First Mission 〜出逢いは奇跡か運命か〜










 哀しい声が聞こえる。

 泣いているのは、誰?

 どこにいるの?

 泣かないで……










 俺は、ここにいるから……。










 夢を見ていた。
 夢の中で響く泣き声で男は目が覚めた。
 小さなベッドヘッドの明かりだけが灯る薄暗い室内に、電話の音が心の中にまで響くように鳴り渡っている。
 夢の中で泣き声だと思っていたものの正体は、この電話の音だったのだと気がついて、彼は起きあがり、軽く頭を振った。
 嫌な夢を追い払うように。
「はい」
 とりあえず音を止めるために、電話に出る。習慣で目をやった時計は、午前三時をさしていた。
『救急搬送です』
「すぐに行く」
 受話器を置き、椅子にかけてあった白衣を羽織って、彼は目頭を指できつく押した。
 簡単に手櫛で髪を整え、仮眠室を出た。救急処置室に向かいながら、白衣のボタンをとめた。
 白衣の胸ポケットには『常葉木』というネームプレートがついている。
 すらりと伸びた長身に端正な容貌。その中でも強い印象がするのは、その目だ。きつくつりあがってはいるが、瞳は鳶色で澄んでいる。
 起きたばかりとは思えないほど、しっかりとした足取りで歩く。煌煌とした照明の中では、看護婦たちがあわただしく救急車を出迎える準備をしているだろう。
 ぎゅっと手を握り締め、常葉木梓弓は救急処置室へと足を踏み入れた。誘導灯だけの暗い廊下から、明るい処置室へと入ると、一瞬自分の体が光に包まれたように、何も見えなくなる。
 その一瞬が彼は好きだった。
「あと五分で到着します」
 カツカツと靴の音を響かせて進む。彼が生きる術として選んだ、自分の戦場へと。





 宿直の勤務のあと、気になる患者の回診を終えた時にはもう、昼近くになっていた。外科医に割り当てられた医務局に戻ると、疲れが一気に押し寄せてくる。
 梓弓は椅子に座り、ぐっと背を反らした。背骨が軋みをあげる音が、体内から響いてくる。
 机の上には読み始めたばかりのレポートが広げられている。そして、それを翻訳するためのスペイン語辞書。
 最初は何とかなるだろうとたかを括っていたが、早々に音を上げた。じっくり取り組めば、翻訳できないことも無いだろうが、まず時間が惜しい。
 翻訳に費やす時間があるなら、より多くの手術例の研究をしたいと思った。
 けれど、このレポートもまた必要なのだった。
 難病を克服した、それも医療と患者との連携が欠かせない例だと思えば、読まずにはいられない。
 ふうと溜め息をつき、梓弓はレポートを持ち上げて、眺めてみる。
 やはりどこか翻訳をしてくれる会社に頼もうと思い、封筒を探していた時だった。
 デスクの上の電話が鳴った。
「はい」
 電話を取った梓弓の顔が、相手が名乗った途端、強張っていく。
「その件は弁護士に任せています」
 それだけで電話を切ろうとした梓弓だが、相手は尚も電話の向こうで食い下がる。
「私に言われても困ります」
 だが、あくまでも梓弓の返答は抑揚もなく、事務的に返されるだけだった。
 相手は梓弓の言葉にも怯まず、マシンガンのように言いたことを並べた。
 このままでは『YES』と言うまでかけ直してくるだろうとうんざりしながら、梓弓は渋々会う約束をする。
 相手は感謝の言葉を述べ、今までの執拗さが嘘のようにあっさりと電話を切った。
 受話器を置くと、それだけで憂鬱が気持ちの中を支配する。
 けれど疲れている場合ではないと思いながら、梓弓は急いで帰る用意をした。病院から私用の電話、しかも絶対に知られたくない種類の話をすることは憚られた。





 自宅に戻り、梓弓はいつも世話になっている弁護士に連絡をとった。約束の日時に同伴してくれることを依頼する。
 弁護士の気の毒そうな、それでいてどこか非難も混じった声色に適当に相槌を打ちながら、近況も知らせておく。特に代わり映えのしない近況ではあったが。
 弁護士と連絡を終えたあと、続けて梓弓は大学の恩師である長瀬に連絡を入れた。
 梓弓自身は長瀬の教え子とは言えない。
 梓弓は最初から外科医を目指していたし、長瀬は心療内科医として教授に就いていた。
 それがどうして付き合いが今も続いているのかといえば、それは今朝の電話に無関係でもなかった。
 長瀬に連絡を入れようと思っていた時にかかってきた電話は、皮肉といえば皮肉ではあった。虫の報せという、非科学的な言葉をつい思い浮かべてしまうほど。
 医者を志した頃、梓弓はそれを根底から突き崩す試練に見舞われた。それを乗り越えられたのは、長瀬のカウンセリングを受けたからだし、医者として導いてもらったからだ。
 久しぶりの連絡を喜ぶと同じに、無沙汰も軽く咎められて、梓弓は詫びを入れる。
 長瀬の声を聞いただけで、梓弓の心は軽くなっていく。
 自分では意識していなかったつもりが、やはり心の負担になっていたのだろう。
 さっきまではあまりの偶然に嫌気が差していた梓弓だが、長瀬の声に慰められると、その偶然さえありがたく思えた。
『それで、どのような用件かね?』
 つまらぬ会話で忙しい時間を使ったことに悪いねと言いながら、長瀬は梓弓が電話をかけてきたわけを訊いた。
「実は、先生ならどなたか紹介して頂けるではないかと思いまして。一つレポートを持っているのですが、それがスペイン語で、どうしても翻訳に時間を取れないのです」
『あぁ、翻訳か。そうだなぁ』
 電話の向こうで長瀬はううむと唸りながらも、何か紙を繰る音が聞こえてきた。きっとアドレスブックなど心当たりを探してくれているのだろう。
 スペイン語ねぇと言いながら心当たりを探していたのだろう長瀬の動きが止まった。電話の向こうが急に静かになる。
『……そうだなぁ…………』
 そして、長瀬にしては珍しく、何かを逡巡している様子が伝わってきた。
「何か不都合が?」
 梓弓は長瀬に迷惑をかけてまでも頼みたいわけではなかったので、謝罪して電話を切ろうかと考えた。
『君なら、大丈夫だろうか……』
 沈黙のあと、長瀬はそれでも迷っているようだった。
「先生にご迷惑をおかけするのでしたら……」
 梓弓が断ろうとすると、長瀬はそうではないのだと言った。
『優秀な翻訳家がいるのだけれどね、ちょっと人付き合いが苦手な人なのだよ。君より少し若い男性なんだが。時折カウンセリングを受けに来る、私にとっては患者さんでね』
「それでしたら、先生にレポートをお預けしていいでしょうか」
『いやぁ……、それがね……』
 長瀬は言い難そうに、これからしばらく留守になることを告げる。今その準備で、とてもそれどころではないらしい。
「お忙しい時に煩雑なことをお願いして申し訳ありません」
『君の頼みだから、何とかしてやりたいのだけれどね。向こうに連絡を入れてみるよ。できれば直接会ってくれないか?』
「しかし……、大丈夫でしょうか?」
 心療内科にカウンセリングを受けに来る男。無理に付き合わせて、悪化してしまっては、申し訳無い。
『うん、君なら大丈夫だと思うんだ。感情の起伏の激しい人が苦手なんだよ。初対面の人でも、そういうのはわかるらしい』
 それならば、自分はその翻訳家の眼鏡に適うかもしれないと考えた。梓弓自身、そういうタイプが苦手だから。
『とりあえず向こうの都合を聞いてみるよ。また連絡するから』
 梓弓のここ数日の予定を聞いて、長瀬は都合がつき次第、折り返し連絡をくれると言った。
「よろしくお願いいたします」
 幾重にも礼を言い、梓弓は電話を切る。
 一つ肩の荷を下ろしたように、ほっとした。
 それまで意識して感じないようにしていた疲れが身体に降り積もってくる。
 梓弓は簡単にシャワーを浴び、ベッドに寝転んだ。
 そろそろ夕暮れ時だろうか。カーテンを閉め切った室内には、外の気配が侵入してこない。車の音も、人の話し声も、マンション八階の部屋までは届いてこない。
 なのに、どこか遠くで泣き声が聞こえる。
 幼い子供のような、哀しい泣き声。
 眉間に深い皺を刻み、気のせいだと思いこもうとする。
 目を固く閉じ、その声を追い出す。
 寝返りを打ち、静かに呼吸を整える。
 眠りはゆっくりと訪れた。





 次の日、長瀬から電話があった。昨日はその翻訳家と連絡が取れなかったため、今日になったらしい。
 長瀬も急に予定が変更になったため、できれば今日中に会ってくれと言う。彼がだめなら、すぐにも次を探してくれるつもりらしい。
 梓弓も早いほうがありがたいし、夜勤明けで休暇だったため、会うことを承諾した。もしその人に依頼できなくても、その時は自力で探すからと、世話をかけたことを詫びた。
 水原結弦という相手の名前と、面会の場所である喫茶店の名と場所を確かめ、梓弓はレポートを手に、マンションを出た。
 明日はまた勤務があるが、明後日はまた休みで、その休みには憂鬱な約束がある。これで最後だと、何度思っただろう。それなのにどうしても縁を切ることはできなかった。
 己の身体の中を流れる血が呪うほどに憎い。
 ふと、街のショーウインドーのガラスに映った自分の厳しい顔に苦笑する。
 それでなくとも、相手は人が苦手なのだという。
 こんな恐ろしい顔をした相手だとわかったら、逃げ出してしまうかもしれない。
 患者を相手にするつもりで……。
 自分に言い聞かせ、軽く深呼吸する。
 目的の喫茶店を見つけ、梓弓は扉を押し開けた。





 店内に自分よりも少し若い男性という目印で相手を探す。
 まだ来ていないのだろうかと思い、時計を確かめると、約束の時間よりほんのわずか遅れていた。
 もう一度と思って見回した時、店内の一番奥、窓際の席で気分が悪そうに俯く男性の姿が目についた。
 梓弓はその男性に向かって歩み寄る。
 一歩一歩近づく毎に、彼の姿が良く見えてくる。
 かなり顔色は悪いように見えた。息苦しいのか、片手は胸を押さえ、もう片手は口元を覆っている。
 あまりの様子に、梓弓は慌てて、残り数歩を歩み寄った。
 そっと男の肩に手を置き、覗き込むように身を屈めて尋ねた。
「大丈夫ですか?」
 その途端、ふうーと、相手は大きく息を吐いた。
 息を整えるようにして、男は梓弓の方を振り向いた。
 優しい顔立ちに大きな目が印象的だった。聞いていた年齢よりは若く見えた。まだ学生だと言われても信じただろう。
 突然声をかけた梓弓に驚いたのだろうか、まじまじと見つめられる。
 意識するように呼吸を繰り返しているのか、肩と胸が上下を繰り返す。けれど、十分に酸素が行き渡っているようには見えない。
 まだ顔色はかなり悪い。唇が小刻みに震えているのが見てとれた。
 過呼吸になるのではないかと心配になった時、相手は息を飲み、震える唇を開いた。
「ありがとうございます」
 梓弓はまだ何も救助するようなことは言っていないのに、相手は礼を述べる。
 か細く、男性にしては少し高めの声は、外見と同じように優しい響きを持っていた。
 なるほど、こんなに生気の薄い人では、生き難いだろうと思う。
 何故だか梓弓には、彼が約束の相手だという確信がした。
「水原結弦さんですね? 常葉木です。お待たせしたようで、申し訳ありません。ご気分が優れないようでしたら、日を改めましょうか?」
 梓弓は喫茶店に入る前に自分に言い聞かせたように、患者を相手にするようにと、心の中で繰り返す。
「あ、大丈夫です」
 梓弓はとにかく相手を落ち着かせようと、肩に置いた手を離して、座らせようとしたが、結弦は梓弓が帰ると思ったのだろうか、膝をテーブルにぶつけるようにして腰を浮かせた。
 引き止めるように、梓弓の肘をつかんでくる。
 その時、梓弓の頭の中一杯に、昨日から響いていた泣き声が大きく響いた。わんわんとそればかりが押し寄せてきて、頭を締め付けられたようになる。
 けれど、その泣き声を突き破るようにして、一つの声が聞こえた。
 それは叫び声だった。
 悲鳴だと言ってもよいほどの必死の声。


『貴方だ!』




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