〜研究作文其の二十九〜

軽巡「鬼怒」の最後について


軽巡「鬼怒」は、1944年10月26日にフィリピンのレイテ海域で沈没しました。ちょっと戦史に詳しいかたは、「あれ?」と思われるかも知れません。1944年の10月22〜28日というのは、日本海軍が最後の総力をかけた艦隊決戦、「レイテ沖海戦」の真っ最中です。ですが、この作戦に参加した4艦隊(栗田艦隊、小沢艦隊、西村艦隊、志摩艦隊)の編成表には、「鬼怒」の名前は載っていません。
「鬼怒」は太平洋戦争最大の海戦と同じときに、艦隊が激しい戦闘を繰り広げている中、まったく別の任務を遂行中しており、激しい激闘の後に、海底に姿を消しました。本レポートはそんな、裏方任務を果たし続けた艦艇の一隻である「鬼怒」の最後について、簡単にまとめてみます。



1.軽巡「鬼怒」について

5500トン型軽巡は、太平洋戦争開戦時の日本海軍の主力軽巡で、ある艦は駆逐艦を束ねる水雷戦隊旗艦を、ある艦は同型艦で軽巡戦隊を編成し砲水雷戦任務に、またある艦は潜水戦隊の旗艦任務と、色々な任務につきました。
その1艦に当たる「鬼怒」は大正7年(1918年)の「八.六艦隊計画」で予算が認められた艦です。元々5500トン級は、その2年前の「八.四艦隊計画」で予算が認められた9隻(うち一隻はテスト艦である「夕張」)が最初で、「鬼怒」を含む3隻はちょっと遅れて予算が認められたことになります。
「鬼怒」は大正10年(1921年)1月17日に起工され、翌11年5月29日に進水、11月10日に竣工しました。5500トン級の第2グループ「長良」型の5番艦(5500トン級では10番艦)に当たります。

5500トン級の中の「長良型」の特徴として、「1.魚雷がそれまでの直径53センチから61センチに大型化」、「2.艦載機の搭載、その搭載方法の改良(艦橋に滑走台を設け、そこより発進)」、「3.艦橋構造の大型化」、「4.後部構造物の簡素化」等が挙げられます。
竣工時のカタログデータとして、
●速力 36ノット
●主砲 50口径3年式14センチ砲単装砲×7
●魚雷 八年式連装魚雷発射管×4 搭載魚雷16本
●高角砲 40口径三年式八センチ単装高角砲×2
●搭載機 艦上偵察機(実際は艦上戦闘機を搭載)×1

また、5500トン型の主機関は、「技本式ギアード・タービン」4基を装備するのが普通だったのですが、「鬼怒」のみ「ブラウン・カーチス式ギアード・タービン」を4基装備していました。この機関は重い上に、トラブルも多く、なかなか難物だったようです。

竣工後の「鬼怒」の行動は、昭和3年に軽巡の花形第二水雷戦隊旗艦を1回経験した程度で、あとは軽巡戦隊(大正期の第三戦隊や昭和初期の第八戦隊)に所属したり、兵学校や機関学校の練習艦として数回航海をしています。
昭和10年代初頭には、第一艦隊の1艦として、中国方面での艦隊行動を行ったあと、第四潜水戦隊旗艦となりました(昭和16年4月)。この所属で太平洋戦争開戦を迎えています。

その間に「鬼怒」は数度の改装を実施され、航空兵装の強化(中甲板に射出機を設置)や、あまり役に立ちそうになかった八センチ単装高角砲を下ろして13ミリ機銃に変えたり(これは友鶴事件の結果、重心を下げる意味もあったかと思います)、第四艦隊事件の影響(鬼怒も損傷を受けました)で艦体の強化を実施、あと後檣を三脚マストにしたり、25ミリ機銃を装備したり等々。
昭和16年の段階で、艦齢は20年を越え、数次に渡る改装で排水量も7000トンを越えて速度も低下し、武装をはじめとする装備も既に限界と言えました。そのため、このクラスの軽巡の代替艦が建造されることになり、のちに「阿賀野」級として完成します。




2.開戦後の「鬼怒」の行動

開戦時の「鬼怒」第四潜水戦隊旗艦で、南遣艦隊に所属し、マレー方面の潜水艦作戦の指揮を取ったり、攻略船団の護衛任務についていました。イギリス東洋艦隊の2隻の戦艦を撃沈し、シンガポールを攻略した後、「鬼怒」はスターリング湾に移動し、ここからインドネシア攻略支援を実施します。この任務中に第十六戦隊(第二南遣艦隊所属)に編成変えとなり、以後沈没まで十六戦隊の1艦として活動することになります。

この十六戦隊、太平洋の主要海戦史にはほとんど登場しません。それはそうでしょう。第二南遣艦隊の基幹部隊として作戦していた、十六戦隊のホームグラウンドは東南アジア海域、「鬼怒」自身も激戦が続いていたガダルカナル海域には行った事がありません。昭和17年の夏に一度だけ、ラバウル・ショートランドに輸送作戦で行った事があるくらいです。

では何をしていたかというと、東南アジア各戦域の鎮定作戦の協力や、輸送作戦等。軽巡戦隊として5500トン級を集めた戦隊ですが、「球磨」「長良」「五十鈴」「名取」といった「鬼怒」の姉妹艦達とともに、仲良く戦隊を構成することになりました。
戦隊に編入された姉妹の中では一番新しかった「鬼怒」は戦隊旗艦となり、インド洋に進撃する機動部隊を横目に見ながら、4月4日ソロン、4月7日テルナーテ、4月8日ジャイロ、4月12日マノクワリ、4月17日ナビレ、4月19日サルミ等、西部ニューギニアやボルネオ地区の攻略戦(上陸支援)に参加していました。

1942年5月に一度呉に帰還して入渠し、艦の整備を実施して、またシンガポールに戻り、ベンガル湾やインドネシア海域で通商破壊戦に従事していました。この時期、戦隊の「五十鈴」はアラフラ海攻略作戦に参加したり、「長良」第十戦隊の旗艦に取り上げられたりと、各艦はバラバラに行動していることが多かったようです。
9月12日より戦隊の各艦は、バタビアよりショートランドまで陸兵を輸送しました。これが「鬼怒」が唯一南東方面で実施した作戦活動です。この際、一緒に出撃した「五十鈴」は、第二水雷戦隊旗艦として取り上げられ、戦隊を構成する姉妹は、また一隻減ってしまいました。
残った「五十鈴」「名取」「球磨」は、また南西方面に舞い戻り、陸軍部隊輸送や海上護衛任務に付きましたが、1943年1月9日に「名取」が、アンボン港外で潜水艦の雷撃により艦尾切断という損害を受け、応急処置ののち、「鬼怒」の護衛でシンガポールにドック入りしました。その後、舞鶴まで帰還し、以後1年以上の修理改装に勤しむことになります。
こうして、1942年3月に第十六戦隊を編成した姉妹艦5隻のうち、そのまま戦隊に残ったのは「球磨」「鬼怒」2艦のみとなってしまいました。


1943年4月15日に第十六戦隊南西方面艦隊の直接指揮下に入り、この時期にあちこちから戦隊に編入されてくる艦も増えました。まず、1943年3月15日に第九戦隊が解隊され、そこに所属していた「大井」「北上」が編入されてきました(ただし、「北上」は「丙号作戦」に参加するため、連合艦隊所属の時期もあります)。
この2隻は「鬼怒」と同じ5500トンクラスの第1シリーズ「球磨型」の艦で、相当古い艦でしたが、開戦前に艦隊決戦の切り札となるべく、「重雷装艦」に改装されていました。しかし、ここまでその雷装を振るう機会もなく、南東方面に向けて輸送任務についていました。

続いて、1943年11月に「青葉」が編入されてきました。第一次ソロモン海戦で勇名を振るった第六戦隊の最後の生き残りの重巡で、1943年4月3日のカビエン空襲で大破し、これまで呉で損傷修理をしていた艦です。
こうして、重巡1隻、軽巡4隻と戦力を回復した第十六戦隊は、再び南西方面の海上戦力の中心として、通商破壊・海上護衛・陸兵輸送とあちこちを駆け回ることになります。


「鬼怒」そのものは南西方面から動きませんでしたが、この間、艦長は変わったりしています。開戦時の艦長だった、加藤与四郎大佐(海兵43期)は、1942年12月に上原義雄大佐(海兵45期)に変わり、さらに1943年3月に板倉得止大佐(海兵42期)に変わりました。


ここまでたいした損害もなく、幸運にも無傷で作戦を続けていた「鬼怒」ですが、とうとう損害を受けることになりました。
1943年6月23日、マカッサルに陸兵を輸送してきた「鬼怒」は、B−24約10機の空襲を受けて、至近弾により小破します(戦死3名、負傷17名)。当時戦隊旗艦だった「鬼怒」は、旗艦を「球磨」に移して、スラバヤで修理し、さらに一旦、呉に帰投して再整備を受けることとなりました。



3.フィリピン作戦までの「鬼怒」の行動

1943年10月、内地で修理を行い、機銃等も増備して南西方面に帰ってきた「鬼怒」ですが、1944年に入り、相次いで悲報を受けることになります。
まず、1月11日にペナン海域で戦闘訓練中だった「球磨」が、イギリス潜水艦「タリホー」の攻撃を受けて、撃沈されました。
続いて、1月27日にアンダマン島への輸送作戦中だった「北上」が、マラッカ海峡でイギリス潜水艦「テンプラー」の攻撃を受けて中破し、ペナン輸送作戦の帰途通りかかった「鬼怒」に曳航されて、シンガポールに戻りました。
「北上」は、シンガポールでの修理の後、内地に帰投し、回天搭載艦として改装を受けることになります。

残る「大井」もインド洋で通称破壊戦なんかを実施していましたが、5月にシンガポールにあった南西方面艦隊司令部をマニラに輸送して、シンガポールに帰投中、アメリカ潜水艦「フィッシャー」の雷撃を受けて、マニラ湾沖で沈んでしまいました。

4隻を揃えていた第十六戦隊軽巡部隊は、とうとう「鬼怒」1隻となってしまいました。他に戦隊に所属しているのは、重巡「青葉」と、駆逐艦「敷浪」「浦波」(第十九駆逐隊)だけです。中部太平洋が火急となっていたこの時期、支戦域である南西には、ほとんど戦力が回らなくなっていました。

1944年2月に、艦長の板倉大佐が第一海上護衛隊に転出し、代わりに川崎晴美大佐(海兵46期)が、艦長となりました。竣工から数えて、第25代、そして最後の「鬼怒」の艦長です。
リンガ泊地でしばらく訓練した後に、インド洋に通商破壊戦に出撃しました。あまり戦果は上がらなかったようですが。その後、中部太平洋海域で輸送作戦を何度が実施したあと、タカランに移動して「日邦丸船団」の護衛作戦に従事しました(5月上旬)。
「日邦丸」は連合艦隊に所属している大型タンカーで、この後、「あ号作戦」に第一補給隊の一艦として参加します。

タカランを中心にボルネオ近海の輸送船団を護衛していた「鬼怒」ですが、5月30日には陸軍部隊の要望で、ミンダナオ島のサンボアンガ付近の山中にいるゲリラへ、艦砲射撃を実施しています。もっともゲリラ相手の艦砲射撃ですので、あまり効果があがらなかったようですが。

その後、6月1日にダバオへ移動し、ここで「渾作戦」に参加することになります。第十六戦隊が唯一、主作戦で主役を張ることが出来た作戦で、東部ニューギニアをほぼ制圧した連合軍が、次の拠点となるべく狙いを定めたビアク島に逆上陸を仕掛ける作戦でした。

ダバオで、第二海上機動旅団を搭載した「鬼怒」は、僚艦である「青葉」「敷浪」「浦波」とともに本隊(輸送隊)を編成し、ニューギニア北岸に沿って、東への進撃を開始しました。
しかし、途中で空母2隻を含む米機動部隊が近海で発見され、航空機の護衛のない逆上陸は無謀と連合艦隊が判断し、作戦は中止して、上陸部隊は代わりにソロンに揚陸されました。
結局、米機動部隊は誤報と分かり、作戦の再実施が検討されましたが、護衛の駆逐艦部隊は燃料を消費しきっており、アンボンまで後退して燃料補給中で、すぐに作戦は実施できない状態でした。ここで第一次の「渾作戦」は中止され、「鬼怒」はアンボンまで後退することになりました。

その後、7月2日にシンガポールに回航された「鬼怒」は、セレター軍港にある海軍工廠のドックに入渠し、装備の改装と整備が行なわれます。
ここで実施されたのは、まず爆雷投下台の改装で、三式爆雷用の投射機を装備したようです。この爆雷は海防艦用で鬼怒に搭載されたのかどうか不明ですが、幾つかの文献に記述があります。
その他、電探を装備したのが、この時期という記述もあります。前述のように1943年10月に呉に入渠して、各種の整備を行なっていますが、この時に装備したという説と、今回のシンガポールで装備したという説があり、どちらかははっきりしませんでした。ただし、装備した電探は、他の5500トン級姉妹と同じく、21号電探です。
また、あちこち痛んでいた船体の修理や、機銃の増備等も実施し、1944年7月24日にシンガポールを出港、リンガ泊地に向かいました。マリアナで敗れた連合艦隊が集結し、戦局打破のための作戦を練っているのが、リンガだったのです。

リンガで訓練に従事したあと、1944年8月は第十六戦隊は輸送作戦を実施しています。パラオの在留邦人をセブ島に輸送したり、サンベルナルジノ海峡の水路調査等を行いました。

そして、1944年9月25日、南西方面艦隊よりの電令で、第十六戦隊第一遊撃部隊・第一部隊に編入されました。いよいよ、連合艦隊最後の決戦、「捷号作戦」に参加を命じられたことになります。



4.「捷号作戦」時の「鬼怒」とその最後

シンガポールに一時入港して、再整備を実施、さらにインド洋方面で警戒活動を行なった鬼怒は、リンガ泊地で連合艦隊主力と合流し、訓練を実施します。
10月17日には「捷一号作戦」が発令され、連合艦隊主力はブルネイ泊地に移動しました。しかし、18日午後になり、第十六戦隊は、第一遊撃部隊から第二遊撃部隊へと編成変えとなり、南西方面艦隊の指揮下に復帰することとなりました。
この理由は、レイテ方面への緊急輸送作戦に従事させる作戦部隊が必要だったためです。ほとんど、連合艦隊主力と艦隊行動を取ったことがなく、ずっと南西方面の作戦に従事し、この海域について良く知っている第十六戦隊に白羽の矢が立ちました。

この時期の第十六戦隊の戦力は、「青葉」「鬼怒」「浦波」(第十九駆逐隊)の3艦で、所属していた駆逐艦「敷浪」は、9月に海南島沖で米潜水艦に撃沈されていました。

ブルネイを急遽出港した第十六戦隊は、警戒艦の「浦波」を先頭に、「鬼怒」「青葉」の順にマニラに向かっていました。これは、10月21日に受信した南西方面艦隊電令作684号によるもので、ミンダナオ島北岸のカガヤンにいる陸軍部隊を搭載し、レイテに輸送せよとの命令に従っての行動です。回航先はカガヤンですが、左近允尚正中将は一旦マニラに入港して揚陸用の小発を搭載することにしました。

しかし、マニラ入港直前の10月23日午前4時25分、米潜水艦の放った魚雷が、「青葉」の前部右舷機関室に一発命中し、航行不能・大傾斜の状態となりました。
艦尾左舷に傾斜して、上甲板ぎりぎりまで水面が来るような状態でしたが、辛うじて傾斜を食い止めることが出来、「鬼怒」は、「青葉」を曳航することになりました。
なんとか舫綱を渡し、横波に邪魔されながら、マニラ湾口に向かう速度はわずか4ノットで、途中でマニラに艦載機による空襲が実施されて、コレヒドール島の影に隠れながら、なんとか夕刻までにマニラのキャビテ軍港に到着しました。
当然、「青葉」は軍港で応急修理を行なうことになり、第十六戦隊の構成艦は、わずかに「鬼怒」「浦波」の2艦だけとなりました。戦隊の将旗も「鬼怒」に移りました。

予定通り、キャビテ軍港で小発2隻を後甲板に搭載した「鬼怒」は、「浦波」を従えて、24日未明に一路カガヤンに出港しました。


この頃、レイテ殴り込み本隊である、第一遊撃部隊は、パラワン水道で米潜水艦の攻撃を受け「愛宕」「摩耶」が沈没、「高雄」も大破してブルネイに後退していた頃でした。


マニラを出港した第十六戦隊ですが、その行動はマニラ湾を見張っていた米機動部隊に完全に察知されていました。出港30分後には、早くも米艦載機の空襲を受け、10時まで述べ三波、40機の空襲を受けることになりました。戦隊の2隻は、艦そのものには重大な損害を出しませんでしたが、艦橋を中心に連続した機銃掃射を受け、「鬼怒」は死傷者47名、「浦波」は死傷者25名を出し、重油タンクに破口を生じました。

セミフラ島の西で「浦波」の損害を修理していた頃、第一遊撃部隊大空襲を受け、「武蔵」が落伍沈没し、艦隊も急遽反転して後退していました

翌10月25日早朝、第十六戦隊は、モロタイ島より出撃したB−25が56機と、護衛のP−38が37機より空襲を受けました。執拗な水平爆撃を受けて、至近弾の嵐を掻い潜りながら、カガヤンに向かいました。
3時間に及ぶ対空戦闘で、「鬼怒」は40発近い至近弾を浴び、通信機の真空管が飛んだり、伝声管の中のサビがおちて、目詰まりを起こして聞こえなくなったりと、色々軽微な損害を受けていました。しかし、これだけの空襲を浴びて、直撃が一つもなく、「鬼怒」の錬度の高さを見せ付ける戦闘でした。

昼間にカガヤンに入港すると空襲を受けそうなので、退避行動を取って、夕刻にカガヤンに入港するように時間調節を行い、25日16時にカガヤンに入港、ここでカガヤン埠頭に接舷して、第三十師団に所属する歩兵41連隊を搭載しました。「鬼怒」が340名、「浦波」が150名の歩兵とその弾薬を搭載した後、1時間半後には出港し、いよいよレイテ島オルモックに向けて進撃することになります。


この頃、第一遊撃部隊米護衛空母部隊を蹴散らした後、レイテ突入を諦めて再反転し、サンベルナルジノ海峡を突破しようとしていました。


第十六戦隊が41連隊の陸兵を積んで、オルモックに向かおうとしている頃、同じ連隊の兵を搭載して一足先に先行している部隊がありました。第一輸送隊第二輸送隊です。
第一輸送隊は、一等輸送艦「六号」「九号」「十号」で編成され、第二輸送隊は二等輸送艦「百一号」「百二号」で編成されていました。それぞれ第十六戦隊が到着する1日前にカガヤンに到着し、徹夜で搭載作業を実施したあと、オルモックに向けて先行していました。しかし、日中航行となり、少数機とはいえ、数次にわたって空襲を受け続けることになります。


撤退を続ける第一遊撃部隊がシブヤン海からタブラス海峡を抜けようとしている、26日の夜明け前、第二輸送隊、第一輸送隊、第十六戦隊の順で、相次いでオルモックに到着しました。空襲を受けたとは言え、沈没艦はなく、全艦が無事にオルモックに陸軍部隊を揚陸し、5時には全艦オルモックを出港しました。
この際、第二輸送隊はさらなる輸送作戦を実施するために分離して、「百一号」はボホール島、「百二号」はネグロス島に向かいました。うち「百二号」はネグロス島北端のギマラス海峡で空襲により撃沈されています。


第一遊撃部隊がB−24に連続した空襲を受けていた頃、マニラに向かった第十六戦隊は、10時頃から艦載機(約50機)による空襲を受けました。
この航空隊は第一遊撃部隊等、日本艦隊主力を攻撃に向かう途中、たまたま第十六戦隊を発見し、急遽攻撃目標を変更したものです。この頃、戦隊はビサヤ海に到達しようとしていました。
最初に「浦波」が直撃弾を受けて炎上し、続いて、「鬼怒」も左舷後部に魚雷を一発受けました。これは緊急の応急措置が成功し、それほどの浸水にはならなかったようです。しかし、直後に相次いで艦後部に直撃弾を受けて、後部マストが吹き飛び、舷側はビームが曲がって、惨々たる有様となりました。防空火器も被害を受けて、対空火力も一気に低下しました。

後部機関室は蒸気が噴出し、舵取機も正常に作動しなくなり、12時には機関が停止して航行不能となりました。その直後には炎上していた「浦波」が爆沈し、艦首を持ち上げて海に沈みました。
夕刻17時、艦の傾斜はいよいよひどくなり、浸水が止まらなくなったため、とうとう「総員退去」が発令されます。
乗員が次々と退艦したあとの17時30分、「鬼怒」は艦首を高く上げてシブヤン海の底に沈んでいきました。
海に飛び込んだ「鬼怒」の乗員は、後続して空襲後、警戒配置についていた第一輸送隊の各艦に救助され、輸送艦3隻は沈没した2隻の乗員を乗せて、27日の昼前に無事にマニラに帰港しました。

また、この第十六戦隊を救助するために、コロンにいた駆逐艦「不知火」第二遊撃部隊から分派されて、溺者救助に向かいましたが、途中で空襲に遭い、撃沈されました。生存者は一人もありません。
また、この作戦に参加した輸送艦5隻のうち、輸送作戦を終えて内地に帰る事が出来たのは、「第九号」ただ一隻でした。大破した「青葉」は、応急修理を終えて、内地に帰還し、20年7月の呉大空襲で撃沈されることになります。

そして、マニラにたどり着いた「鬼怒」乗員は、マニラ大空襲で「那智」が港内で撃沈されるのを目の当たりにした後、さらに過酷な運命に翻弄されることになります。







後書き
最近陸軍ものばかりまとめていたので、たまには海軍ものをと思い、急遽まとめたレポートです。日本海軍の5500トン級は名前こそよく知られていますが、そのほとんどの艦の戦歴は、あまり語られていません。辛うじて、「神通」「川内」がソロモン海域で撃沈されているのが、語られる程度です。
当初、どの艦をまとめようか考えたのは、「那珂」「鬼怒」「木曽」の3艦でした。このうち、「木曽」は何時か書こうと思っている北方作戦の時に取っておくことにし、「那珂」は沈んだトラック大空襲を含めてまとみてみたかったので、これも後回しにし、結局、「鬼怒」にすることにしました。

「鬼怒」をまとめはじめて、やはり海戦に参加していない艦は、資料や戦記が少ないのを痛感しました。「鬼怒」は、太平洋海戦史にはほとんど名前の出てこない艦なので、あちこちから資料をかき集めて、なんとかでっち上げた感があります。 まあ、そういった艦を調べるのが、また面白い点でもありますので、今後も何かまとめていきたいと思います。今は「多摩」とかに、ちょっと興味があったりするんですけどね。
2002.6.26 佐藤裕紀



主要参考文献〜以下の文献に特に謝意を表します〜
  • 「丸別冊」大いなる戦場(太平洋戦争証言シリーズ11)/潮書房/1989
  • 「丸スペシャル」軽巡長良型2/潮書房/1979
  • 「丸」1995年4〜9月号/潮書房
  • 「軍艦青葉は沈まず」/竹村悟/今日の話題社/1985
  • 「戦史叢書 陸軍捷号作戦1」/朝雲新聞社/1970
  • 「戦史叢書 海軍捷号作戦2」/朝雲新聞社/1973
  • 「検証・レイテ輸送作戦」/伊藤由己/近代文藝社/1995
  • 「総括レイテ・セブ戦線」/清水三朗/戦史刊行会/1985


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