私は、あの人の前には存在しないのです。会ったとしても、お互い、混乱するだけです」 「そろそろ時間ですね。これ以上、面会を強要されるようでしたら、人権保護の申し立てを致します」 弁護士の申し出に、医者は溜め息をついた。 「残念です」 それには返事をせず、梓弓は立ち上がった。 軽く礼をして、応接室を出た。 あまり消毒液の匂いのしない病院だなと思いながら、廊下を進む。 だからきっと、病院なのに違和感があるのだろうと思い、ロビーを横切り、玄関を出た。 もう二度とこない。毎回そう思うのに、何年かに一度は呼び出される。 その度、不毛な会話を繰り返し、母親には会わずに病院をあとにする。 心の中に残るのは、耐えようもない疲労だけだった。 |