今月のトピックス

 

 December ’06

12/19(火) 愛知県立芸術大学 第2回弦楽合奏定期演奏会 

 10月の演奏会が充実しており、再度、地元大学の学生の熱演を聴くべく、名古屋市内、熱田文化小劇場へ。
 ヴィヴァルディの4つのヴァイオリンのための協奏曲ロ短調。レスピーギのリュートのための古い歌と舞曲第3集。ブラームスの弦楽五重奏曲ト長調の弦楽合奏版。

 ヴィヴァルディは10月の演奏会でも聴いたもの。会場が前回はオケ用コンサートホール、今回は室内楽用、ということで、比較的前の方の席で聴いたせいもあろうが、前回よりは粗さ・生々しさが感じられたものの、美しい和声、そして、何より4人のソロの巧さが聞き手を捉え続ける。なお、ソロが、1→2→3→4と移ってゆくばかりでなく、1,3と2,4がセットになったり、様々なパターンで組みあわさって、意外に巧妙に複雑に書かれてあるのも面白い。
 演奏直前に震度3の地震にみまわれ、会場も一時騒然となったアクシデントにも動ぜず、素晴らしい演奏を披露した皆さんをおおいに称えたい。

 続くレスピーギは編成も大きくなり、しっとりした滑らかな歌と、重厚な響きが交錯する作品を、見事に鮮やかに魅力を表現し尽くした感あり。特に後半のテンションの高さには圧倒された。もう少し上品な作品だという先入観があったが(それにしても随分久しく聞いてなかったな、この曲は)、シチリアーナの変奏における音符の密度の高まりやら、パッサカリアの各声部の重音を交えた主題提示の堂々たる表現・そして対位法的な奥行き等々、聴きどころ満載で、全身に音楽を体感した。

 休憩中にハープによるロビーコンサートあり。バッハの無伴奏Vn.からの編曲や、グリーンスリーヴスが演奏された。爽やかな瞬間。
 後半のブラームス、最晩年の作で、交響曲第5番として構想され果たせなかったもの。確かに第1楽章など、低弦から勇壮な主題が湧きあがり、さながら「英雄の生涯」のような雰囲気もある。チャイコフスキーが死の直前に「人生」なる交響曲を構想したのと同じような創作態度と勘ぐる。しかし、第1楽章のエネルギーに満ちた楽天主義は、第2、3楽章で諦観を帯びたまま活力を復活させる事無く、フィナーレで全楽章を統合する解決を見出せないまま、苦悩を持って始まり、しかし舞踊のリズムが場違いに鳴り響き、まるで、ドヴォルザークのスラブ舞曲のような雰囲気で乱舞して終わる。ブラームスの限界をあまりにも如実に見せつける作品だ。確かに第1楽章のスケール感は室内楽を超えるものだ。弦楽合奏で鳴らす事で、ブラームスの放棄された交響曲がいかなるものか想像させる興味はある。しかし、第2楽章以下には枯れた老境ばかり・・・。
 さて、室内楽の楽譜をほぼそのまま合奏で演奏、コントラバスもかなりチェロと同じような動きをしており、とにかく、音符の密度が濃くて、室内楽でも充分に重いブラームス・サウンドが増幅され、とにかく腹一杯な演奏。もう少しいい編曲がなされれば・・・という思いはある。それにしても、第1楽章のテンションは聞き手を興奮へと誘う。リズムの変拍子的なあつかいも面白く、和声の趣味もいかにもブラームスらしさがある。特に、第3、4番の交響曲を思わせるパッセージも散見される。また、原曲が、ヴァイオリン、ヴィオラが2パートづつということで、通常の弦楽合奏よりもヴィオラが増強され、その分、内声は充実し、ヴィオラ2声による主題提示なども渋い魅力を発揮し、新鮮な感覚も楽しめた。
 アンコールは、グリーグのホルベルク組曲の前奏曲。颯爽たる演奏。来年の没後100年を早くも祝福しよう。来年は、北欧記念年・・・期待しよう。

 北欧つながりでは、このところ毎年好例の名古屋駅、JR高島屋の北欧展も楽しむ。数年来のおつきあいとなっている京都のフィンランド製の小さなパン屋さん、「キートス」のパンを購入し、また、そのパンを使ったオープンサンドを食す。キートスのご主人とも親しくさせていただいている。
 また、ストックホルムのガムラスタンにあるレストラン・シェフによる中世スウェーデン料理を再現。果実系の味つけが特徴的なハンバーグなど珍しくも、意外な美味である。
 フィンランドのウォッカ、その名も「フィンランディア」のクランベリー風味も昨年に引き続き購入し、寒い夜にお湯割で体を温めている。
 北欧展、毎年のこの時期のささやかなる楽しみ、である。今後も期待してゆきたい。願わくは、フィンランドのファーツェル社の「ゲイシャ」チョコ、来年は揃えて頂きたく・・・こんな美味しいチョコはそうそうあるまいて。

(2006.12.28 Ms)

12/2(土) NHK交響楽団 第1583回定期演奏会 

 シューマン没後150年プログラム。指揮、ローター・ツァグロゼク。
 序曲、スケルツォとフィナーレピアノ協奏曲(独奏ゲアハルト・オピッツ)。交響曲第4番
 作品番号で言えば、順に、52,54,120と、ばらついてくるが、そもそもクララとの結婚後、幸福の絶頂にあった1841年、「交響曲の年」の所産で、それぞれが後年改訂されたもの。今年6月にも、シューマン・プログラムは組まれ、交響曲第1番及び第4番初稿という1841年に完成された2曲が取りあげられ、対をなす選曲として面白く感じた。

 最初の、「序曲・・・」は、3楽章の交響曲とも言える充実したもの。
 最初にこの作品に接した時は物足りなさを感じた・・・第1楽章のうら哀しい序奏が、何の葛藤も経ぬまま、軽く清々しい主部に移行した時、必然性を感じなかったし、焦燥感に満ちたスケルツォの後に、唐突にやってくるフィナーレの凱歌・・・ベートーヴェンとは全く異質な展開、交響曲としては構成に納得いかず、出来そこなった組曲のようにしか思えず。その印象を拭い去ってくれたのが、かつてのサヴァリッシュによる演奏。楽章それぞれのキャラが立って、それぞれにいかにもシューマンらしさに満ち、最後のフィナーレの晴れ晴れしさ・おおらかさと、古典を意識した対位法的な絡みの格調高さ、魅力あふれるもの。
 今回あらためて、第1楽章主題の循環が第2楽章コーダで現われる効果に納得を感じ、また、交響曲第2番との関連性(スケルツォとフィナーレ各々)も興味深く聴く。力強く人生を歩む、という第2番と共通する確信がしっかりと伝わるようでもあった。
 それにしても、N響弦セクションの巧さは良い。序奏の切ない主題提示もしっとり聴かせるし、フィナーレの対位法の絡みも内声の充実が奥行きを与えている。特に、再現部に向けて主題を畳み掛けてゆく場面で、2nd Vn.とVla.が勢いを増してゆく様は気持ちが良いほどに、聞き手を巻きこんで歓喜の世界へ連れて行ってくれるようだった。両翼配置ゆえに、2つのパートが舞台上手に位置し、そちらから世界を徐々に塗りかえられてゆくのがグラデーションの変化のように感じられた。やはり、当時の配置を前提に管弦楽法も配慮されているのだ、という想像できる。

 ピアノ協奏曲。本当に、幸福感を運んできてくれる名曲である。下記11月の記事に書いたとおり、冒頭「ウルトラセブン」もふと頭をよぎるが、結果、フィナーレの明るさ、そしてこの幸福が終ってほしくないと念願するようなコーダの流麗なピアノの無窮動、これが最終的な感想を決定する。美しく、喜びあふれる表現に満足。オピッツのソロも滑らかで好演(前回のグリモーによる同曲が、やや流麗さに欠け不満を感じたところ、今回は私的には、より作品にそぐう表現ではなかったか、と)。
 なお、6月の定期で、クララの協奏曲、それもイ短調が紹介され、(シューマンに先駆けて完成され、オーケストレーションにも参画したようだが、)色々な共通点が興味深い。イ短調から変イ長調という遠隔調への移行が両作品に特徴的。さらに、緩徐楽章でのチェロの重要性(ピアニストを諦めたシューマンはチェロを志した時もある)、まさしくピアノとチェロの絡みは、二人の愛を象徴するわけだ。
 また、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を思わせる節回しもカデンツァなどに散見されるのも余談ながら面白い。チャイコフスキーのシューマンかぶれはもっと意識して良かろう。そして、シューマンがロシア音楽にいかに影響を与えているか、もっと知りたいところだし、その研究課題が、ショスタコーヴィチの研究にも役立つことになるだろう・・・(音名象徴という手法の先駆者としてのシューマン)。

 最後の交響曲第4番。
 生演の最近の経験で、昨年、愛知県芸大、外山雄三指揮は、何らの感情をもよおさないような反ロマン的演奏だったし、6月のN響、初稿版は楽譜自体の不備を感じてしまうし、今回、改めて、従来のイメージどおりのロマン・情熱あふれる演奏に安心。ホルンを中心とした金管の充実も、初稿版の心細さをおおいに払拭させるもの。第2楽章のチェロも1本での独奏がしみじみと。ヴァイオリンの独奏も艶やかで良い。

 なお、今回の演奏会プログラム「フィルハーモニー」には、N響クラリネット奏者、磯部氏による詳細な、シューマンにおける音名象徴について記載がされており、興味をそそる。クララの名(Clara)の音名相当、つまり、C−A−Aから、交響曲第4番の主要主題が生まれているとの指摘。3音を並べ替えて、A−C−A(オクターブ上)という音型、そして音名に相当しない音を順次進行で補った、C−−A−Gis−Aという音型、この2つを接続したものが第1楽章主部主題となる(A−C−A−C−H−A−Gis−A)。そして、その変容で全曲が構成されているというのだ。確かに、シューマンは当初、クララ交響曲として構想していたわけで、そこまで徹底した音名象徴は充分想像できる(ピアノ曲でも「謝肉祭」の例がある)。そして、ピアノ協奏曲においても同様な手法での解説がなされて、さらに、クララを慕った、ブラームスにおいても、クララ主題が設定されている、というのも面白いもの。シューマン・ブラームスのファンは是非ともご一読、勧めたい。さらに、この手法は、ショスタコーヴィチも応用していると想像され(交響曲第10番第3楽章における女性名の音名象徴)、ショスタコーヴィチの二重言語のモデルとしての、シューマン像はもっと我々は知っておかねばならぬだろう。
 2006年の私の一つのテーマ、シューマンを知ってショスタコーヴィチを語れ!!・・・大事なポイントとして強調しておきたいところ。

 演奏会前室内楽は、バルトークの弦楽四重奏曲第6番より、第1、3、4楽章。ヴィオラのソロ首席、店村氏の初登場のようだ。冒頭ヴィオラの嘆き節が印象的。全体的にはかなり晦渋なる作品で、やはり私の耳にはかなり難しさを感じさせる。しかし、音色の美しさ、アンサンブルの精巧さによる鋭い表現など、聴きどころは満載。不満はない。

 さて、シューマン記念年を総括すべく今回の上京日帰り。今年、様々なシューマン・イヴェントに参加しつつも、あまり当HPでは取りあげなかったが、個人的には充実の極みで、おって書いてゆきたいとは思っている。ただ、ショスタコーヴィチにより傾倒しているのでシューマンまでなかなか手につかなかったことを反省。
 その、ショスタコーヴィチの交響曲第4番の2台ピアノ版CDは、今回、素晴らしい収穫となった。ピアノによる打撃的な感覚、鋭い和声の明瞭化など、新たな魅力に満足。初演撤回後も、ピアノ版は出版されたり、公開初演を模索したり、彼のこだわり、そして反体制的なチャレンジが解説にも描かれていて、一層、彼の生き様に共感を持つに至る。ショスタコーヴィチ記念年最大のプレゼントの1つといて記憶しよう。
 また、ドビュッシーの知られざる初期歌曲のCDも心地よく、後に小組曲の第3曲メヌエットへと編入される旋律も発見。音楽的興味をそそる。

 ヒルズ人気の青山周辺も以前に比べ随分ごったがえすようになった。デンマーク料理の、青山アンデルセンを愛用する人間として、やや不便を感じつつ、北欧の味覚を堪能する喜びは今尚私に活力を与えてくれる。この上京のささやかな楽しみもまた、シューマンの名演とともにありがたく感ずる師走の1日とあいなった。

(2006.12.11 Ms)

 November ’06

11/27(月) 宮内國郎氏 逝去
11/29(水) 実相寺昭雄氏 逝去 

 訃報が2件続きました。

 2006.11.29、実相寺昭雄氏死去。69歳。冥福を祈ります。
 ウルトラセブンの監督を務められたのが私にとっては最も近しい接点です(メトロン星人とのちゃぶ台のシーンを思い出します・・・平成の、ウルトラマンティガなどは、意識して彼の監督作を見たりもしました)。また、ショスタコーヴィチの音楽にも昔より造詣深く、私もかねてより(ショスタコーヴィチが全く話題とならなかった学生時代より)、彼の存在は頼もしいものでした。N響アワーでショスタコーヴィチについて語っていたのもつい1年前だったのですが(昨年12/25)、懐かしい思い出です。
 また、ウルトラセブンと言えば、最終回で、正体が明らかになる場面での、シューマンのピアノ協奏曲冒頭の活用などが有名です。小学校時代に、再放送で(本放送が見れた年代ではありません・・・)見た時には全く意識されなかったのですが、成長して後、それに気がつき、今でもあの使用法にはグッと感動させるものがあります。
 さらに、何とも因縁めいた話となりますが、この12月2日、N響定期でまさにそのシューマンのピアノ協奏曲は演奏され、その場に居あわせた者として感慨深いものを感じました。私にとって彼への追悼の音楽とも感じられました。
 2006年の最後に、まさにシューマン没後150年、そしてショスタコーヴィチ生誕100年の年に、ショスタコーヴィチと同じ年齢で逝ったというのがあまりに伝説的な受け止めかたをしてしまいます・・・そしてこの記事を書くためにネット検索などする中で、ショスタコーヴィチの運命の年(交響曲第5番完成・初演)となった1937年の生まれだったのですね・・・これもまた驚きの事実となりました。安らかにお眠りください・・・。

 続いて、ウルトラマン、ウルトラQの音楽を担当された、宮内國郎氏も、11/27に74歳で逝去。冥福をお祈りします。
 ウルトラマンのテーマソングは、しっかり自分の中に染み付いた音楽です。ワクワクさせながらテレビに噛り付いていた時代ですし。
 また、小学校の頃の鼓笛隊で練習したこともありました。その時の驚きは新鮮なもので今なお覚えています。前奏から歌を導くベースラインが、ハ長調なのにシの音にフラットがついている!!!音楽の教科書にはない使い方だ!!!いわゆるジャズのブルーノートであり、ロックで頻出するパターンではあるのですが、小学生の私にはそんな音楽の楽譜を見たことはないわけで、楽譜を通じて、音楽の教科書や、ピアノのおけいこの古典的な楽譜から、現代の音楽への最初の橋渡しをしてくれた楽譜だった、と今さらながら感慨深いものです。
 ただし、練習の過程で「ウルトラマン」は取り下げられ、「鉄腕アトム」に差し換えられました・・・その楽譜はいたって驚きの無い、古典的な教科書的な範疇の楽譜でした・・・子供心に断然「ウルトラマンの方がカッコイイ音楽」という印象を持ちました(私にとっては、テレビ番組自体、アトムの方がより時代の古いという感覚であったということもありましょう)。
 さらに大学時代は、深夜のウルトラQの再放送が大変印象的でした。あのテーマ音楽のスリリングさは絶品です。さらに、本放送では存在しなかった、多分最初の再放送時に付加されたと記憶している最終話におけるテーマ音楽だけが、微妙にアレンジがアドリブ的な遊びが含まれたもので、その細かい変容ぶりにおおいに感動を覚えたのは私だけでしょうか。
 ああ、語れば語り尽くせぬほどに、私を虜にした、Q・マン・セブンの三部作・・・これらの立役者があいついで亡くなったのは私にとって淋しい限りです。宇宙への興味に胸ときめかせ、また、怪獣たちと歩んだ我が少年時代も遠くなりにけり、ということでしょうか。
 お二人に改めて感謝の念を捧げつつ、ご冥福をお祈りします。

(2006.12.5 Ms)
「たぶん、だぶん」から移動、補筆(2006.12.10 Ms)

11/25(土) 東邦音楽大学 エクステンションセンター公開講座 
          〜没後150年 ロベルト・シューマン 「森の情景」 講師・國谷尊之〜 

 今年もそろそろ終わり、を意識させる季節となってきた。記念年としては、何と言ってもショスタコーヴィチ関連のコンサート、シンポジウム、と充実の年であり、今後もますますこの傾向続いてほしいもの。ただ、我がHPのショスタコーヴィチ大連載が今年中の完結を迎えるかはおおいに怪しい。
 そして、個人的には、シューマンもおおいに充実していた。初夏の頃には、東京芸大のシューマン・プロジェクトに通って様々な切り口の講演が聞けたのは私にとっての大きな収穫であった。その果実をこのHPに全く記載していないのは私の怠慢にすぎない。また、そのプロジェクトの中でも、オペラ「ゲノフェ―ファ」の公演、そして、晩年の管弦楽付き合唱曲の公演が聴きに行けなかったのは残念・・・。

 その無念を晴らしたわけでもないが、11/25には、東邦音大の公開講座、「没後150周年 シューマン・森の情景 〜独特の書法と動機関連への興味〜」を聴講してきた。
 小品集でありながら、各曲の主題連関の緻密さが特徴付けられるもので、そのからくりを解きあかす興味深いものであった。個人的には、上記のショスタコーヴィチの連載の中で「森の情景」を取りあげる予定なため、その材料が何か見つかるか、との思いで門を叩いたのだが、直接そこに結びつくものはなかったものの、単純にシューマンへの興味の深化が自分に得るところ大であった。ちなみに、聴講生は私とあと1人のぞいて全て女性であった。身なりなどみても、きっと、ピアノの先生たちかしら・・・少々場違いな気もしつつ・・・。

 講座の内容は、まず、前座で、有名な「こどもの情景」を例に、第1曲の「見知らぬ国から」の冒頭、6度の上行そして順次進行での下行、という音の動きが他の曲にも、さりげなく織り込まれている、という説明の後、具体的に「森の情景」の各曲に配置されている動機を紹介し、それぞれの曲のどの部分にどの動機が隠れているか?をみんなで考えてゆく、というもの。私も、楽譜を片手に目を皿のようにしつつ、時に挙手して、この小節にこの動機が・・・といった発言もさせていただきました・・・。単純に旋律線から判別されるものばかりではなく、内声や、装飾音を含めた細部まで丁寧に楽譜を洗ってゆく過程はけっこう面白く、有意義な時間を過ごすことができた。
 さらに、私がショスタコーヴィチで格闘しているのと似たような視座で、シューマンとシューベルトの関連性を動機の類似を通して見極めようとする講師の方の姿勢には共感したものです。
 「冬の旅」の中の「あらしの朝」の終止が、「森の情景」の「待ち伏せする狩人」「評判の悪い場所」に共通する終止形と同じである点、そして、即興曲Op.90−1の一節が、「森の情景」の「別れ」に組み込まれている点など挙げられていた。
 さらに、そのシューベルトの即興曲の冒頭の主題そのものが、「森の情景」の主題に似ている点も個人的見解として紹介されていたが、一方、学問的な裏づけがあるわけでなく、こういう指摘は無視されて終わり・・・という意味のこともおっしゃっており、確かに、引用なり、影響受けたということは作曲者本人に聞く以外確かめようも無く、自分にはこう聞こえる、というレベルで話は終ってしまう・・・
 まさに、私のショスタコーヴィチへのアプローチも同様。学術的でない。でも、自分の耳と感性のおもむくままに、一つの可能性の提示に過ぎないけれども、今後もこういうアプローチは続行しよう。そういう意味で、今回の講座、興味深くもあり、私にとってもおおいに勇気付けられたわけだ。

 そんな感謝の念を、帰りの際に講師の方に伝えた。そして、その即興曲の冒頭が、私にはシューマンの交響曲第4番の冒頭のイメージに重なる点を伝え、何か講師の方への参考になれば幸い、と思う。第5音のユニゾンを荘厳に鳴らした上で、主音に隣接する音程を行ったり来たりする旋律線が続くさまは、私には交響曲第4番冒頭の発想の源かもしれない、と初耳にしてひらめいた。全くの偶然なのだろうが、これもまた、可能性の一つ、としての話。

 さて、講師の方は、ピアニストの國谷尊之氏。後でネット検索すると、ご自身のHPもあるようで、トーク・コンサートも積極的に行っているようだ。今後も着目してゆきたいもの。最後の、「森の情景」全曲の演奏も素晴らしかった。作品そのものへの興味は今まで、ショスタコーヴィチとの関連ゆえであったが、作品そのものに対する親しみもおおいに湧いてきた。ありがたいことです。

(2006.11.27 Ms)
「たぶん、だぶん」から移動、補筆(2006.12.16 Ms)

11/23(木) 嶋田慶子 ヴァイオリン・リサイタル 

 N響ヴァイオリン奏者、嶋田慶子氏のリサイタル。地元の静岡市、江崎ホールにて。直前に電話で問いあわせ、ギリギリ何とかチケットが取れたもの。2〜300人くらいの室内楽用ホールをほぼ満席にしての演奏会だった。適宜、補助席も配置してという満席ぶり。
 前半に大曲、フランクのソナタ1曲を配し、休憩をはさんだ後半にモーツァルトのソナタK.304 ホ短調、そしてクライスラーの小品が続く。ご本人のトークも交え、なるべくお客さんにリラックスして、楽しんでもらいたい、というコンセプトで、通常とは違う選曲・構成のリサイタルになったと言う。
 ピアノは金子詠美氏。

 まずは、フランク。全般的に美しく、節度を保ちつつも、フィナーレに向けてテンションを高めてゆく、王道をゆくようなアプローチ、とでも言いましょうか。ここ2,3年で、生で3回くらい体験しているが、それぞれに様々な印象を受け、飽きさせない作品である。私が思うに、フィナーレをどう作るか、が全体の感想の大きな分かれ目。一番納得した鑑賞体験は、第3楽章までで緊張感を高め、そして発散をしつくしたうえで(特に第2楽章において激しい感情がクライマックスを作る)、第4楽章冒頭で、ふっと肩の力を抜いた平穏なムードを醸し出すパターン。第3、4楽章の間にかなり劇的な断層が生じていたもの。そして、コーダに向けて改めて幸福の絶頂のような山を作ってゆく。ただ、過去におけるその他の演奏は、それに比較するならあまり成功していなかった。第4楽章の安らぎが早々に燃えあがって、作品の最後までそのテンションが保てない。第4楽章に入ってしまった時点に頂点があるような。そして奏者によっては、第2楽章が、思ったより激しく突き抜けなかったり・・・。
 そんな記憶をたどりつつ、今回の演奏は、その辺が巧く構築されていたのが好印象。とにかく、麗しさ、(音色に惹かれる面が大)がフィナーレに充満し、最後までその幸福感が限界を知らず、コーダに至って高次な歓喜の祝福が待っている、といった面持ち。全曲をまとめる、という手腕に秀でたものあり、との感想が強い。

 後半は、やや軽く。モーツァルトのソナタは、彼の短調名作集の一翼を担う名曲だ。簡素なピアノ伴奏に支えられながら、哀しみを、決して大袈裟な劇仕立てにならない内面の心の淋しさとして歌いあげる。
 最後に配されたクライスラーは、「美しきロスマリン」「愛の悲しみ」「愛の喜び」とお馴染みのメロディが続いた後に、バロック風で深刻な楽想をもつ「プニャーニのスタイルによる前奏曲とアレグロ」が続く。特に感銘が深かったのがこの「プニャーニ」である。冒頭の劇的な短調の分散和音からして、心に深く刻まれる。ピアノとの対位法的絡みあいもスリリングで、演奏会を締めくくるに相応しいもの。我が家にも楽譜はあり、前奏曲の冒頭だけは実際の音として耳にしてはいるが、こんな曲だったのか・・・と正直感動してしまった。凛々しく気高い名曲だ。
 アンコールは、クライスラー編曲作品を2曲。ボッケリーニの「アレグレット」、アルベニスの「タンゴ」。ほのぼのした柔らかな雰囲気に包まれながら後味よくリサイタルは閉じられた。
 なお、リサイタルの裏方を担当していたのは、何と同じくN響のコントラバス奏者の井戸田氏。後半の曲間に、一言、といって表にも登場。嶋田さんの応援演説、といった感じか。N響の活動を続けながらの個人の演奏活動の苦労話、そして、高価な楽器を購入して意欲満々、といった話題。がんばる若手のサポートにも力が入っている様子である。そんな姿もまた、ある種、微笑ましくも快いものであった。

 さて、静岡市といえば、上京・鈍行の旅の途中で休憩をとったり、駅前のAOI音楽館などはお馴染みであったが、駅を離れて街並みを歩くというのは、ほぼ始めてである。昼食を食べに、駅から駿河湾の桜えびを目あてに歩いた道は、数日後、例の、K泉タウンミーティングやらせ劇場の舞台に重なりあったようで、東京から大挙、大臣用のハイヤーが押し寄せた道だと判明。車で移動するような距離ではないことを実体験したが故の怒りも心に充満しよう。
 それはさておき、桜えびのかきあげは美味ですな。また、街の中心部が歩行者の勢力の強い作りになっていて、その点、活気に満ちた印象を持つ。デンマークからやって来たグリーンサンタなんていうのもイベントの主役となって、デパートでTVカメラに囲まれていたし、メインロードも人でごったがえしていた。ふと、懐かしい昭和(50年代くらい)の雰囲気をも思わせた。しかし、歩行者天国の思い出につきまとうのは・・・官僚天国・・・この旅の後味を悪くさせてくれたな。

 最後になりましたが、初めての場所で不慣れな事もあり、随分早めにホールにはたどり着き、開場時間前に待っていたら、きっと嶋田氏の親族(ご両親?)と思しき方ともお話でき、随分遠くから・・・などと感謝されつつ、個人的にはそんなに遠くだとも思わず恐縮してしまう。新聞社ビルの上層階、エレベータを降りたらすぐホール、といったこじんまりとしたスペースで、アットホームな味わいもあり、もちろん音楽自体も大いに楽しめた。またの機会を楽しみに待ちたい。

(2007.2.6 Ms)

11/11(土) 諏訪交響楽団 第141回定期演奏会 

 久しぶりにニールセンの作品を生で体験する機会を得ました。以前より、北欧音楽祭の存在はネットでも気になっており、長野県の諏訪を訪れる機会を検討した時もありましたが今まで果たせず、そして今回、団員の方から、定演でニールセンの交響曲第3番を演奏するとの情報をいただき、今回の、晩秋の信州ツアー決行とあいなりました。団員の方からのメールでは、当HPにおけるニールセン紹介記事を、プログラムノート作成の参考にしたい、とのことで、私の拙い文章ではありますが、ニールセンの音楽に初めて触れる方々も多いであろう機会にお役に立てることであるなら、と回答申しあげたわけです。

 という流れで、当HPにても精一杯のご協力を、と、まずは事前に「お知らせ」ページにて以下のとおり、久々のニールセン記事を展開してみました。

 (2006.11.13)

 長野県の諏訪交響楽団さんが、交響曲第3番を演奏されるとのこと、大変心強い限りです。
 団員の方から貴重な情報をいただいたところです。


 諏訪市における、北欧音楽祭の存在もあり、このような関東関西のアマチュアでもなかなか取りあげない選曲になったかどうかは不明ですが、地方の歴史ある楽団の積極的な姿勢におおいに感銘を受けています。
(ただ、私も不定期にネット検索で情報収集などしていますが、今まで気がつかず失礼しました。)

 チラシを拝見すると、「Espansiva」の文字が・・・
 通常「ひろがり」という通称が付記されることが今は多いと思いますが、第4番「不滅」同様、その単語一言では言い表わせない微妙なニュアンスをもった副題をもつニールセン作品、あえて原語での表記がなされているあたりに深い含蓄を感じてしまう私です。

 我がニールセンHP、ESPANSIVA! NIELSENでも、「エスパンシーヴァ」の語感が気に入りタイトルとして採用しているところですが、この、人間性の朗らかな肯定を感じずにいられない、「ひろがりの交響曲」、秋の信州に響き渡るのを楽しみにしております。

 私個人としては、かつての京都フィロムジカ管弦楽団さんの生演奏(2003年6月)で初めて実演に触れた時の感想として、アマチュア団体さんにも是非是非取りあげていただきたい作品、なのです。
 演奏に困難の伴う4,5,6番こそニールセンの真骨頂なれどアマチュアで納得ゆく演奏をするのは至難の技、逆に初期の1,2番はやっぱり曲の弱点、特にフィナーレの弱さが気になってしまう・・・
 そんな中、第3番は、まるで、100年前の「英雄」と「田園」が新たな装いで共存するうちに、ブラームスの1番を彷彿とさせる主題がフィナーレを屈託のない人間賛歌へと導くドラマ性に魅力を感じ、さらにはラストの包容力ある響き・・・まだまだ一般的には未知なる作品ですが、充分にこのフィナーレには充実の聴後感を与えてくれるものと信じているものです。

 今後とも、この「ひろがり」の交響曲の、まさに「ひろがり」を願ってやみません。是非とも、お近くの皆様はもとより、東海、関東地区の方々も、ニールセンの描く音世界、実演での体感をオススメするものです。

 ここで、曲の紹介も兼ねて、作品に対する作曲家のコメントも触れておきましょう。

 「この交響曲では次のことを表現している―第1楽章では強い緊張(エスパンシーヴァ)を表現している。それはしかしながら第2楽章で牧歌的なおだやかさへと変容する。」(1927年1月14日、デンマーク放送での演奏時プログラム)
 第3楽章は善と悪の双方が真の解決をもたらさずに現われてくるという点で正確に特徴付づけられないものだ。他方フィナーレは率直明快である。労働と日常生活の健康な楽しみへの賛歌である。感傷的な生命の祝いではなくて、日々の生活の仕事に参加し、われわれの回りに繰り広げられる生活と力を見ることができる、一般的な喜びである。」(1931年3月31日、ストックホルム・フィルでの演奏時のノート)
・・・以上、BISレーベル、チョン・ミュンフン指揮、イェーテボリ響のCDライナーノーツ(大束省三氏による)からの抜粋。

 また、「Espansiva」の意味するところは、「緊張」つまり「張った状態」を言い、かつ、英語でいう所の「expansive」には「膨張」という意味もあるところから、上記、大束氏の解説によれば、「宇宙の爆発と膨張のような強烈なエネルギーを思わせる」・・・とのことで、これらの、「緊張」「膨張」をただ一言「ひろがり」と訳すのも、誤訳でなはいものの、完全に作曲家の意図を伝えていないのかもしれません(ただ、偶数楽章の楽想は、日本語の「ひろがり」に相応しい感じもしますが)。それゆえにチラシでの「Espansiva」なる表記に含蓄を感じたわけです。まあ、「緊張交響曲」やら「膨張交響曲」じゃ、さまにならないわけで、やはり外国語からの訳というのは難しいものですね。

 それはともかく、最後のフィナーレにおけるコメントが、いかにも農民出身の彼を彷彿とさせるもので、確かにインテリ風ではない庶民の素直な喜び、を私自身、音楽から聴き取るものです。例えばベートーヴェンやブラームスのように後世の人々に神格化されたかのような、ありがたい(!)芸術とは違った歓喜が沸き起こるのを、いつもいつも微笑ましく好感をもって感じるのです。我々、庶民、凡人のささやかな生活の中の喜びの代弁を感じるのは私だけでしょうか・・・。

 最後に、当HPから、交響曲第3番関連記事をリンクしておきますのでご参考までに。
 簡単な曲紹介はこちらから。ディスク情報はこちらから。過去の演奏体験(京都フィロムジカ管弦楽団さん鑑賞記)はこちらから。

(2006.10.24 Ms)

つづいて、演奏会体験後の記事。まずは、速報。

 さて、待望のニールセンの交響曲第3番、長野県は諏訪湖畔の岡谷市まで遠征してまいりました。
 予想以上に、素晴らしい演奏会でした。
 決して有名ではない、そして、親しみやすいとも言い切れない、マイナー路線な選曲ではありましたが、地元の聴衆の皆さんも、盛大に演奏者へのねぎらいの拍手を送っておられ、ニールセン・ファン、そして、プログラム解説協力者として、演奏会の成功は、私にとってもおおいに満足を得ることとなりました。

 何と言っても、第4楽章冒頭の、幸福感一杯の、暖かく、優しさに充ちた旋律とハーモニー。第3楽章からほぼアタッカで開始されましたが、会場の雰囲気が、一気に変わるほどのインパクトがありました。弦楽器を中心としたオーケストラの響きは何と美しかったことか。内面から喜びがにじみ出るような心地よさがありました。
 不覚にも涙ポロリ、です。
 演奏会を通じて、弦楽器セクションにいま一歩、華が欠けている、突きぬける思い切りさがない・・・といった感想は正直なところ持っていたのですが(奏者の皆様、すみません)、それが逆手に取られたかのように、華が無い、思い切りさが無い、その響きこそが、この第4楽章冒頭の美しさをあまりに的確に表現していたように思いました。
 フィナーレに歌われるのは、なにげない日々の労働・日常における歓喜、・・・これこそ農民の子、ニールセンの素直な幸福感であったことを改めて思い知らされました。圧倒的な精力で主張する誰それの歓喜とは全く別の次元の歓喜が、私の心にじわじわと染み渡る瞬間・・・この体験、私にとっての宝物です。

 また、第2楽章の素晴らしさも特筆したいと思います。
 男女2人の声楽のソロは、舞台側に近い客席の2階席に陣取り、会場の左右から交互に呼び交わし、それこそ、音楽の「ひろがり」をまさしく体感させてくれました。特にソプラノの美しさ・存在感はおおいに感動させるものでした(左右交互に歌が出るたび、お客さんの頭があっちこっち動く様は微笑ましかったですね)
 そして、その声楽の現われる部分における開放感を演出するのが、その前の部分に置かれたオケの部分なのですが、暗さと不安さが支配する前半部分における木管群のそれぞれの独白が、心を捉えるのに十分で、特にオーボエの歌心は、本演奏会での最大の山場であったとすら感じました。この、ブラームスの第1交響曲第2楽章の第2主題をそっくり拝借したような北国の孤独感を思わせる旋律の印象が強く与えられてこそ、声楽の登場が、開放的な太陽の日差しの如く、まぶしく会場を一変させる存在となり得るのだと痛感させてくれました・・・また、ここでのオーボエの高得点ゆえに、第3楽章、第4楽章も次々と繰り出されるオーボエのソロが私の耳に容赦なく飛びこみ、今まで意識しなかったのですが、オケの合奏のあいまに出る数々の独奏楽器のうち、ニールセンはオーボエにこそ最も信頼と期待を寄せて曲を書き進んだことが実感させられたのです。私にとって(だけ)の発見、に過ぎないでしょうが、作品に対する新たな視点を与えていただいたことに深く感謝です。
 ・・・さらに、声楽の部分に一瞬、オケによる間奏がさしはさまれ、トロンボーン・チューバの重厚なコラールが奏でられますが、ここの充実した・完成された響きも素晴らしいものでした。本番前にも舞台袖から練習している様子はうかがい知れましたが(最後まで磨きをかける姿勢におおいに共感します)、このコラールの美感が、第2楽章の聴後感に宗教的な感興を残すことに寄与していました。まさに「救済」(私自身はキリスト教徒ではありませんが、)された瞬間でした。

 まだまだ思うところは尽きませんが、今日のところはこの辺で。まずは速報ということで。

 (2006.11.12 Ms)

 続いて、曲を追いながら、幸福なる体験の思い出を辿ってゆきましょう。

 まず、何と言っても、きっと生涯で初めてこの作品を演奏するであろう人たちばかりでしょうし、きっと多数の方は今回取りあげるまで曲自体を知らなかったのが正直なところ、と想像しますが、よくぞここまで曲を仕上げたな、というのが偽らざる第一の感想です。音楽の表現、まで行きますと、アマチュア故の限界はあるでしょうが、少なくとも拍子も取り辛く(第1楽章の「競技的3拍子」は特に困難が伴うと想像します。場所によっては、綱渡り状態でしょう。)演奏に慣れていないであろうニールセンの音楽が、よどみなく、団員一糸乱れぬアンサンブルで構築されていた点に最大限の賛辞を送りたいと思います。

 その「競技的3拍子」ですが、当HPからの引用としてプログラム・ノートでも強調して頂いておりましたが、ニールセン研究家の、ロバート・シンプソンが提唱している、ニールセン音楽の特徴の一つで、「3拍子を継続させつつも2拍子的なリズムを組み合わせたり、不規則な拍子感を持ち込んだり、意表を突く断絶があったり」・・・と私なりに解釈してみているのですが、このスリリングな「競技」すなわち「アスレチック」な感覚が予想外の大健闘でした。
 第1楽章の第1主題提示の部分がまさに、3拍子の拍子感の希薄な音楽が続く部分ですが、「アスレチック」な躍動感が生き生きと表現されていたと思います。個人的には、具体的な「競技」として、広いフィールドを舞台としたサッカー、をふと連想しました。
 例えば1曲目のモーツァルトの音楽など、第1ヴァイオリンが主導権を握ることが多く、例えるなら、一人のスター・プレイヤーがドリブルで一気に相手ゴールを目指す(ディフェンス陣に出番が少ない)といった面持ちを感じさせるのと正反対で、単調な動きを避け、ボールを一人にずっと持たせないのがニールセンの「競技的3拍子」なのではないか・・・つまり、次々とボール(曲の主導権)は縦横無尽な前後左右へのパス回しで、オケというフィールド内を、ところ狭しと動き回り、一定のリズム、拍子に安住させないスリルを観客に与えるわけです。
 そのパスの正確さ、つまりはチームプレイ、フォーメーションの練習がきっちりなされていたのが、聴いていてわかります。確かに、テンポはややおそめで守りに入った感もあり、また、個人技でうならせる部分はあまり感じられなかった、という第1印象はありましたが、サッカーにしても拙速な攻撃や一人よがりなプレイが得点に必ずしも結びつかないのと同じで、チームとしてのオケの機能が磨かれていてこそ、この「競技的3拍子」のユニークさがしっかりと表現されている、という点におおいに賛辞を送りたいわけです。
 そして、「競技」は第1楽章最後の開放的なイ長調の和音へ向けてゴールするわけですが、サッカー的には第1主題提示の終わりで既に、巧妙なパス回しゆえにゲーム早々に得点が入ったような印象を持ちました。つまり、練習記号6でのフォルテ四つ、という大音響の強調が、まるで競技の最中の味方の得点のような印象でした。ここの勝ち誇ったかのような音塊の出現には新鮮な感動を覚えました。生演奏ゆえの体感、こういう体験こそ、私がニールセン音楽が実際の空気の振動としてこの世に生まれ出る瞬間に立ち会いたくなる理由でもあります。
 なお、この練習番号6での落ち着き(一件落着)があってこそ、次なる第2主題のやや田園的な素朴な、より3拍子の感覚を取り戻した楽想が、ほっとさせる役割として登場する説得力が増すように思います。こういった構築性こそ、交響曲の命ですし、具体的標題性に依りかからないニールセンの音楽(ベートーヴェン・ブラームスもまさにその点では同質)には大切なことであり、その重要性を充分認識した演奏、と感じられます(特に指揮者のセンスに負うところ大と思います。)。
 さて、楽譜の読み込みの丁寧さ、がこの場面にも現われていたのですが、まさに冒頭においてもそうでした。
 正直なところ、冒頭の打撃音の連続、これにはガッカリ、という印象を当初持ちました。このニールセンの第3番、ベートーヴェンの第3番すなわち「英雄」を意識したのは確実でしょう。3拍子のアレグロ開始楽章を、打撃音で始める発想は「英雄」を意識しなかったとは思えないわけです(ニールセンの第1番の冒頭も、ト短調の作品をハ長調の主和音で開始させているあたり、ベートーヴェンの第1番が、ハ長調の作品をへ長調の和音で開始させたのを彷彿とさせるユニークな和声感です。ニールセンの作曲の師匠ゲーゼは、メンデルスゾーンの下でドイツのライプチヒ楽壇を支えた人材として、シューマンやブラームスとも親交を結んだ、ドイツ古典派から連なる直系の作曲家でした。その弟子たるニールセンが、交響曲作曲にベートーヴェンを意識したのは当然と言えましょう。)。もっと圧倒的な迫力がなくては、ニールセンの「英雄」への意識が感じられないではないか!と思ったのも束の間、その打撃音の間隔が短くなり、リズム主題となって音楽が切迫し始めるや急速なクレシェンドが襲いかかる・・・帰宅後、スコアを改めて見れば、冒頭はフォルテ1つ。つまりクレシェンドを強調させる方法論で正しかったわけです。最初から「英雄」的にガツンとやり過ぎない、冷静な判断こそスコアに忠実なわけで、自分の思い込みには反省させられたものです。
 第1楽章でその他印象に残った点は、オケ全体が、あまり主張のぶつかりあい、という「オレが、オレが」的な要素が少ないなかで、それでも、ニールセン特有な、ピッコロの独特な動きが要所で、ピリっと聞こえていたことや、朗々たるトランペットの旋律が、オケから突き抜ける存在としてあったことに好感を持ちました。
 ただし、全体的にホルンが隠れ気味だったのは残念です。展開部における、メリーゴーランドを思わせる俗っぽいワルツで、トランペットが突き抜けるのと同様な存在感がホルンにも欲しかった、というのが偽らざる感想としてあります。その他、第2主題がリズミカルに爆発的に再現確保される手前の狼煙のようなホルンの咆哮も聞こえなかったのは惜しい限りです(練習番号11及び25の直前)。この第2主題再現確保の背景にある、ティンパニの1拍の強烈なクレシェンドのトレモロも大人しかったように思います・・・弦や木管に細やかな楽譜の細部への忠実さが見られる一方で、豪快にオケを鳴らす、という観点で今一歩、もう一押し、破壊力を見せつけるような瞬間があれば、さらに良い演奏となったという感想は持ちました・・・ただ、全体に、激しさよりは落ち着きを重視した団体、という印象は演奏会を通じて感じましたので、この辺は意識してのことであれば私が口を挟むべき問題ではないかとも思います、失礼しました。

 続く第2楽章、この美しい声楽の効果、とそれを支えるオケの安定感は、速報として前述したとおりです。その他の印象を列挙しますと・・・
 冒頭のホルン。淡々とした、2度の音程を行き交う音響、何か遠い過去を呼び覚ますような、柔らかな音響が心に残っています。第3楽章もまた、ホルンで開始され、最後は低音のフルートで終止するという、2つの中間楽章は共通点を持っており、これの意味するところは謎、なのですが、冒頭ホルンについて、その一つの回答を今回の演奏は提示してくれたように私には感じられました。すなわち、古き時代・いにしえの世との交信の合図、です。
 確かに第2楽章の冒頭は2度の音程を行ったり来たり、第3楽章の冒頭は5度の音程の和音、と至極単純な音のみが使用されており、古く鄙びた楽器の雰囲気はあるでしょう(マーラーの5番第3楽章冒頭のホルンとは対極にあるようなパッセージ)。そして、ニールセン自身、バイキング時代のホルン(ルーア、と呼ぶようですが詳細は不明です・・なお、音楽之友社の「新音楽辞典」によれば、「Lur」=北欧に存在したと思われる青銅器時代のホルン、との記載あり、絵も掲載されております。)を使用した楽曲を作曲もしています。手元のCDで、ニールセンの野外劇の音楽の選集、デンマークのレーベル、Kontrapunkt 32188、のなかの劇音楽「ハウバートとシーネ」がそれであり、CDのライナーノーツには、縦に長く管が伸び、頭上で朝顔が開く、古い時代のバイキングのホルンの写真が(デンマーク、ニールセンの故郷オーデンセにあるニールセン博物館の前で4人の奏者がポーズを取っています。興味深い写真です。)紹介されています。そして、そのホルンは、私が昨年の愛知万博のアイルランド館でみた古い時代のホルンと酷似する形態です。さらに、CDで聴く音色も、それこそ、ワーグナーやブルックナーで聴くことの出来る輝かしい音色とは相違する素朴なものでした。その雰囲気を、この第3交響曲中間楽章の冒頭に感じることは、意外に曲解とは言い切れないような気がします。何しろ、この「ハウバートとシーネ」自体、1910年の作品で、この第3交響曲の作曲開始時期にあたることが今回の私にとっての大発見!!!となりました。・・・つまりは、この作品の主題たる「エスパンシーヴァ」は、空間的な「ひろがり」も感じさせると同時に、時間的な「ひろがり」をも感じさせるのでは・・・という推測も生じます。さらにニールセン音楽のスケールの大きさを自分なりに再認識させてもらえたのが非常に嬉しく感じます。

 さて、速報でも述べたとおり、第2楽章の主要な主題の一つが、木管で順次フーガのように出てくる、ブラームスの交響曲第1番第2楽章の第2主題を思わせる下降線をもった旋律で、この主題提示を真っ先にするフルートの美感あふれる歌が、重く苦しい弦の響きから突如現われた時の感動はやはり忘れがたく、そして続くオーボエにはさらに魅了されました。木管セクションとして、それぞれが寄り添うような姿勢も好感大でした。背景で鳴るティンパニの弱奏トレモロのひんやりした雰囲気も心に残ります。
 続く、弦の冷たく研ぎ澄まされたような悲歌、については、やや残念ですが、生ぬるさが気になりました。北欧の作曲家(グリーグ、シベリウス始め)にとって、弦楽合奏の作品はかなり重要な位置を占めるものですが、私観としては、そこには、北国の鋭く肌を刺すような冷たさを感じることもあれば、そんな寒さの中で、家の中に燈る暖炉のささやかな温もりを感じさせるものもあります。この場面は私としては前者の感覚を求めたいものです。そして、ふと、ニールセンの弦楽合奏のCDなど久しぶりに聴こうかな、と今かけたところ、まさにその雰囲気を彷彿とさせる1曲を見つけましたが・・・アンダンテ・ラメントーソ(若き芸術家の棺の傍らで)・・・友人の死を悼んで作曲された哀しくも美しい小品です。この雰囲気の投影を、この部分に見ることは決して誤解ではないと思います。そして、やはりこの作品も1910年、第3交響曲の作曲と重なる時期であることに再認識させられました。
 ただし、この弦のフレーズの中で注目すべきは、最後の低弦の動き(76〜77小節)が、ベートーヴェンの第九の第4楽章、歓喜の旋律を導くレシタティーヴォ(230小節以下)を思わせるものになっている点で、この動きは、かなり充実した陣営であったコントラバスが分厚く鳴っている中で十分な存在を示していたのがかなり良い感じでした。これが意識的な引用かどうかは確かめる術もありませんが、この第九もどきの低弦(第九でもバリトン独唱もしくは、器楽による提示部では85小節以降、まさしく低弦に割り振られている)が演奏し終えたのを合図に曲は、声楽の救済場面へと動き出すわけで、この意味するところがクリアに映し出されていた演奏は私にとっては、説得力の大きな演奏、と言えました。

 曲は、今述べた2つの要素が交替に出た後、何かの審判でも下るかのような厳粛な楽想の後、感動的な声楽のヴォカリーズが、会場の左右から天から降りてくるような雰囲気で神々しく響き渡りました・・・今、演奏会の1週間後を経過した時点でなお、鳥肌が立つような感動が押し寄せます。そして、トロンボーン・チューバの美しいコラールが曲を終結へと導き、先に述べたフルートの低音の響きが最後に残ります。このフルートもまた印象的で、私には、パイプ・オルガンの響きを想起させました(オルガンに付いている数ある音色を変更させるストップのなかにこういう音色のものがあったように思います)。ニールセンの管弦楽作品においてパイプ・オルガンの音色が聞こえてくるのは、第4交響曲「不滅」の最後和音の例もあり、偶然かもしれませんが、声楽、低音金管のコラール、と来れば、オルガンのイメージもひょっとして彼の脳裏をかすめたかもしれない、と想像するのは興味深いものです。
 最後に、ブラームスの1番が出てきた関連で、今回の圧倒的な声楽による救済の存在感を目の当たりにしたせいか、この第2楽章の声楽が、ブラームスの1番第2楽章の再現部に出てくるヴァイオリン・ソロとの発想の類似に思いを馳せるきっかけを与えてくれました。第1楽章の葛藤にあい対する存在として、第2楽章における優しい穏やかな表情はあり、その第2楽章の穏やかさあってこそ、第1楽章の厳しさを第4楽章の幸福感へと転化させてゆく、というプロットは、ブラームスとニールセンに共通する構成上の発想なのではなかろうか?
(ベートーヴェンにおいては、例えば「運命」は、第2楽章に金管の度重なるファンファーレ、第3楽章のトリオに低弦から始まるエネルギッシュなフーガを置き、それらがフィナーレの歓喜の伏線を成す。ブラームスは第1番において、ベートーヴェンを意識しながらも、「運命」とは違う歓喜への道程を提示していることは重要な側面と考えています。伏線の引き方の相違あってこそ、この両者は同じハ長調であっても、全く異質な歓喜を歌いあげているのです。)
仮に、ニールセンがこの3番を作曲する際に、敬愛するブラームスの交響曲の第1番のスコアが置かれていたとして、ブラームスの4つの楽章の性格を彼なりに再構築させた、という推測はどうだろう? 第2、4楽章にブラームスを思わせる旋律が同じような位置に配置され、さらに、作品の後半楽章の展開を決定付けるような第2楽章後半の救済の場面が設定されているのなら、かなりこの作品はブラームスの第1番に負うところ大、と言えないか?・・・ここで同じくブラームスを敬愛した後輩作曲家ドヴォルザークの例を思い起こせば、彼も交響曲第8番で第2楽章にヴァイオリン・ソロを活用しており、絶対、ブラームスの模倣をしたかったのだろうと想像するが、どうも行きあたりばったり的な、ブラームスほどの説得力を持ち得なかったように思う(田舎のヴァイオリン弾きみたいな純朴さに魅力は感じるのだが・・・)一方、ニールセンは巧くブラームスの精神を新たな発想で継承したんじゃなかろうか?と称えたくなってしまうのだが、・・・ちょっと贔屓にし過ぎだろうか。

 続く第3楽章は、オーボエ始め木管の活躍が際立ち、第2楽章でその存在が私に十分伝わってきたせいか、主要主題提示すべてにオーボエが割り振られていることも手伝って、耳がまずオーボエに行ってしまうほどでした。曲としては、同音連打の連続が、キツツキのようなイメージを醸し出したり、ユーモアを感じさせるスケルツォで楽しく聞く事ができたものです。
 そして、フィナーレ、この冒頭の涙あふれる感動の瞬間については速報で述べたとおりで、それ以上言葉として残すことは控えさせていただきます・・・。なお、自分の前列に位置していたお客さんが、フィナーレが始まるや身を乗り出して聴き入った(ように見えた)のが、何となく嬉しく感じました。感動を共有していただけたか?ただ姿勢を直しただけかもしれませんが・・・ただ、聴くのに飽きた時に背もたれから離れて前傾姿勢になることもないだろうし、フィナーレ冒頭に何かしら感じるものがあったのでは?と私自身解釈させていただきましょう。
 最後の最後に、また頭でっかちな話となりますが、ニールセン研究家のシンプソン曰く、「競技的3拍子」と並ぶもう一つのキ―ワードが「進行的調性」。つまり、この第3番を例に取れば、第1楽章はニ短調で開始しイ長調で終わる・第4楽章もニ長調で開始しイ長調で終わる・・・結論を言えば両者とも5度上の調性で楽章が閉じられるわけで(第2番のフィナーレも同様)、古典ではありえない終止なわけです(もっと細かく言えば、転調が曲全体を通じて激しく行われているわけですが)。しかし、調性の変転ぶりはあるものの、曲全体の冒頭にはの音の連打が提示され、同じの音が曲の最後では、ティンパニによって激しく打ち鳴らされ、見事な円環を形作っており、その最後の終結感も納得ゆくもので、大いに感動を深めていました・・・それに先立つホルンのラの音のトリルの連続ももっとドボ8フィナーレ的なハチ切れぶりが発揮されればさらに円環は強調されたことでしょう。それはともかく、円満なる解決におおいな満足、です。

 アンコールは、シベリウスのカレリア組曲より、「バラード」「行進曲風に」と2曲の大サービスでした。バラードの弦楽器のほのぼのとした温もりはかなり良い感じでした・・・ニールセンの第2楽章の冷徹さより、第4楽章冒頭の深さ、温かさ、こそこの団の弦セクションの強みなのでしょう。それを最後にまた証明するような演奏となりました。また、哀しげな旋律の背景で、さらにあわれみを伴って泣くようなオーボエの2拍の音の伸びの連続もまた感動を誘うものでした・・・ニールセンに続いて、またもやオーボエのセンスは私の心に上手く響いてきたようです。また、コーラングレの独奏もしみじみとした素晴らしいものでした(また、余談ながら、カレリアの劇音楽としての初稿は、確かこのコーラングレはもともと男声独唱だったように記憶しており、ひょっとして、今回は原典版による演奏が聴けるのでは?と思ってしまったカン違いな私でありました・・・)。
 また、終曲のみに登場した打楽器陣も素晴らしい演奏を披露していました。キラキラと輝きの持続するトライアングル、主張しすぎないでいながら、オケ全体に程よい味つけをほどこす、典型的な隠し味としての打楽器のあり方を追求していたシンバル・大太鼓、聴く人は聴いています。絶妙のバランスとセンスです。アマチュアを聴いていて思うのは、あまりにも適当に、うるさく(騒音)、あるいは、かすっている(演奏法を知らない・・・例えばトライアングルを握り締めて壊れた目覚し時計のような音で鳴らすetc.)だけの打楽器が意外に多いことで、こういうレベルの高い打楽器をさらりと限られた出番でそつなくこなすだけでも、そこの団体全体のレベルは推し量れましょう・・・これはとあるプロ指揮者の弁でもあります。一つの尺度として私は有効だと思っています。
 ただ、ニールセンの大作に匹敵するほどの充実感がこのシベリウスの小品に存在することも目の当たりにし、ああ、やっぱり、との感もありました。ま、シベリウス作品も、私にとって生涯を左右した大事な作曲家ですから(仲人みたいなもんです)、それを口惜しくも思いませんが・・・。でも、シベリウスの感動も久しぶりに体感できて、良かったですね。

 前半2曲についても、チームプレイを重視した演奏であることは感じ取れましたし、一方、やはり、誰かが突出して主張を繰り広げる場面はあまりなく、チャイコフスキーあたりは、協奏曲とはいえもっとはじけたような、ロシア的な激しさが多少は見えても良かったか、とも思いますが、これは前述のとおりオケのカラーなのかとも感じられ、趣味の問題でもありましょう。
 ただ、今までアマオケを見て来まして、「お遊戯会」よろしく、身内しか相手にしていないような、決して真摯でない態度で適当に演奏会を迎えてしまう例も少なからず散見されるなか、少なくとも、私のように、まったく見ず知らずの皆さんの演奏に、感化され、涙させていただける、ということが何と得がたい素晴らしい体験であるか、強調するとともに、演奏されたオケの皆さん、ソロの皆さん、さらには的確で情熱的な指導をされたであろう指揮者の方に、感謝の念を伝えたいと思います。
 200km駆けて来た(あまりにマニアな)ニールセン・ファンの喜び、今後の諏訪交響楽団さんに何かしらプラスのエネルギーが働くのであれば本望です。諏訪、岡谷、茅野地方の皆さんにとっては、郷土の宝、として今後も誇るべき存在、となりましょう。演奏会後の熱を帯びた拍手に参加しながらの偽らざる感想です。

 なお、(オマケ的な記載で失礼してしまいますが)ヴァイオリン・ソロも聴き応えがありましたが、一目おくべきは、ソリスト・アンコールのワーグナーの「ロマンス」でしたか・・・これは初耳、かなりの佳曲です。
 あと、そう言えば今回の声楽のソロの紹介がパンフレット上は、ハープやチェレスタのように団員名簿の片隅にあったわけですが、ソリストだと私は思いますし(出番は極端に短いですが)、充実した演奏をきかせていただいたわけですし、キャリア等も知りたかった、という思いはありました。ソプラノ、菅千鶴子さん。バリトン、藤森秀則さん。ここに名前だけ紹介させていただきます。

 最後に、今回、当HPが演奏会プログラム・ノートにご協力という形をとり、それがご縁で演奏会にもご招待いただけたこと、この場を借りて御礼申しあげます。
 演奏会後、担当の方含めお話もさせていただきましたが、今後もニールセン作品はじめ、北欧作品、積極的に取りあげていただけるのなら幸いですし、その際は可能な限り、演奏を体感させていただきたいものと思います。
 ここからは、雑談ですが、ニールセンの劇音楽「アラジン」の話などもその時にさせていただきました。有名な、あの、アラビアのお話です。「オリエンタル・マーチ」などは結構面白いと思いますし、吹奏楽編曲を通じて学生さんの評判も良いようです。その他、華やかな、歌劇「仮面舞踏会」の序曲やら、結婚式の入場みたいに感じてしまう歌劇「サウルとダビデ」の第2幕への前奏曲、高木綾子さんの独奏での名演が忘れ得ぬフルート協奏曲(・・・是非、彼女のソロでまた聴きたいと常々思っているものです・・・ただしオケは小編成ですし、トロンボーンにふざけたパッセージがあって抵抗ある人もいるかもしれませんが)等々、まだまだアマチュアでもきっとやれるんじゃないか、と思う作品は少なくはありません。ただ、交響曲は、4番以降はかなり困難でしょうし、1,2番はメインには地味過ぎ、サブには重過ぎ、なかなか取りあげにくいかな・・・3番こそアマチュアのベスト・ニールセン作品・・・との思い、今回再認識です。
 北欧に絡んだ選曲が求められる際は参考にでもしていただけら幸いです(ヘリオス序曲はすでに演奏履歴にあるようですので省略します。)。
 北欧音楽祭という伝統もあるようですし、またの再会を果たす時もあるかもしれません。今後の活躍を期待しつつ、また、他の団体におかれても、積極的に「エスパンシーヴァ」始めニールセン作品を取りあげていただくことをも念願しつつ、幸福なる晩秋の信州の旅に付いては筆をおかせていただきます。

美味なる「小作」のほうとうや、山々の紅葉、初雪も思い出に華を添えつつ、幸福を噛み締めた時間をいとおしく振りかえる休日に(2006.11.19 Ms)
バイキングのホルン「Lur」について補筆(2006.11.27 Ms)

 

 October ’06

10/28(土) ピアノ四重奏の午後 
          〜”カワイ表参道”リニューアル記念オープニングコンサート〜 

 変貌著しい表参道。カワイ楽器も店舗が建て替わり、その一連のコンサートシリーズの一つ。N響のメンバーによる、モーツァルトとフォーレのピアノ四重奏を。ピアノは稲田潤子氏。N響からは、Vn.が宇根京子氏。ヴィオラが飛澤浩人氏。チェロが桑田歩氏。
 モーツァルトの第2番K.493変ホ長調、フォーレの第1番Op.15ハ短調。まさに、2年前に私に室内楽とフォーレの素晴らしさを見せつけた、NHK−BSでの野原みどり氏らのプログラムと同じもの。やはり、そのTVでの印象が強く、それとの比較で鑑賞せざるを得ない。ピアノの存在感、流麗さ、表現の豊さにおいて、今回は物足りなさがある。やはりピアノの在り方で、曲全体の印象は全く変わる。その一方、弦の比重が高く、深く厚い響きと熱気に満ち、そして主張も強い。特に、宇根氏(N響に入団して間もないが)の存在感・牽引力が他を圧倒していた。美しく、かつ、華がある。彼女の演奏をまのあたりにできただけでも十分に価値ある体験となった。さすがN響、弦の人材にはこと欠かず。ただ、フォーレは全体的にアレグロ楽章は終止テンションが高く、エンジンがかかりっぱなしのような印象もある。一歩引いた、すました、軽妙な、洒落た、という雰囲気がもう少し要所で感じさせてくれればさらに面白かっただろう。アパッショナータなハ短調を満喫したのは確かだが、・・・うーん・・・やはりピアノの音色の変幻自在さこそ私は求めていたか。このところフォーレの1番のピアノ四重奏と聴けば生を体感しに出かけているが、無条件にこれぞ!というものに出あうのは、なかなかに難しいもの。

(2007.2.11 Ms) 

10/11(水) 愛知県立芸術大学創立40周年記念 第39回定期演奏会 第1夜 

 「四十而不惑」と題して、教授陣と学生が饗宴・競演。
 やはり弦の充実ぶりが光る。冒頭の、ヴィヴァルディの4つのヴァイオリンのための協奏曲ロ短調の美感は印象深い。「四季」あたりのお気楽さとはうって変わった、格調高さを感じる。4パートが絡みあう様も聞いていてあきないスリリングなもの。
 最後の、チャイコフスキーの弦楽セレナーデも良かった。指揮者なしでも、変化に富んだ楽想を完全にコントロールし、レベルの高さは確かである。
 その他、声楽も様々な作品が取りあげられたが、ソプラノ、平田杏奈さんの歌声に惹かれるものがあった。マスネの歌劇「マノン」より「わたしが女王様のように町を行くと」。たっぷりとして女王さながらな貫禄が感じられれた。その他、変り種では、モーツァルトのコンサートアリア「この麗しき御手と瞳のために」K612は、コントラバスとバスの独唱という取りあわせ。ただ聞いて楽しいものでもない・・・。コントラバスのソロは無理を感じさせるな。
 期待して臨んだ、新田ユリ編曲による、シベリウス歌曲(弦楽合奏伴奏)は、イマイチか。シベリウスらしい弦の取りあつかいに興味はそそられるが、伴奏部の輪郭があいまいで、何が背後で起こっているか、和声の推移とかリズムとかがぼけて、ピアノ伴奏より優れたものとは感じられなかったというのが率直な主観。「黒い薔薇」「海辺のバルコニーで」「ハープ弾きと息子」「初めてのキス」「逢引きから帰った乙女」がバリトン独唱で。歌曲としての美しさは堪能。
 無料のコンサート。地元の若手新進音楽家の応援も兼ねて、今後も機会あれば是非聴きたいものだ。

(2006.12.3 Ms)

10/7(土) 名古屋フィルハーモニー交響楽団 第329回定期演奏会 

 ショスタコーヴィチ生誕100年記念の演奏会広上淳一氏の指揮。交響詩「10月」、チェロ協奏曲第1番、そして交響曲第15番。
 珍しく、晩年作品のみで構成された意欲的プログラム。
 広上氏はかつて、名フィルのアシスタント・コンダクターを務め、その頃にキリル・コンドラシン・コンクールで優勝(1984)。凱旋公演として、当時毎週放映されていた名フィルのTV番組で指揮姿を拝見した。顔の表情が特徴的で少年時代の私に強烈な印象を残した。その頃の写真が会場に飾られており、感無量で眺めさせていただく。なお、1988年には名フィル率いての海外公演も行い、その写真も見つつ、渡航前の練習会場の裏で楽器運搬のバイトをしていたのが私・・・ああ懐かしい。

 そんな思い出も巡る今回の公演。地元プロオケでありながら2年半ぶりに聴くのだが、世代交替も随分進んだようで、見違えるように立派な楽団になっていた。まず、最初の交響詩「10月」、私にとっては新交響楽団さんの名演(2000年4月)がずっと忘れられず、その名演あって、この作品への愛着はそう簡単には失せないのだ。その「10月」を今回まさに10月に聴くのが乙なものであるが、それはともかく、冒頭の暗く重い弦の響きからして心を捉えるに十分。そして低音金管の充実した響きも曲の重心を安定させる。第2主題「パルチザンのテーマ」は、うら寂しくもあり、しかし、秘めた決意を忍ばせているような名旋律で、このメロディーが木管群で暖かく響く様も心地よい(クラリネットの安っぽさはやや気になったが)。展開部における激しさも興奮を高めてくれたが、それ以上に、曲の最後近く、パルチザンのテーマが弦楽器で精悍に復帰する辺りの神々しさは涙モノ。そしてそのフレーズの最後で、予想外にもスビト・ピアノして8分音符の塊が順次クレシェンドして迫り来る一瞬の音の処理には大感激。良かった。

 続く、チェロ協奏曲第1番。生での体験は始めてだが何と緊張感を強いる曲であることか。第1、4楽章のひねくれたポルカ風な軽さのイメージが強かったのだが、実演に接してそれ以上に、第2楽章のあまりに抑制された悲歌、そして静寂を存分に活用して緊張を高める第3楽章、カデンツァの存在こそ、おおいに印象に残る。小編成のオケということもあって、密室でのレジスタンスの声を潜めた謀議のような雰囲気をも感じる。そのなかに、第4楽章にスターリンが愛唱した民謡「スリコ」が文字通り刷り込まれるあたり、陰口叩きのような面白さが感じられよう。
 さて演奏自体は、ソロの安定さが緊張貫く中間楽章においても確かなもので、強靭な意志を感じさせる、独奏のソル・ガベッタ嬢(まだ20代前半)の熱演は好感大。ただし、ポルカ風楽想でのノリの良さが、アルゼンチン出身ゆえか、ラテン的な明るさも感じさせ、深刻さを全楽章に覆い尽くさなかった点が興味深いアプローチと感じた(第1楽章第2主題再現の、体から搾り出すような重音の連続も、苦しさより楽しさを感じているような雰囲気だったな)。・・・それにしても、私の座席が舞台側面だったせいもあり、テュッティにおいて音があまり拾えなかったのが残念。
 オケとしては、ピッコロやコントラ・ファゴットの強調がグロテスクさを増加させていて面白い響きであった。ただ、クラリネット(1曲目と違う奏者)が、あまりに場違いなEsクラのような耳障りさで全編を吹き通した不快感は残るが。
 アンコールは、ヴァスクスの「チェロのための本」より第2楽章「ピアニッシモ」。静かな鳥の羽ばたきを思わせる擬音から始まり、寡黙な旋律が流れ始め、途中、チェリストの歌声がそれに心地よいハーモニーとして絡んでくる・・・なんと美しい。予想外の展開に戸惑いつつも、協奏曲の後よりもさらに盛大な拍手が彼女に送られたのも当然か。

 最後に交響曲第15番。全体に精密なアンサンブルに欠けた場面が多く、手放しでの喜びはない。ただし、第2楽章に光る部分が多く、感銘深し。トロンボーンのソロの音色、音程の素晴らしさは特筆したい。ま、ブレスが多過ぎたきらいはないではないが、このトロンボーン・ソロに美しさを見出すこと自体凄いことであろう。さらに、葬送行進曲が全合奏で出てくるあたりの弦楽器の悲痛な切々たる憾み節のベッタリした歌いかたも怨念めいていて背筋が寒くなる。そして、それ以上に、再現部に於ける弦楽器の寒々としたコラール。この場面での、ひとけのなさ、温度のなさ、鬼気迫る表現として深く印象付けられた。まさにショスタコーヴィチが表現したかったものが現実にそこにあるような説得力、素晴らしい。
 しかし決定的に残念だったのは、第4楽章のテンポ設定が速めで、かつ、印象的な打楽器のアンサンブルが最後まで元気が良過ぎて、神秘性が感じられないのが残念無念。ずっと第1楽章の「真夜中の玩具店」を引きづっていたようだ。最後の瞬間まで、ヤンチャ坊主のいたずらみたいな騒ぎっぷりが少々納得行かず。
 しかし、それにしたって、これだけの珍曲を並べて、数々の印象的な表現を伝えてくれた意義は高く評価したい。今後、名フィル、さらなる発展を期待したく、その成果をまた確かめに来たいもの。

 ちなみに1月前の定期もショスタコーヴィチ記念で、交響曲第12番を取りあげ、熱演であったようだ。そちらも聴いておくべきだったかなあ。

(2006.10.11 Ms)

10/7(土) 菊里高校音楽科 第59回定期演奏会

 名フィル定演の開始前の時間、高校生たちのフレッシュな演奏に接する機会を得た。ちなみに名古屋市立の高校。
 第1部の独奏部門のみの鑑賞。ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、声楽で、9名の独奏を。曲順とは相違するが楽器別に、曲目と奏者を紹介。
 ヴァイオリンは、サン・サーンスの「序奏とロンド・カプリチオーソ」(戸島翔太郎)、シベリウスの協奏曲第1楽章抜粋(杉藤万純)、ヴィニャフスキの変奏曲Op.15(瀬木理央)。全体に技術の披露としては問題無く。ただし、フレーズをどこまで持ってゆく、とか、曲全体の中で構成的にどうまとめる、といった観点ではやや物足りない面も。シベリウスはオケのみの部分をカットしての演奏で違和感あり。ピアノ伴奏による演奏が目新しくもあったが。ただ、それぞれに難曲として知られているもの、これだけの演奏を披露していただければたいしたものだ。
 ピアノは、ショパンのエチュードOp.25‐5、ドビュッシーの前奏曲より2曲(本村裕香)、ショパンの舟歌(北平純子)、スクリャービンのソナタ第2番第1楽章(井藤真緒)、ベートーヴェンのワルトシュタイン第1楽章(石川智香子)。それぞれに異なる趣向の作品で聴いていて楽しかった。演奏としても安定感もある。その中ではワルトシュタインの演奏の精悍さが心に残る。
 声楽は、スカルラッティ「すみれ」、ベッリーニ「美しい月よ」、プッチーニ「お父様にお願い(ジャンニ・スキッキ)」(原あいら)。後半のロマン派・イタリアオペラあたりは、若さゆえの物足りなさは感じる。幅広さ、深さ、が特に低音において不足気味か。しかし、バロックになると逆だ。爽やかで軽い歌声が美しい。曲にマッチした清涼感、美感、かなり印象的だったし、心に響く。大変気に入ったので、楽譜を入手した・・・自分が歌うわけにはいかないが。
 チェロ。なんと、ショスタコーヴィチの協奏曲第1番第1楽章(植村葉夏)。意欲的、かつ野心的な選曲に喝采。粗さは確かにあったが、曲にそれを許容する度量がある。重音の軋みもまた味わいとなる。悲痛な高音域の悲鳴のような叫びも心に訴えかける・・・ヴァイオリンやピアノの作品に挟まれて、チェロの音色の奥深さ、重さが際立っていたこともある。ただ、高音域と低音域で音質がかなり相違したもののように感じられた(移弦して時に同じフレーズでも違う音色に変化してしまう)けれど。しかし、それ以上に、この作品のもつパワーは感じた。高校生活の健全性の範疇に入るようなロマン的作品とは一線を画した、暗さ、アングラな雰囲気・・・・確かに、今までと会場のムードがガラっと変わった。そんなショスタコーヴィチの登場が嬉しかった・・・。
 さて、若きアーティストたちの熱演に接し、このなかでさらなる飛翔を遂げる人材がいて欲しいもの、と思いつつ、名フィルの定演にそのままハシゴ。高校生たちの室内楽も聴きたかったが、またの機会とさせていただきます。

 余談ながら、ショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第1番のプロによる演奏をその後、同じ日に聴き、それもまた感銘深く幸福感あり(上記のとおり)、さらに、CDショップにて、ショスタコーヴィチ関連のものとして、クレーメルによるヴァイオリン・ソナタの室内オーケストラ版、及びオーボエによる、ピアノ作品・バレエ作品の編曲のCDなど購入、それぞれに深い印象を残した(特にヴァイオリン・ソナタは、原曲よりも凄みがあり気に入った。ショスタコーヴィチらしい小太鼓や木琴の活用も面白く、違和感なし)。ショスタコーヴィチ・記念年の誕生日からほど遠く無い秋の1日、久々にショスタコーヴィチ三昧な充実した時間に満足・満足。

(2006.10.17 Ms) 


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