〜研究作文其の三〜

ビアク島支援作戦「渾作戦」について



昭和18年2月に日本はガダルカナル島を放棄しました。主戦線は中部ソロモン、ニューギニア、マーシャル・ギルバート諸島 の3方面となり、ソロモン、マーシャル方面は海軍が、ニューギニアは陸軍が主導して防衛することとなりました。この時点で はすでに連合軍の反攻体勢は整いつつあり、ニューギニア方面にも米・豪空軍が集中しつつありました。
連合軍は手始めに18年初頭にブナ・ラエを攻略し、以後、マッカーサー大将率いる大軍がニューギニアを西へ西へと攻略して いくこととなります。
この方面の陸軍は第十八軍(司令官安達二十三中将)と、第四航空軍 (司令官、寺本熊市中将、18年7月設立)が配備され、途絶しがちな補給と疲れきった兵員を駆使しつつ、何とか連合軍 の猛攻を防ごうとします。しかし、わずか3個師団(第二十師団(朝兵団)、第四一師団(河兵団)、 第五一師団(基兵団))で、機動力もなく、連合軍の飛び石作戦に対抗できずに押されて後退することとなります。
18年9月にはフィンシハーフェンが、19年4月にはホーランディアが連合軍に攻略され、ニューギニア方面の戦局は決定的な ものとなり、生き残りの航空部隊は西部ニューギニアへと撤退していきます。西部ニューギニア方面にはビアク・ソロン方面に 数多くの航空基地が設営されており、次期作戦として拠点化が図られていました。

この西部ニューギニアには第三六師団が守備についており、そのうちビアク島には 第222連隊が18年12月25日より守備に就いていました。この部隊は当時としても装備優良の精鋭部隊で、歩兵砲 中隊や戦車中隊も付属していて守備隊の中心となっていました。他に第二方面軍から高射砲1個 中隊、野戦飛行場設営隊3個が展開しており、海軍も第二八特別根拠地隊(第19警備隊、第33、105 防空隊、第202設営隊等の二千名弱)が守備についていました。
第222連隊長の葛目直幸大佐が守備隊の指揮をとっており、寡兵よく1ヶ月間の持久戦を指揮する こととなります。このビアク島には第四航空軍のために設営された飛行場が3つもあり、西部ニューギニアのガザ地区に設営中の飛行場 群(ソロン地区の南、地理的条件は絶好だったが、地盤が悪く、結局完成しなかった)とともに、この方面の守備的中心と目されていま した。
当然、連合軍もこの地区の重要性は熟知しており、アイケルバーガー中将率いる 米第1軍団が、ビアク島を攻略することとなりました。攻略部隊はフーラー少将 第41師団の2万名が担当し、第7艦隊の援護のもと、1944年5月27日に上陸を開始し ました。

米軍上陸後、守備隊との間で激しい攻防戦が始まりましたが、ビアク島を失うと日本側は西南太平洋と南部フィリピンの制空権を失うことを 意味します。なんとか完全占領を防ごうと陸海軍ともに援軍を派遣することとしました。陸軍側は2個大隊を大発動艇によって輸送しましたが、 時期と上陸場所がうまくいかず、結局失敗に終りました。海軍側は艦隊の護衛のもと、駆逐艦で強襲上陸を仕掛けることとなりました。 この作戦が「渾作戦」です。




当時、連合艦隊は連合軍との艦隊決戦である「あ号作戦」に邁進しており、その決戦地をどこにするかが問題となっていました。5月3日に 大海令373号で「あ号作戦」の指示が出ており、連合艦隊が発令したのは5月20日。ビアク島に連合軍が上陸した時点では、既に「あ号 作戦」は始まっていました。
当初、連合艦隊は「あ号作戦」の決戦地をパラオ近海と考えていました。理由は艦隊補給艦の不足からで、マリアナ方面での作戦は、燃料問 題から不安を感じていました。パラオで決戦を行う場合、ビアク島の整備された飛行場が連合軍の手にあるのでは、航空戦力比が大きく変わ ってきます。そのため、連合艦隊の航空乙参謀、多田篤次少佐がビアクにおける航空作戦を主張し、また陸 軍からの要請もあり、ビアク地区での作戦行動を実施することとなりました。
しかし、ビアク島を作戦範囲にしている南西方面艦隊では、これまでの作戦で航空戦力が枯渇しており、こ の時点で使用可能な戦力は、各種合わせて40機程度のみでした。そこで、「あ号作戦」の決戦兵力であった第一 航空艦隊(司令長官角田覚治中将)から約100機を増派することとなりました。「あ号作戦」前の 決戦兵力転用は、のちの戦いで大きく影響することとなります。

「渾作戦」はビアク島で苦戦している守備隊への増援ですが、増援される部隊は「第二機動旅団」でした。 この旅団はザンボアンガに待機しており、連合艦隊の指揮下に入っていた逆上陸専門部隊です。3個大隊を基幹に機関銃、工兵、戦車中隊が 配属された5500名の部隊で、反撃用の予備兵力としてとっておかれたものでした。
輸送するのは第16戦隊(司令官左近允尚正少将)が基幹となり、それに 護衛隊がつきました。

第一次渾作戦
輸送隊(指揮官第16戦隊司令官、左近允尚正少将)
輸送隊本隊
第16戦隊、重巡青葉、軽巡鬼怒、第19駆逐隊(敷波、浦波)、 駆逐艦時雨

輸送隊支隊
敷設艦津軽、厳島、第137号輸送艦、第36、37号駆潜艇

警戒隊(指揮官第5戦隊司令官、橋本信太郎少将)
第5戦隊、重巡妙高、羽黒、第27駆逐隊(白露、五月雨、春雨)

間接護衛隊
戦艦扶桑、第10駆逐隊(風雲、朝雲)
渾部隊の計画では6月2日にダバオを出撃、4日の夜にビアク島の到着して搭載部隊を強行上陸させる予定でした。連合艦隊司令部では、 まだ決戦方針についての異論が存在していましたが、陸軍の要請に加えてビアク島が連合軍の勢力圏になることについての影響が大きい と、決行を決めました。
しかしながら、艦隊がダバオを出撃したあとすぐの3日11時に、モロタイ島近海でワクデ基地から発進した米軍哨戒機に接触されます。 また、空母2隻を含む有力な米艦隊がニューギニア北西海面に遊弋中との報告が入り、3日の8時半に連合艦隊から作戦を中止し、陸軍部隊 をソロンに揚陸せよとの司令が届きます。
作戦部隊は止むを得ず、ソロンに入港し、陸軍部隊を揚陸し始めましたが、その直後に米機動部隊の報は誤報と判明、あわてて連合艦隊は作戦 の再興を命じましたが、既に部隊を揚陸して駆逐艦部隊は燃料補給のためにアンボンに向けて回航中であったため、結局第一次作戦は中止となり ました。
この中止について陸軍の憤慨はいうまでもなく、作戦部隊からも連合艦隊の弱腰についての不満が噴出していたようです。




第一次作戦の中止の要因となった米機動部隊を発見したのは、陸軍の司偵でした。その報告について改めて索敵を行なった結果は誤報と判明、 また陸軍や現地部隊からの再興要請も大きく、連合艦隊参謀長、草鹿龍之介中将は作戦部隊に改めて渾作戦を 指示、今度は駆逐艦のみの高速部隊で、陸軍部隊を急速揚陸することとなりました。これが第二次渾作戦です。

司令官は先と同じ左近充少将で、作戦部隊は第19駆逐隊の「敷波(旗艦)」「浦波」、 第27駆逐隊の「春雨(駆逐隊司令艦)」「五月雨」「時雨」「白露」の6隻に陸軍部隊600名を搭載し、8日の午前三時にソロンを出撃 しました。
この作戦に呼応して、ソロンに展開していた503航空隊の彗星艦爆10機弱がビアク島に空襲を仕掛けます。これには 202航空隊の零戦や飛行第24戦隊の飛燕がそれぞれ10機づつ程度護衛についての 進撃です。第一次、第二次の作戦双方に503空は協力しており、その作戦による被害が甚大なものでした。
さて、第二次渾作戦部隊は順調に進撃を続けていましたが、8日の正午頃にといにB25とP−38の25機程度の編隊に捕捉されます。27駆の「春雨」 が爆撃の目標となり、艦尾におそらく反跳爆撃のものと思われる直撃を受けて、艦首を逆立てながら轟沈しました。駆逐隊司令の 白浜正七大佐も戦史しました。また「白露」も小破しています。

爆撃で沈没した「春雨」の乗員を収容したのち、部隊はビアク島への進撃を再開します。しかし、既に連合軍のPB4Y飛行艇に接触を受けており、連合軍側 はイギリスのクラッチレー少将を司令官とする重巡「オーストラリア」、軽巡「ボイス」、「フェ ニックス」、駆逐艦14隻の部隊をビアク島近海で警戒態勢に当たらせました。
揚陸点のビアク島コリム沖に渾部隊が到着しようとしていた午後10時、満を持した連合軍艦隊は日本駆逐艦部隊に対してレーダー砲雷戦を仕掛けてきました。 双方右舷に敵を見ての反航戦でしたが、数が多い上に、レーダー射撃をしている連合側の方が圧倒的に有利で、小口径弾が日本駆逐艦に命中し始めます。渾部 隊指揮官は作戦を中止、駆逐艦5隻は全力で西方に避退を始めました。連合側も追撃し、戦史上あまり例のない、高速艦艇同士の鬼ごっこが始まったのです。
日本側も当たりはしませんでしたが、雷撃を断続的に実施しながらの避退で、長時間にわたっての高速機動戦が続きました。9日の夜三時頃には日本艦隊は連合軍 の追撃を振り切り、この作戦での被害の拡大を何とか免れました。しかし、「白露」「敷波」「時雨」に若干の損害が出ており、部隊の揚陸も失敗したことから、 第二次渾作戦は結局作戦目的を達成することは出来なかったといえます。




2度の渾作戦が失敗した6月9日、テニアンに展開していた121空千早猛彦大尉は、艦偵彩雲 でメジュロ島を強行偵察し、在泊の米機動部隊の出撃を確認しました。出撃した米艦隊はニューギニア方面へ侵攻してくる可能性も高いと判断、連合艦隊はこれをパラ オ方面に誘致して、臨む決戦場で「あ号作戦」を実施しようと画策、第三次渾作戦を実施して米艦隊の注目を集めて、こちらに米艦隊を向わせようとしました。
さて、過去2回の渾作戦では兵力の出し惜しみから、意図していた作戦が実施できなかったと思われたので、今回の作戦には大規模な戦力の増強が行われました。 すなわち、第一戦隊大和、武蔵第二水雷戦隊という水上艦隊 の主力を付ける事としたのです。この結果、第三次渾作戦には、戦艦2隻、巡洋艦5隻、駆逐艦8隻、その他という有力な部隊となり ました。

第三次渾作戦(指揮官、第一戦隊戦隊司令官、宇垣纏中将
攻撃部隊
戦艦「大和」「武蔵」、重巡「妙高」「羽黒」、軽巡「能代」、駆逐艦「沖波」「島風」「朝雲」
輸送部隊
重巡「青葉」、軽巡「鬼怒」、駆逐艦「満潮」「野分」「山雲」、敷設艦「厳島」「津軽」、第三六号駆潜艇、第127号輸送艦
補給部隊
油槽船第二永洋丸、第三七号駆潜艇、第三〇号哨戒艇
新編成された渾部隊は6月12日にはハルマヘラ南方のバチャン泊地に入港し、作戦準備にかかりました。この前日の11日に米機動部隊はマリアナ諸島に対して、大空襲 を実施し、マリアナ諸島攻略の第一段階に入りました。しかし、連合艦隊司令部はこの攻撃をいつものヒット・エンド・ランと分析、大事な初動段階で決定的な遅れをとる こととなります。
第三次渾作戦は6月10日に発動しましたが、11日から始まったマリアナ空襲は12日、13日と継続して実施され、13日からはサイパン沖合いに連合軍艦隊の姿まで 出現したことから、連合艦隊はマリアナへの本格侵攻と判断、13日に「渾作戦」中止、「あ号作戦」発動が全軍に命じられ、連合艦隊はマリアナ沖の決戦に出撃していき ました。渾部隊も原隊復帰を命じられて解散、ここにビアク島の救援作戦は潰えたのです。




この作戦の統括としては、まず連合艦隊の作戦に対する一貫性のなさ、作戦の優柔不断さが目に付きます。決戦場について、左往右往した あげく、決戦兵力として整備した貴重な基地航空隊を逐次投入して消耗し、ただでさえ乏しかった燃料事情をさらに悪化させました。
ビアク島の重要性は認知されていましたが、そのことに対して、海軍側が特別な配慮を払ったような痕跡はほとんどありません。渾作戦そのものも、現地将兵を3度もぬか喜び させた挙げ句に失意のどん底に落とすようなこととなりました。
連合艦隊はこの後、マリアナ沖で史上最大の空母決戦を挑み、大敗します。その影に隠れる形で渾作戦というのは、ほとんど注目されませんが、連合艦 隊の作戦の欠点についてがはっきりと出ている戦場のテストパターンといえると思います。

なお、この後、救援を絶たれたビアク島守備隊は大いに奮戦し、連合軍は1万名近い損害を払って、8月20日、マリアナ沖海戦が終結して2月後にようやく全島を占領しました。 この作戦に参加した、左近充少将は終戦後、捕虜虐殺容疑で戦犯として刑死し、宇垣中将は終戦当日に彗星艦爆で米艦隊に特攻しました。マリアナ沖の前哨戦としての意義とともに、 日本艦隊はこの敗戦で、完全に戦場の主導権を失ったともいえます。




後書き
ちょっと、はしょった部分もありますが、ようやく渾作戦の記述が終了しました。マリアナ海戦ものの本を読むと、ほんの少しだけ出ている作戦なのですが、こうしてまとめてみると なかなか奥の深い作戦でした。日本の作戦指導の短所がよく出ている作戦ですね。

主要参考文献〜以下の文献に特に謝意を表します〜
  • 「丸別冊」玉砕の島々(太平洋戦争証言シリーズ6)/潮書房/1987
  • 「丸」95年9月号/潮書房
  • 「丸別冊」「玉砕」日本軍激闘の記録(戦争と人物17)/潮書房/1995
  • 「日米海軍海戦総覧」/新人物往来社/1995
  • 「機動部隊」(航空戦史シリーズ2)/淵田美津夫・奥宮正武/朝日ソノラマ/1982
  • 「マリアナ沖海戦」(航空戦史シリーズ52)/吉田俊雄/朝日ソノラマ/1985
  • 「駆逐艦戦隊」(新戦史シリーズ63)/遠藤昭・原進/朝日ソノラマ/1994
  • 「戦車戦入門−日本編」/木俣滋郎/光人社/1999


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