〜今月の特集〜
レイテ海戦以後のフィリピン方面海上作戦 |
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という訳で、最初の特集はレイテ戦についてです。といっても、
10月24日のレイテ海戦についてではなく、それ以後について簡単にまとめてみました。
実際にレイテ海戦については、様々な記事がでていますが、それ以後のこの方面の話というのは
あまり主題にされないみたいなので。
「捷一号作戦」の発動により、日本海軍は連合艦隊を中心として、総力戦に臨むことに
なりました。これはレイテに対する連合軍の上陸部隊を撃滅し、その意図を砕こうという
ものでしたが、結果は惨敗で、連合艦隊は崩壊してしまいました。
レイテ決戦が御破算となっても、レイテには第35軍の数万の兵が入っており、また、レイテ
を取られると南方とのシーレーンが崩壊することになります。艦隊戦はもはや不可能とはいえ、
航空攻撃と陸軍への支援によって、海軍はレイテ維持に望みを繋ぎます。
この方面の作戦指揮はマニラに司令部を置いた南西方面艦隊です。
元々、ペナンにあった、南西方面全般の作戦指揮にあたる戦略級の司令部なのですが、ニューギニア戦
に対応するために、19年2月に司令部をスラバヤに移し、さらに、比島決戦のために、19年7月に
マニラへと移動しました。南西方面艦隊はレイテ決戦に対する各種作戦指導を行っていましたが、情報
量の不足と硬直化した作戦指導によって、後手後手にまわり、あたら損害を出していきます。もっと
も、これはこの時期の日本海軍全体に言えることなのですが。
レイテ海戦後は、フィリピン方面はさながら落ち武者狩りの様相を呈してきます。そのいい例が11月
5日にあったマニラ空襲です。第38任務群の空母機がマニラに殺到、重巡「那智」
が撃沈、駆逐艦「曙」
が大破されました。これによって第五艦隊(司令官、志摩清英中将)は
その主力を失って無力化されてしまいました。 |
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戦場の主導権を完全に失っていても、レイテの戦局を再び取り戻す為、第14方面軍はレイテ決戦へ邁進
していきます。しかし、決戦はルソン本島から増援を送らなければ成立しません。そうして、陸海軍が残存
海上兵力を掻き集めて、レイテ輸送作戦を強行することになりました。
海軍側の作戦名称は「多号作戦」。南西方面艦隊の下に、付近の艦隊を結集
して、レイテのオルモック湾に強行輸送する作戦で、第九次まで実施されました。また、陸軍は独自に船舶部隊
を用いて、数次の輸送作戦を実施しています。
多号作戦の発令は10月29日、南西方面艦隊司令長官、三川軍一中将によって出されています(この直後、三
川中将は健康を害していたために、司令長官を大河原伝七中将に変わっています)。
この時点では第二次と第三次に当たる船団が発令され(第一次は多号前に発令されていた)、また、
その間にも小船団の編成が下令されています(NSB電令第三十号より)。
以下にその作戦の流れを挙げます。
- 第一次多号作戦
- 第一次作戦は二波に分かれています。第一波は10月24日〜26日、ちょうどレイテ海戦の真っ只中に行
われました。16戦隊の軽巡「鬼怒」、駆逐艦「浦波」と、
輸送艦「第6号」「第9号」「第10号」によって、ミンダナオ島カガヤンにいた第41連隊(マカス支隊)を
輸送しました。
敵機に襲われながらも、輸送自体は成功しています。しかし、帰路に16戦隊の2隻が空襲で撃沈され(10/26)、
救援に赴いた第二遊撃部隊(レイテ時の第五艦隊を中心とした編成部隊)の
駆逐艦「不知火」までもが、撃沈されてしまいました。ちなみに第16戦隊も第二遊撃部隊の所属です。
また、輸送艦「第102号」は、第102師団の司令部を輸送する予定でしたが、ネグロス島に向かう途中
で空襲に合って消息を断ち、第二波として出撃した輸送艦「第101号」は、
ボホール島の102師団の独立歩兵169大隊をオルモックまで運びましたが、揚陸後に撃沈されました(10/28)。
- 第二次多号作戦
- 陸軍の最精鋭部隊である第一師団の強行輸送作戦。マニラを10月31日に出撃、11月1日にオルモックに到着
し搭載部隊を揚陸、マニラに帰還しました。「多号作戦」で最も成功した輸送作戦でしょう。
総指揮は第一水雷戦隊の木村昌福少将で、参加艦艇は一水戦の
駆逐艦「霞」(旗艦)、「曙」「初春」「初霜」と、臨時編入の「沖波」
が警戒部隊。海防艦「沖縄」「占守」「第11号」「第13号」が護衛部隊で、この
10隻で、「金華丸」「香椎丸」「能登丸」「高津丸」の4隻の高速輸送船を護衛すること
となりました。
この作戦は是非成功させる必要があったので、オルモックに展開している船舶工兵第1野戦補充隊の派遣隊の他に、各輸送船に船舶工兵第21連隊を
分乗させて、急速揚陸に備えることとし、21連隊はその後のオルモック揚陸部隊の主力となります。こうした段取の良さや護衛各艦の働きによって、
「能登丸」1隻の喪失のみで、90%以上の作戦成功を見ることが出来ました。
この作戦で「能登丸」が撃沈された際、木村司令官が揮下の各艦を先に帰還させて、「霞」だけで漂流者の救助を行おうとした証言があり、指揮官先頭
の実戦型司令官であった木村少将の真価を見せるエピソードとして挙げられます。
- 第二次〜第三次間の小規模輸送船団
- 作戦名を付けられていないだけで、多号作戦には多くの小船団が出撃していきました。特に輸送艦「第9号」は何度もオルモックに突入し、35軍
の司令部を始めとして、多くの部隊を運んでいます。数多くの輸送艦の中でもっとも活躍した艦でしょう。また、輸送艦「第6号」「第10号」等も、
第1師団の残りや第26師団先遣隊を輸送していますし、陸軍の準備した機帆船部隊も輸送作戦に従事しています(機帆船は台風や空襲で全損しています)。
- 第四次多号作戦
- 本来は第三次の方が先に出撃する予定が、両船団とも準備に手間取り、先に第四次船団が進撃することとなってしまいました。輸送船は第二次に成功
した「香椎丸」「金華丸」「高津丸」に、26師団の主力を搭載し、やはり一水戦が守っていくことになりました。指揮官は木村少将、警戒部隊が一水戦
の「霞」「潮」に、二水戦の「朝霜」「秋霜」「長波」「若月」
の6隻で編成され、直接護衛隊に海防艦「沖縄」「占守」「第11号」「第13号」がつきました。
11月8日にマニラを出撃した船団は、当初は暴風雨のために航空機に接触されることなく順調に進撃を続けましたが、9日に天候が回復するとともに空襲を
受けます。P−38やB−25による攻撃は軽微な損害でしたが、輸送船に搭載していた大発(大発動艇)
が機銃で穴だらけになり、使用不能になったのです。
さらにオルモックに到着したときには、当地に使用可能な大発が5隻しかなく(暴風雨で土砂に埋まったという説や、
船団との連絡不備による準備不足によるものと言われています)、やむなく海防艦に兵員を移乗させて桟橋につけるという迂遠な
やり方を取らざるを得なくなりました。この時の一水戦の悲鳴のような電報を見ても、当時の揚陸作戦の困難さを表しています(
一水戦機密電報等)。
結局夜が明けてしまい、次々と敵機が襲い掛かって来る為、10日の10時半に揚陸作業は打ち切られます。この時点で人員の揚陸
はほぼ終っていましたが、携行兵器のみの上陸で、重装備はほとんど全く陸揚げできませんでした。さらにオルモック湾を出るか出
ないかという地点で、追い討ちのような空襲に遭い、「高津丸」「香椎丸」「第11号」を撃沈され、「秋霜」が大破しました。
26師団は着の身着のままの上陸となり、戦力として充分な力のないまま、消耗戦に飲み込まれていくこととなりました。
- 第三次多号作戦
- 大成功に終った第二次に続いて第26師団を揚陸しようとした作戦です。11月4日に大河原南西方面艦隊司令長官名で下令され、
第三次〜七次の実施が決定しました。この内、第三次多号作戦は26師団の一部と兵站部隊の輸送を行うこととなりました。
参加艦艇は「せれべす丸」「西豊丸」「泰山丸」「天昭丸」「三笠丸」の5隻を、警戒部隊である
第二水雷戦隊の駆逐艦「島風」(旗艦)、
「浜波」「初春」「竹」の4隻、護衛部隊の掃海艇「第30号」、
駆潜艇「第46号」の2隻の、計6隻で護衛していくこととなりました。指揮官は第二水雷戦隊司令官
、早川幹夫少将がとることとなりました。早川司令官以下、船団幹部は、直援機のない突入は成功の見込みなしとして、オルモック
突入に反対しますが、暴風に隠れていけば大丈夫だと、強硬な南西方面艦隊司令部に押し切られ出撃することとなります。結局、船団側の
判断が正しかったことが後から判明するのですが。
第三次船団は準備のために第四次船団よりも1日遅れて、9日にマニラを出港、豪雨の中進撃しましたが、10日の夜明け前に「せれべす
丸」が座礁してしまいます。駆潜艇「第46号」が警戒に当たり、他の艦は進撃を続けましたが、「せれべす丸」は離礁できすに、天候が
回復した10日午前中に空襲に遭い、なぶり殺しのように撃沈されてしまいます。この船に乗っていた兵員は帰路についていた第四次船
団に救助されました。
残りの船団は、途中ですれ違った第四次船団の護衛艦、「長波」「朝霜」「若月」を護衛に加えてオル
モックに進撃していきます。その代わりに「初春」「竹」の2艦は第四次船団に加わり、マニラへ
帰投しました。この時点で護衛部隊は、駆逐艦5隻、掃海艇1隻になりました。
オルモック目前で雲霞のような空襲に遭遇し、輸送船は次々と撃沈されていきました。輸送船を全て沈めた米軍機は、護衛艦にも襲い掛かり、
40ノットを誇る最新鋭駆逐艦である旗艦「島風」を始め、「朝霜」以外の全艦が11日未明から始まった空襲で沈んでいきました。司令官
早川少将は「島風」艦橋で戦死し、二水戦幹部もほぼ全滅状態に陥りました。搭乗していた陸軍部隊も壊滅し、輸送作戦は完全な失敗に終っ
たのです。
- 第五次多号作戦
- 本来は増援である独混第68旅団の輸送に使われるはずの船団でしたが、第三次船団の壊滅に伴い、26師団の軍需物資輸送に使われる
こととなりました。この船団は2つに分かれており、投入された船舶は、第1梯団が二等輸送艦「第111号」「
141号」「160号」で駆潜艇「第46号」が護衛して、11月23日にマニラを出港、しかし、
24日午後、空襲を避けて島影に仮泊していたところを見つかり、空襲で4隻とも沈められてしまいました。
第2梯団は輸送艦「第6号」「第9号」「第10号」を、駆逐艦「竹」が
護衛して、11月24日にマニラを出港、25日に空襲に遭い「第6号」「第10号」が撃沈されます。「第9号」と「竹」も被害を受け、「
第9号」は被害によって荷役能力を失った為、「竹」の宇那木勁艦長は抗命覚悟で船団を引き返し、マニラへ帰投しました。
こうして、第五次船団もオルモックには辿り着けなかったのです。
- 第六次多号作戦
- 第六次も、第26師団の補充兵員と補給物資の輸送に投入されました。「神祥丸」「神悦丸」の2隻に
補給物資と兵員を満載し、駆潜艇「第45号」「第53号」、哨戒艇「第105号」の3隻が護衛して、マ
ニラを11月27日に出撃しました。
この船団は途中空襲に遭いながらも、なんとか全艦がオルモックに到着し、揚陸にも成功しました。しかし、揚陸後に空襲と魚雷艇の攻撃に
よってオルモックやセブ沖で全艦撃沈され、マニラには1隻も帰投できませんでした。
- 第七次多号作戦
- 今度は3つに分かれて出撃することになりました。特記すべきは、輸送船の主力が陸軍のSS艇だった
ことです。これらは陸軍の第1・2機動輸送隊に所属しており、SB艇
(海軍の二等輸送艦と同型)よりも少し小さな輸送艇で、船舶工兵同様、第三船舶輸送司令部の指揮下に入
って活動しています。SS艇「第5号」「第11号」「第12号」が、駆潜艇「
20号」に護衛されて、オルモックの東に位置するイピルに向かいました。途中「5号艇」が座礁しましたが、残り3隻は無事突入し、
薫空挺隊の一部である第1遊撃中隊を揚陸して、マニラに帰投しました。
続く第2梯団は、SS艇「第10号」「第14号」が先の送った第1遊撃中隊の残部と補給物資を搭載して、
イピルを目指しましたが、途中で米軍の魚雷艇に襲われて両艦とも撃沈されました。
第3梯団は、輸送艦「第9号」「第140号」「第159号」に野戦高射砲大隊や独立工兵大隊と搭載し、
第31戦隊・43駆逐隊の駆逐艦「桑」「竹」の2艦が護衛して、イピ
ルを目指しました。
イピルに到着し、揚陸作業中の午前三時に、米艦隊が攻撃を仕掛けてきました。その時、魚雷艇狩りに来ていた夜戦「月
光」がこの米艦隊を攻撃し、機銃掃射を始めました。「桑」と「竹」はすぐに警戒態勢にはいり、この米艦隊と交戦します。米艦隊は
第60水雷戦隊の「アレン・M・サムナー」「クーパー」「モール」と、魚雷艇4隻で、米駆逐艦3隻の集
中射撃を浴びて、「桑」は大破炎上します。一方の「竹」は、反航戦の状態に持ち込み、魚雷3本を発射して、1本を「クーパー」に命中させ、
撃沈しました。残りの米駆逐艦2隻は戦場を離脱し、「竹」も大破して「第9号」に真水の補給を受けつつ、3隻の輸送艦をまとめて、マニラ
に帰投しました(12/3)。
この海戦は日本海軍最後の魚雷戦であり、「オルモック夜戦」と呼ばれています。
- 第八次多号作戦
- この第八次輸送は第68旅団をオルモックに運ぶものでしたが、途中でオルモックに米軍が上陸したため、揚陸地をレイテ西岸のサン・
イシドロに変更しました。船団は「赤城山丸」「白馬丸」「第五真盛丸」「日洋丸」、輸送艦「第11号」の
5隻を、第43駆逐隊の「梅」「桃」「杉」と、
駆潜艇「第18号」「第38号」の5隻が護衛していました。
12月5日にマニラを出撃し、オルモック米軍上陸の報を受けて、揚陸地
をサン・イシドロに変更して、なんとか搭載部隊の揚陸を成功させようとしましたが、12月7日の朝、揚陸準備中に空襲に遭い、「白馬丸」が撃沈、残りの輸送
船も大破して、海岸に擱座しました。兵員の揚陸は成功しましたが、重兵器はやはり揚陸できず、68旅団は戦う前から戦力をほぼ喪失した部隊と
なってしまいました。護衛艦もマニラに帰投する途中に、また空襲を受け、「梅」「杉」が中破しましたが、なんとかマニラに帰投しました。
- 第八次多号作戦
- 第九次船団は当初、オルモック、ついでパロンボンそして、さらにオルモックへと揚陸目標が二転三転しました。連合軍がオルモックに上陸
し、南西方面艦隊や第14方面軍、35軍等の指揮が混乱したためのようです。船団は「美濃丸」「空知丸」「たすまに
や丸」、輸送艦「第140号」「第159号」「第9号」で編成され、内、「第9号」はセブに各種物件を届けるため、途中まで同行する
こととなってました。
搭載部隊は第8師団第5連隊を基幹とした「高階支隊」が輸送船3隻に乗船し、2隻の輸送艦には海軍陸戦隊の伊東部隊が乗
っていました。伊東部隊は逆上陸作戦のために訓練した部隊で、400名の兵員と特二式内火艇11両、噴進砲26門等を装備していました。
これらの船団を護衛するのは、第30駆逐隊の駆逐艦「卯月」「夕月」「桐」の
3隻に、駆潜艇「第17号」「第37号」の5隻でした。船団指揮官は30駆逐隊司令の
沢村成二大佐がつきました。
12月9日にマニラを出港した第九次船団は、当初、オルモックを目指していましたが、オルモックで激しい地上戦が展開しているとの報が入り、
急遽パロンボンに揚陸地点を変更しました。しかし、南西方面艦隊が強硬にオルモック揚陸を命じます(これは陸軍からの要望によるもののようです)。
オルモック目指して進路を取りましたが、パロンボン沖で空襲に捕まり、「たすまにや丸」「美濃丸」が撃沈され、「空知丸」は急遽パロンボンに
突入して急速揚陸を行いました。「空知丸」はその卓抜な行動で空襲よりすり抜け、搭載部隊を揚陸して駆潜艇2隻とともにマニラに無事帰還し
ました。この空襲の直前に、輸送艦「第9号」は単艦で船団から分離してセブに向かい、同地で甲標的や機銃、航空用補給品を渡し、魚雷艇乗員や
在留邦人等を乗せて、13日にマニラに帰投しました。
残りの船団はそのままオルモックに向けて突入しました。11日夜半に駆逐艦「夕月」「桐」、輸送艦「第140号」「第159号」はオルモック湾
に入り、オルモック西方のリオンで揚陸作業を始めました。やはり、オルモック湾で上陸作戦をしていた米艦隊と遭遇して、駆逐艦2隻は交戦状態に
入ります。この米艦隊は、第4水雷戦隊の駆逐艦「コールドウェル」以下5隻で、
「桐」と激しい撃ち合いになりました。双方ともたいした損害は出ずに、揚陸作業中に戦車の集中射撃を受けて大破した「第159号」以外の3隻は、
陸岸沿いを抜けて、オルモックから離脱しました。上陸した伊東部隊はオルモックを防衛していた今堀部隊と合流し、その装備を持って、敢闘したそ
うです(伊東部隊の結末は明らかではないため)。
帰投途中の3隻は帰りにも空襲に遭い、司令駆逐艦の「夕月」は撃沈されましたが、残りの2隻はマニラに帰投することが出来ました。また、パロン
ボンで溺者救助に当たっていた「卯月」は、オルモックに先行した船団の後を追っている途中、米魚雷艇の攻撃を受けました。米軍の
「PT−490」「PT−492」の魚雷が命中し、11日夜、轟沈しました。
この第9次船団のあとも第十次以降が計画されていたようですが、連合軍のルソン本島侵攻が始まったため、中止となりました。
この多号作戦の他にも、多種多様の輸送作戦が強行されています。特に陸軍は先に述べたSS艇(E型戦標船の改造型、海軍では海上トラックと呼ばれた)
の他に、船舶工兵第19連隊、第21連隊、第1野戦補充隊が、「大発」「小発」「特大発」「装甲艇」を駆使して
揚陸支援に、人員輸送に活躍しました。また、高速輸送艇(100トン程で、25ノットの高速を出す小型船。搭載力は30トン)
や、駆逐艇(通称「カロ艇」。合板製で高速の武装船)等まで繰り出してレイテ近海に投入しましたが、圧倒的な物量に
抗すべくもありませんでした。
また、このレイテ輸送作戦には、陸軍の輸送潜水艦も投入されました。日立製作所で建造された陸軍輸送潜水艦、通称「マルゆ」
はフィリピンには3隻が投入されています。270トンの排水量で40トンの貨物か歩兵1個小隊を輸送する能力がありました。しかし、元々陸軍が運用する
潜水艦という無理もあり、3隻投入された「マルゆ」のうち、レイテ輸送に投入できたのは「2号艇」1隻だけで、その「2号艇」も11月27日に、アメリカ軍
の第43駆逐隊の「ソーフレイ」「レンショー」「ウェーラー」「ブラングル」の4隻にオル
モック近海で撃沈され、残りの2隻もリンガエン湾に停泊していたところを空襲で撃沈されています。
レイテ輸送作戦のラストとなるのが、セブへの転進作戦、「地号作戦」です。すでにレイテでの地上戦は終盤に
向い、日本軍はレイテ西岸のカンキポット山を中心とした狭い地域に追いつめられつつありました。35軍はその司令部をセブ島に後退させるこ
ととし、まず第1師団が1月12日から19日にかけて、計4回、人員743名がセブに転進しました。これには船舶工兵第1野戦補充隊のわず
かな大発を用いて実施されましたが、大発が全て破損するとともに終了となり、残った数千の陸軍将兵はレイテの地に屍を晒すことになりました。
3月に入って、35軍司令部もセブへと後退し、この時点でレイテの組織的戦闘は収束したと思われます。またこの撤退作戦は第102師団長を
始めとする高級将校の無断撤退が数多くあり、醜態を晒しています。
レイテへの輸送作戦で沈んだ艦船は49隻にも上り、残された日本の輸送力をも圧迫することとなりました。
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レイテ近海には、日本輸送船団とともに、連合軍の攻略船団も多数活動していました。それらに対しては、航空部隊の特攻攻撃と共に、各根拠地
隊に所属している魚雷艇や特殊潜航艇が攻撃をかけることになりました。
当時、フィリピンに展開していた主な海軍部隊は、マニラに第31特別根拠地隊が、ダバオには
第32特別根拠地隊が、セブに第33特別根拠地隊が守備に就いており、うち、連合軍艦船と最も激しい戦いを演じ
たのは33特根です。この部隊には第12魚雷艇隊と他数隊の魚雷艇隊(第15・25・31魚雷艇隊の名前を幾つかの
書籍で見ましたが、しっかりした確認はまだ取れていないので)や、甲標的が配属され、米軍魚雷艇との戦闘や、輸送船団
攻撃に投入されました。元々、日本の魚雷艇は性能も戦術を米軍には遠く及ばなかったため、空襲による消耗もあいまって、魚雷艇はたいして活躍できなかっ
たようです。米軍魚雷艇との撃ち合いにほ日本魚雷艇は撃ち負けているようです。
一方、甲標的は連合軍輸送船団攻撃に出撃し、甲標的「第81号」は、オルモック湾で敵艦船を撃破しているようです。
これらは、一等輸送艦「第9号」でセブまで運ばれ、基地を建設していた第31潜水艦基地隊
を拠点にして出撃していきました。
一方、31特根はマニラの守備隊で、マニラの海軍後方部隊を歩兵部隊に改変して、悪名高いマニラ市街戦を演じました。これらは12月19日に南西方
面艦隊司令長官名で「マニラ海軍防衛隊」に編成され、人数だけは2万を超える部隊となったのですが、元々戦闘部隊で
ないため、2月3日から始まった米軍のマニラ奪回作戦にはまるで歯が立たず、1週間ほぼで壊滅しています。
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フィリピンの戦況は12月に入ってから、いよいよ過酷なものとなっていきます。12月15日にミンドロ島のサンホセに連合軍が上陸し、ルソン島に対する
攻勢作戦を準備することとなりました。このミンドロ島上陸部隊を撃破するために、海軍は軽快艦艇を中心とした艦隊を編成し、なぐり込みをかけることとし
ました。作戦名は 「礼号作戦」。最後の日本海軍の本格艦隊戦となった作戦です。
12月20日に南西方面艦隊司令長官大川内中将は、二水戦司令官、木村少将に対して、ミンドロ島突入作戦が下令されまし
た。これは「第二遊撃部隊」と呼ばれる部隊で、参加艦艇は二水戦の「霞」(旗艦)、
第2駆逐隊の「清霜」「朝霜」、第43駆逐隊の
「榧」「杉」「樫」と、重巡「足柄」、軽巡「大淀」の計8隻で、12月24日にカムラン湾を出撃しました。
二水戦司令部は第三次多号作戦で壊滅しており、一水戦の司令だった木村少将が横滑りしたものです。これらの艦隊を揮下に入れている
第五艦隊には、大型艦として重巡「妙高」「羽黒」もあったのですが、12月13日にタイ湾で「妙高」が潜水艦の
雷撃を受けて大破し、その曳航作業のため、「羽黒」がついてシンガポールに向っていたため、参加できませんでした。
第二遊撃部隊はミンドロ島に向けて、迂回行動を取りつつ接近していましたが、26日に空襲で「清霜」が大破、航行不能になります。小規模な空襲で損害を
出しながら、26日夜半にサンホセ沖合いに到達、巡洋艦の水偵を索敵に出しつつ、湾内に突入し、陸上砲撃と在泊の輸送船に対しての魚雷攻撃を実施しました。
輸送船に数本の命中を目撃したのち、艦隊は反転、魚雷艇と空襲を躱しつつ、分離してカムラン湾に帰投しました。帰路、先に沈没した「清霜」の乗組員を「霞」
「朝霜」の2艦が「一人も残さないよう」と、210名も救助しており、木村少将の指揮官の資質を表す美談として伝わっています(一部の乗組員は米魚雷艇
に救助されています)。
この作戦は日本艦隊が最後に成功させた作戦ですが、戦局には何の影響を及ぼさず、間もなく米軍はリンガエン湾に上陸することとなります。
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フィリピン海域での日本海軍の活動の拠点となったのが、マニラです。マニラには米軍が戦前から整備していたキャビテ軍港があり、コレヒドール
要塞によって泊地の防衛も考えられていました。また、クラークフィールド基地群も近くに存在し、日本海軍の一大根拠地と化していました。しかし、それだけ
米軍の目標となるのは当然で、米機動部隊や空軍に目の敵のように狙われます。特に11月13〜14日の米機動部隊によるマニラ大空襲によって、
軽巡「木曽」、駆逐艦「沖波」「秋霜」「初春」「曙」が沈められ、泊地の価値は一気に低下しました。
マニラは多号作戦の出撃地でもあり、フィリピン防衛のための船舶の集結地でもあったため、19年一杯は艦船の入港が盛んでしたが、20年になると米軍の
ルソン本島侵攻が始まり、フィリピンでの艦隊の活動も終止部を打たれることとなります。
そうした中、マニラからベトナム方面や台湾方面に脱出する艦船は、途中で米艦隊や空襲に遭い、かなりの数が撃沈されています。そんな中で、南西方面艦隊
から、マニラからベトナム方面に待避しようとしていた31戦隊の「檜」「樅」へ、リンガエン湾
に来襲した米艦隊の迎撃が命じられます(1/5)。
しかし、こんな無茶な命令が成功するはずもなく、米護衛艦隊と軽く撃ち合っただけで、「樅」はまもなく米護衛空母から来襲した艦上機によって撃沈され、「檜」は
1月7日に米艦隊の第23水雷戦隊の「チャールズ・オズバーン」以下4隻に発見され、短い撃ち
合いの後、撃沈されました。
この名もない海戦がフィリピン海域最後の水上艦の戦いとなりました。 |
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フィリピンをめぐる艦隊戦はほぼ集結しましたが、駆逐艦部隊はまだ働き続けることとなります。
在フィリピンの航空部隊は壊滅してしまいましたが、搭乗員は相当数が乗機を失って、フィリピンから脱出することもできなくなっていました。そこで20年1月31日
に第43駆逐隊の「梅」「楓」「汐風」の3隻に、ルソン最北端のアパリに航空要員を救出するため
出撃することが命じられました(パトリナオ輸送作戦)。
しかし、すでに制空権は完全に米軍のものとなっており、水上艦隊が動けるような状態ではありませんでした。3隻もまもなくアパリというところで空襲を受け、「梅」
が大破自沈、残りの艦隊は撤退せざるをえなくなり、作戦は失敗に終りました。結局、船舶による搭乗員救出は、潜水艦「呂46」が
ただ1隻成功したのみでした。
こうして、フィリピンを巡る日本艦隊の活動は終局を迎えます。すでに海軍の注目は硫黄島や沖縄での決戦に移っており、フィリピンは戦略的持久の名の下、うち捨てら
れることとなったのです。
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〜言い訳〜
書き切れていないことが多いです。潜水艦や特攻艇の活動は全く触れていません。まだ資料整理の段階で書けなかったのですが、このままでは、不完全すぎるので、
そのうち<補項>という形で、まとめてみたいと思います。
主要参考文献〜以下の文献に特に謝意を表します〜
- 「丸別冊」日米戦の天王山(太平洋戦争証言シリーズ4)/潮書房/1996
- 「検証・レイテ輸送作戦」/伊藤由己/近代文藝社/1995
- 「艦長達の太平洋戦争(続編)」/佐藤和正/光人社/1995
- 「戦場の将器・木村昌福」/生出寿/光人社/1997
- 「回想・レイテ作戦」/志柿謙吉/光人社/1996
- 「駆逐艦入門」/木俣滋郎/光人社/1998
- 「第一師団・レイテ決戦の真相」/冨田清之助/朝雲新聞社/1977
- 「撃沈戦記パート2」(新戦記シリーズ23)/木俣滋郎/朝日ソノラマ/1990
- 「撃沈戦記パート3」(新戦史シリーズ42)/木俣滋郎/朝日ソノラマ/1991
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