今月のトピックス
April ’00
4/29(土)、30(日) ピカソ・新響・サティ展
さて、4/22と似たタイトルで始まってしまったが、今回はショスタコの交響曲第7番「レニングラード」を聴くべく上京したネタ。
<1> ピカソ〜子供の世界〜
最近、定番となりつつある高速バスで一路東京へ。ゴールデンウィーク初日でかなり混雑するかとも思ったが予定通り順調に。午後2時過ぎに到着、まずは上野の国立西洋美術館にて、「ピカソ・子供の世界」という企画展を鑑賞。
ピカソ全生涯を通じて、子供がテーマとなった作品を集合させ、その作風の変化、子供との関わり合いを見てゆく。自分の子供をモデルにした絵はなかなか写実的で可愛い絵も多い。今回の企画の宣伝に使われていた、長男パウロの肖像は、表情もあどけなく、ピカソ展ではあるものの「一度見てみようか」と思わせるもの。そのパウロにひかれてか、GWの上野公園ということもあってか、予想外に人も多く、特に子供たちも多かった。
子供にピカソを見せるのもなかなか興味深い。天真爛漫な子供の感覚をも持ちつづけた彼の、いわゆる分かりにくい絵も、子供たちにはそれほどの違和感無く受け入れられるのだろうか?
案外、今時の子供は、「ピカソ」も「ピカチュー」の親戚程度の認識なのかもしれない。確かにポケモン的なモンスターと同じノリの絵もあったりして。
私がもっとも興味をもったのが「朝鮮の虐殺」(1951)。こんな絵があろうとは。右側に鉄仮面的なロボットの如き人間が複数銃を構える。今まさに裸体で描かれた母子たちが殺されようとしている。悲しげな表情の母たち。顔は見えないが泣く子供。殺される運命に気付かず無邪気に遊ぶ子供。なかなか衝撃的な1枚である。
南北どちらにピカソが荷担していたというわけでもない。ただ、戦争への憎悪が描かせた絵らしい。
同様なコンセプトで断然有名なのが、言うまでも無く「ゲルニカ」。今回の企画でも、「ゲルニカ」の左下に描かれた「母親と死んだ子供」の習作(1937)が数枚展示されており、その表現の変化が理解できた。また、コマに分けられたペン書きの漫画風な「フランコの夢と嘘」(1937)も滑稽な始まりから最後に「ゲルニカ」の素材へと変化していく辺り、ふと、ショスタコの「レニングラード」第1楽章の戦争のテーマの展開を思わせた。
ピカソ初期(青の時代)の絵によく見られるモティーフ、ピエロの絵も、悲しげな寂しげな雰囲気が独特だ。これも私の心惹かれる絵である。
また、晩年のパロディ的作品も楽しい。今回は、17世紀スペインのベラスケスの「マルガリータ・マリア王女」の引用、パロディの連作(1957)も展示され面白く見られた。画面中央に小さな着飾った王女ひとり。その回りに侍従たち。その構図を借用してピカソ独自な世界が展開される。こんな作品もあったのか。
道化、そしてパロディ・・・・またまた何となくショスタコが流れてきそうだな。
あと、偶然にも、先週見た(4/22分の記事)ピカソの映画で描かれていた「ラ・ガループの海水浴場」(1955)の本物も展示されており驚いた。映画では何度も何度も書きなおし、本人が「悪くなる一方だ」と話しつつ、結局、完成品がどうなったのかよく分からないまま次の絵に移っていた一品。
充分に楽しめた企画であった。6/18までとのこと。一度足を運んでみても面白いと思います。
<2> 間奏曲
展覧会のあとは秋葉原。輸入CD探し。石丸電気。先日のN響のインバルのタコ5に感化され、早速、フランクフルトの演奏で購入。あと、今年のマイブームの一つ、ブラジルのヴィラ・ロボスの作品で、組曲「ブラジルの発見」。ブラジルの発見という言いまわしもあまり良くないのだろうけど(原住民の立場からは)、今年は発見500周年。そんな年を記念して買ってみたが果たして結果はいかに?
ホテルにチェック・イン。午後8時から、NHK教育テレビでアシュケナージの特番を見る。
第二次大戦中、ナチスによって抹殺されたプラハ近郊のリディツェ村を舞台としたドキュメント。チェコの作曲家マルティヌーの「リディツェへの追悼」という作品が鍵となっていた番組。曲にも興味を寄せる。内容としては、アシュケナージがイギリスの中学生たちに、「リディツェ」の事件をテーマにみんなで音楽を作ってリディツェの人々に聞いてもらおう、というもの。アシュケナージの声を愛川欽也がやっていたが興ざめだった以外はとても見ごたえのある番組だった。日本の子供たちが、戦争を自分に引き付けて考え、自分の言葉で自分の考えを表明できるだろうか?(自分の子供の頃も想起しつつ)教育の重要性もふと感じた。
翌朝、午前9時テレビで「題名のない音楽会」を見つつ出掛けの準備。20世紀の音楽戦前編の最後の回。戦争への予感をテーマに、ショスタコの5番、ヒンデミットの「マチス」、ベルクのVn協奏曲という、そうそうたる(葬送たる?)選曲。昨日から、期せずして「レニングラード」鑑賞への布石が次々と打たれているようで気味が悪いほどだ。
池袋HMVにて、次回のダスビのため「ステパンラージンの処刑」を購入。カプリッチョ・レーベルから出た最新の録音か。初期の「寓話」2曲と、「マクベス夫人」間奏曲集も収録。
それでは、さぁ、東京芸術劇場へ!!
<3> 新交響楽団第169回演奏会
いきなり全体的な感想。これが意外な結果。
交響詩「十月」によって交響曲第7番「レニングラード」がかすんでしまった。
とにかく「十月(もしくは、十月革命)」がとんでもなく素晴らしい名演!!名曲じゃないか!!と舌を巻いてしまった。正直、私にとって「十月」は、ショスタコ晩年の室内楽的で思索的な作風から逸脱した、国家讃美的な宣伝音楽でしかなく、音楽的にも交響曲第12番第1楽章「革命のペトログラード」の焼きなおしに過ぎないという酷評の対象でしかなかった。
それがいざフタを開けて見たら、聞くものの心をグイグイとひっぱるような好演である。感激だ。
冒頭の分厚い弦の響きからして、もう尋常ではなかった。厳粛かつ、深い音楽。とにかく弦のまとまりと技術が卓越している。名古屋ではプロも含めてこんな音楽を醸し出せる団体は知らない。ピッコロ始め木管の悲鳴のようなヒステリックな叫び、金管の尽き抜けるような音、そして重厚な音、そして特筆すべきは、小太鼓の精密かつ衝撃的なリズム。演奏の素晴らしさが、作品の長所をうまく引き出していた。突っ走るようなアレグロの快さ、一糸乱れぬ疾走感が私をどんどん興奮させてゆく。
そのアレグロの中で、第2主題の歌謡性がまた引き立つ。主題提示は、可憐ですらある木管群のソロ。その歌心もまた私の心をくすぐる。いわゆる旧作の映画音楽からの引用「パルチザンの歌」、このメロディーの魅力にその後一日とりつかれることとなってしまう。中央線の車内で何度口づさんでしまったことか。この弱々しいテーマが最後近く、テュッティで大きな流れを作り出すところには目頭が熱くなる。
期待してなかったからこそかもしれないが、凄い衝撃を受けた。私の認識が甘かった。この際、宣言だ。
「私は、この交響詩「十月」が大好きだ!!」
という訳で、例の曲解がまた始まろうとしている。ただ、長大な構想なので(座礁しなきゃいいが)別に項目を設ける予定。
テーマは「20世紀最後のメーデーに「十月革命」を思う。」
・・・・・・・なんだか共産主義者みたいに思われそう??(ショスタコBeach フリーマーケットへどうぞ)
興奮覚めやまぬ中、20分の休憩はあっというまに過ぎ、さぁ「レニングラード」だ。
しかし、残念にも、今一つな印象。まず、コンディションが良くなかったことはある。鑑賞者の立場からの問題。
客の質。2つ隣の婆さんが、第1楽章第2主題後半の静かな辺りで、ビニールに包まれた飴玉をグチャグチャ言わせながら取り出すような仕草。戦争の主題がこれから始まろうという緊張の一時、バカやろう。いつも演奏開始4,5分で飴なめるのだろうか?他の作曲家の交響曲なら許されるかもしれないが、ショスタコじゃほとんど許されないぞ。
後ろでは、グースカピー。戦争の主題のクライマックスが済んでからずっと背後から鼻息が・・・・。静かな場面のたび悩ませる。
あと、これは私事だが、3年ほど前の東フィルの名古屋公演、バルシャイ指揮の演奏がとても凄かった印象をもってしまっていたこと。演奏もさることながら、名古屋の芸文、キャパが狭いせいか、あれだけの大音響が鳴りまくると許容範囲を越えて音楽が凄まじく暴力的に聴衆に襲ってくる。池袋の芸劇ではそれはない。あの戦争の主題の蹂躙ぶりに物足りなさを感じてしまった。これらは新響さんに非はない。
しかし、「十月」の好演ぶりに過度の期待を持ちすぎたようだ。そして細かなミスが連続していたのもまずかった。確かに70分の大曲、注意力、集中力の持続はかなりのものだろう。ただ、戦争の主題のボレロの部分で、ホルンが1小節早くでてしまったり、第1楽章のクライマックスで大太鼓が叩き損ねたり、その後もアンサンブルの乱れは気になること多々。さらに、ステージ左、バイオリンの後方に配置された金管バンダは立っての演奏だったが、その中でバス・トロンボーンだけが私の顔を目掛けて直接音を発射させてくるので、えらくバランスが悪く聞こえてしまった。また、全体的に金管が物足りなく感じた。アシがトランペット1番のみについていたのはかなりきつかったのでは。
そんな中で、今回、安定して私を感激させてくれていたのが、弦5部のみなさん。とにかく集団での団結力が凄かった。「十月」同様、冒頭の響きの深さは素晴らしい。そして、特別感激したのが第3楽章。冒頭の対話部分のバイオリンの歌が、朗々とたっぷり歌われていたのが深く印象的。再現部での第2主題、ビオラの長いパートソロも良かった!!きわめつけは再現部でコラールが転調して弦5部に移るところ。その部分の厚く、熱い演奏は本当に感涙モノだった。心を締め付けるような感動。同様にフィナーレの後半部の開始、サラバンド的な荘厳な部分もたっぷり弦の音を響かせていた。全合奏の発散する外面的な大音響よりも、弦の醸し出す深い奥行きのある広がりの方に惹かれるものが多々あった。
また、木管のソロも素晴らしい場面が多く見うけられた。特にオーボエの歌は冴えていた。
指揮は、小泉和裕氏。もたれる事無く、常に的確なテンポでぐいぐいと奏者そして観客をひっぱってゆくような統率力に好感を持つ。特に第3楽章、微妙なテンポの変化もうまくまとめていた。
全体的には、惜しいミスもあったし、パワー不足の感も否めなかったものの、最終的に満足のゆくものであった。アマチュアで、(それもダスビ以外で)ここまでやってもらえるとは素晴らしい事だ。プロでもひどいタコ演奏することもあるのだから。
ただ、やはり、「十月」が私の心から離れなかった。とにかく、今回は「十月」の素晴らしさに尽きる。
<4> サティ展、そしてコーダ
池袋から新宿へ。伊勢丹美術館のエリック・サティ展を見る。ただ、いきなりタコから頭の切り替えも困難なので、茶店で休憩。新宿をブラブラしてから、パリのアールヌーボーな世界へトリップ。
高校時代、環境音楽への興味からサティへ傾倒した時代もあったな。オケをやるようになってからサティは遠い存在になってしまったが、久々にサティと対面した。ジムノぺディやグノシェンヌが流れるなか、彼の書いたメモや、当時のポスター、彼のバレエ「パラード」のためのピカソのデザインした衣装など風変わりな品の数々。そして、キレイなイラストとともに一体となったピアノ作品集「スポーツと気晴らし」の原画。重厚長大な大芸術を嫌った彼の世界にホッと一息ついた。ただ、閉館間近に入館したため、サティが音楽をつけ、さらに出演もしている映画「幕間」のビデオ上演を見損ねたのが残念。この夏、新響さんが、映画上演しながら生演奏で「幕間」演奏するそうですが・・・。
たまってきた疲れを癒したのは、吉祥寺のスウェーデン料理店「ガムラスタン」。おいしい魚料理など堪能しつつ、この二日間を総括。
そして、深夜バスの出発時間までは新宿の高島屋の上のHMV。午後11時まで営業ということで重宝している。ヴァンスカ、ラハティの新譜を視聴して楽しむ。またまた飛び出すキワモノ。「フィンランディア」の初版・・・これは既にオンディーヌ・レーベルから出ている。コーダで賛歌が再現しないバージョン。しかし、今回出てきたのは「フィンランディア」の第2版・・・。これは現行版の1歩手前のバージョン。これまたコーダが聞き物。賛歌が再現しない初版、賛歌の1部が再現する現行版・・・・とすると第2版は・・・・・・ご想像にお任せします。しかし、いろいろ見つけてくるなァ。
憂き世を忘れて、20世紀の芸術の数々を堪能したゴールデンウィークであった。しかし、GW始まったばかり。後半は蓄電から放電へ。演奏活動に専念かな。
今世紀最後のメーデーに記す(2000.5.1Ms)
4/22(土) ピカソ・N響・センチュリー
4/14(金) N響コンサート 〜ショスタコーヴィチ没後25年〜 (BS放送)
4/12にサントリーホールで行われたN響定期をBSで鑑賞。
第一、こんな企画自体が嬉しいではないか。ショスタコ没後25年としっかり歌ったコンサートをN響が。やはり、ショスタコの音楽の現代における位置は着実に確かなものになっているのだろう。
まず、ムソルグスキーの歌劇「ホヴァンシチナ」前奏曲のショスタコ編曲版。2人のロシア作曲家の関係が再認識できるプログラミングなのも良い(次回は「死の歌と踊り」を取り上げる訳だし。)。演奏としては、木管ソロの繊細な受け渡しが素晴らしかった。描写音楽として「モスクワ川の夜明け」が彷彿と目に浮かぶような名曲であり、かつ、オーケストレーションも冴えている。線の細い部分が多い、緊張感を漂わせるものだが、中間、ロシアの象徴的な音である「鐘」が鳴り続ける場面の印象も強く心に残る。
ヴァイオリン協奏曲第1番。まずはミーハーな感想。ソリストのドミートリ・シトコヴェツキ、私は初対面だ。髭を生やしてかつ、中華風といおうか軍服風な襟部分のせいかスターリンに見えてしょうがない。スターリンがこの作品を心を込めて演奏するという図、自体が強烈なインパクトを私に与えた。
それはともかく、全体に遅目のテンポで冗長さも感じられたが、まずまずの好演であった。第1楽章、第1印象として、低音に粘りのある音色で良い。しかし、高音がいまいちか?ソリストの歌い方もかなり自由度が高く、少々やらしい。そのわりには、曲の流れは、ただ、全体的に淡々と過ぎていってしまったようだ。
第2楽章、ソリストの力量から判断して、もっと早く行けそうなのに、やや落ち着いたテンポ(決して遅過ぎることもないが)で、もっと推進力が欲しかった。トリオ部分の唯一のタンバリンの出番に最も感銘を受けた。まるで鞭のごとく、皮の音も爆裂する様は快感。さぁ踊れ踊れ、と言わんばかり。そのわりには全体に、自分を捨てての踊りに抑制がかかり過ぎだったような気もした。技術的には、ソロもオケも合格点なのに、不満に感じてしまうのだ。
名曲中の名曲、第3楽章、パッサカリア。これまた、余談だが、楽章冒頭部分で、ティンパニ百瀬氏と、チューバ多戸氏のツーショット映像は戦慄的であった。威圧感ある音世界と映像世界。恐さを感じないわけがない。カメラマンの感性に脱帽。この楽章はソロの独壇場だが、これまたかなり自由に歌いこんでいた。主題がソロに回ってくるクライマックスの主題の弾き方もねばぁっこかったなぁ。
カデンツァは、やたらと遅いもったいぶった感じで始まったが、比較的早い段階から、不協和の重音を荒々しくぶつけ、また場所によっては、スピード感ある弾きっぷりで面白く聞けた。ただ、脚色が濃くって聞いてて疲れる面はあるかも。フィナーレが見え始める辺りで超加速。フィナーレの速度設定だけは満足。鬱屈したものが爆発する過程はよく伝わってきた。
第4楽章。快速に飛ばし満足。ソロの荒々しさも良い。ただ、木琴の存在感はもっと欲しかった。
全曲通してはまずまず、といった感想。これぞ、名演、とまでは感じられなかったが、充分楽しめた。
一方、交響曲第5番は、なかなか新しい解釈(自分が未経験なだけかも)を随所に聞かせてくれ、「まずまず」以上に興奮度も高い名演であったと感じた。指揮者について書くのを忘れていたが、インバル。意欲的な解釈、とはおもにテンポに関してのこと。
まず、第1楽章冒頭から、通常聴くテンポよりかなり前目前目と進む。おかげと、天下のN響もパート内でずれることおびただしい。なかなか経験できないことだ。一つのフレーズが終わり、次のフレーズを全く違う楽器が演奏し始めるとき、次から出る音が、前のフレーズにかぶってしまうこともたびたび。やや見苦しい、聞き苦しい印象もあった。しかし、曲の流れとして、沈鬱、停滞感、恐る恐る動き出す、というイメージを払拭したもので耳にタコが出来るほど聴いているタコでありながらも、大変新鮮に感じられたのが嬉しかった。そんな解釈が逆に作用して、展開部のアッチェレが一度途切れる部分、ティンパニが初登場するラッパの行進曲が随分遅目に感じられ、威圧感あるこの部分の、今までの流れに逆らうような違和感ある登場に、初めて経験するような強烈なインパクトが与えられていた。さらに、クライマックスの後の、ホルンとフルートのカノンは、軽快なテンポ故に、「カルメン」の「ハバネラ」との親近性がおおいに増しており、私は狂喜、驚喜である。
この前向きなテンポ感は、第3楽章もそうで、特に冒頭第一小節目のあっさりさは、驚き。緩徐的部分を前向きに演奏することで、必要以上に沈痛な表情がやわらげられ、一種、強さを感じ、とにかく、弱々しさを全面に訴えかけるものでなくなっているところがおおいに面白く感じた。
第2楽章での驚きは、第2のテーマ、木管により提示される付点リズムの連続するテーマの指揮の振り方がオーバーなほど腕を回転させ生き生きとしていたこと。そして、そのフレーズの最後、ホルンのテーマの一小節前の大袈裟なrit。驚き。しかし、そのritが次の尊大なホルンのテーマをうまく導き出していたようだ。愉快な演奏。そして、トリオのバイオリンソロが、主部の破天荒さに比べて恐ろしく真面目で、かっちりとしたお坊ちゃま的解釈で大笑い。すごく、ソロが上手かった。その上手さが、すごく違和感あるもので、作られた作為的ギャグをはるかにしのぐおかしみを感じた。やっぱ、これが正解なのかな?ここでギャグを作らない方が良さそうだ(どこかでも書いたネタだったような??2000年2月のトピックスのダスビの最後の方に書いたっけ)。
第4楽章。冒頭の重いテンポ感、素晴らしい。そして、直後のアッチェレも、あまりアクセルを踏まずふんばって、さらに素晴らしい。そして、バイオリンのテーマが出る前の8分音符の連打、ホルンが聞こえず弦だけで凄みを出してて、さらにまた素晴らしい。そして、徐々にテンポを上げるという至難の技、これを弦楽が主体になってうまい具合に、いつの間にやら超高速にもっていく行き方が最も素晴らしい、と感じた。弦の充分統制されながらも、かつ、非常に高いテンションが、テレビでありながらもひしひし伝わって来た。興奮度の高い演奏で満足。コーダもそのテンションはオケ全体に最後まで維持され、感動の幕を閉じた。これ、ほんと、名演だったんじゃないか?
(2000.4.15 Ms)